本日はイ-スタ-ということで、いつもの続きの箇所ではなく、本日与えられた聖書箇所は、復活の主イエスの顕現(イエス様が現れて下さったいう意味ですが)その場面です。
今日(こんにち)、聖書のお話を喜んで聞いて下さる方でも、この「復活」の話になると、信じられないと言う人が多いようです。
ある人は、キリスト教伝道の障害となっているとさえ言います。「キリスト教の教えは良いが、復活はちょとねえ、」と言って。
それどころか、聖書には、弟子達でさえ、主イエスの復活を信じていた者は一人もいなかったと記されています。
また、主イエスの復活の事実を御使いに知らされた女性達が、主イエスのみことば<十字架と復活(ルカ18:31~33)>を思い出し、使徒達に一生懸命知らせましたが、彼らは女性達のたわごととして信じなかった。(ルカ24:1~11)ということも記されています。
という訳で、今日、多くの人たちが「復活」を信じないのはある意味当然のことと言えるのかもしれません。
しかし、そういった人達にとってはキリスト教伝道の障害とも言える「復活」は、実は私たちキリスト者にとっては、十字架と共に救いの原点であり、信仰の基本であり、「永遠のいのち」を保証するものとして大変重要です。
パウロもこう宣べています。「もし、キリストの復活がなかったのなら、私たちキリスト者たちの信仰は単なる妄想<むだな、実のないもの>であり、私たちは今もなお、自分の罪の中にいるのです。・・・・もし、私たちが、この世だけの希望を持っている<そしてそれだけだ>とすれば、私たちはすべての人々の中で最もみじめな<あわれむべき>者です。(Ⅰコリント15:17・・・19)詳訳聖書」と。
そして、本日の聖書箇所には、二人の主イエスの弟子が、主イエスが共にいて下さっているにもかかわらず、主イエスであることがわからなかったという不思議な出来事が記されています。
この不思議な事実は、何故、彼らが、復活の主イエスを間近に見ていながら、復活が信じられなかったのか、その理由を私たちに教えてくれています。
この二人の弟子は、クレオパ(18)夫妻と言われています。もし、そうであるならば、クレオパの妻は、主イエスの十字架のそばにいた姉妹の一人(ヨハネ19:25<クロパの妻マリヤ>)だったと思われます。
ですから64節の「彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。」という話の内容は、主イエスの十字架の出来事を間近に見たことや、復活のこと(ルカ24:20~24)だった筈です。
その時、彼らは、主イエスから、その話は「どんなことですか。(19)」と聞かれると、
19節~24節で「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや、議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちの何人かが私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエスさまのからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。
それで、仲間の何人かが墓に行って見たのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」と言って、何とイエス様ご自身の身に起こった出来事をご本人を前にして語ったのです。
ここで、私はある違和感を覚えます。主イエスの復活を信じないまでも、その事実をわかっていながら、何故彼らは、もしかしたら、、くらいまで思いが至らなかったのでしょうか。
25節の「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。」と仰って嘆かれたこともわかるような気がします。
では、主イエスの墓が空であったことの事実を知りながら、主イエスが復活されたことに思いが至らなかったのは何故なのでしょう。
私は、彼らの「私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。(21)」と言っている言葉に、彼らが主イエス・キリストの復活に思いが至らなかったすべての原因があると考えます。
それは、彼らの求める救いの内容です。彼らだけではなく、主イエスの十二弟子達さえもそうでしたが、彼らの求める救いは地上での自己中心の願望に過ぎなかったということにあります。
「イスラエルの解放の願い」そのものが悪いのではありません。
しかし、それは神が与えてくださる救いではなく、自分の願いを満たす救いを求めている事であって、神をその道具にしているという点に気付いていないことこそに原因があると思います。
「この方こそイスラエルを解放する方だと、望みをかけていました。」という願いは、神が与えてくださる救いから離れた、見当違いの願いです。
だからこそ、彼らの望みが、主イエスの十字架の死によって、失望、悲しみとなってしまい、共におられる主イエスを見ていながら、見えなくなってしまったのです。
また、こんな事もありました。それは復活の主イエスに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。(使徒1:4)」すなわち「聖霊によるバプテスマを授けられるまで、待ちなさい。(使徒1:5)」と命じられた使徒たちが、「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。(使徒1:6)」と質問したように、地上の王国のことしか頭になかったことと思考の根っこは同じです。
この時、主イエスは、彼らに「聖霊によるバプテスマを授けられるまで、待ちなさい。」と命じておられます。それは、何故でしょう。
パウロが「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です。』と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)」と宣言しているように、主イエスの復活を信じるということは、聖霊を受けなければわからないことなのです。つまり、神様が働いて下さらなければわからないことなのです。
つまり、人間にとって最も大事なことは、神の国を願うことであり、神に帰り、神と共に生きることであり、永遠への思いです。それに気づかせてくださるのが、主イエスご自身であり、聖霊なのです。
さて、このエマオ途上の二人の話に戻りますが、先ほどから申し上げているように、復活の主イエスが彼らと共に歩んで下さっているのに気がつかないという、あり得ないと思えるほどのこの鈍さの原因は、彼らが、主イエスが十字架で死なれたことで、すべてが終わったと思い込んでいたことにあります。他の弟子たちも同じです。
そしてエマオ途上の二人は、どこに向かっているか、というと、彼らは、失望の中で、主イエスへの信仰を捨て、帰宅の途中であったのです。
しかし、確かに、主イエスはこの二人に嘆かれましたが、でも、主イエスは彼らを決して見捨てませんでした。
主イエスは彼らに問われました。26節「キリストは必ず、そのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」と。
主イエスはかつて彼らに語られた「十字架と復活」の預言(ルカ18:31~33)を思い出させようとされたのです。
それから主イエスは、27節「モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」のです。
何と、主イエスは懇切丁寧なお方なのでしょうか。
そうこうするうちに、一行は二人の目的地エマオの村に着きました。
しかし、彼らが引き留めなければ、28節に「主イエスはもっと先へ行きそうなご様子であった。」と記されています。
主イエスは、決して意地悪でそうされたのではなく、彼らに求めがなければ、それ以上無理強いはなされないということでしょう。
救いに与るのは、主の御業であり、神の側からですが、それを求めなければ受けることはできません。人間の側からなすべきことは求めることです。→参照;ルカ11:9
29節「彼らが『一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています。』と言って強く勧めたので、イエスは彼らと泊まるため、中に入られた。」のです。
主イエスはおそらく、彼ら自身の気付かない真の求めに、彼ら自身が気付くようにされたのではないでしょうか。
この光景は黙示録3章20節の「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」の御言葉のとおりであることに気づかされます。
さて、主イエスは彼らとともに食卓につかれました。そして、パンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡されました(30)。
この食事は、明らかに、主イエスの過ぎ越しの食事であり、聖餐です。十字架の罪の贖いによる契約を表すものです。私たちも今日、この主の聖餐に与りましたね。
このことによって、彼らの目が開かれたのです。彼らは、主イエスの十字架の死で、すべてが終わったのだと思いこんでいました。
しかし、主のみからだであるパンをいただいたとき、主イエスの十字架の死は終わりではなく、罪の贖いの完成である復活の始まりであることがわかったのです。
そして、真に目を開けて、復活の主イエスを見たのです。死なれた主イエスではなく、生きておられる主イエスを。
だから、彼らは興奮しながら、証しし合ったのです。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心は内に燃えていたではないか。(32)」と。
「心が燃える」、凄まじい表現です。それまで落胆して、意気消沈していた心に正にダイナマイト(火の玉)をぶち込まれたように、抑えきれない、燃えるような思いです。
しかし、これは当然です。これはキリストによるものだからです。
二人は生きた主イエスに出会い、その主から生きた証しを聞き、聖霊に動かされたからです。
この二人の喜び、感激が分かるでしょうか?
その二人はその後どうしましたか?
彼らは、その喜びを他の弟子たちに伝えるためにエルサレムへと引き返した、とあります。
詳訳聖書は、「心が燃えていた」を「心が非常に動かされた」とも訳しています。感じて動かされた、要するに「感動した」ということです。
何故、感動したのでしょうか?
それは、彼らが主イエスと人格的に出会ったからです。教理ではなく、心と心が、霊と霊が出会ったからです。
私たちキリスト者の使命は伝道です(マタイ28:19)。
しかし私たちは、主イエスの復活の事実を信じさせるために、人を説得する必要はありません。それは、主イエスが、御霊様が、導いてくださる事だからです。
私たちの側からすることは、喜んでいる姿、すなわち、私たちの「心が燃え」私たちの「感動」している姿を見せることです。
その私たちを見て、人は復活の主を、生きておられる主イエスを見るのです。
それが、真の伝道です。今日はイ-スタ-です。主の復活をお祝いする日です。それは単なる行事ではありません。
そして今日、2026年度の最初の主日において、私たちはここで自分に問いましょう。
「私の心は内に燃えているか、感動しているか、そして喜びがあるか」と。
そして、お互いに問いましょう。「君の心は燃えているか、.感動しているか、喜びがあるか。」と。
そして、この燃える心を持って、また新たに、1年目を歩んで参りましょう!
