さて、今日は先々週からの続きです。前回はパリサイ人の家で、おしみなく高価な
香油を主イエスの足に塗ってくれた女性の信仰を見て来ました。本日はそれからの事
です。
主イエスは、十二弟子達を従え、町や村を次々に旅をしながら、神の国の福音を宣
べ伝えておられました(1)。
その「神の国福音宣教団」の一行には、男性達だけではなく、マグダラのマリヤ、
ヘロデの執事のクーザの妻ヨハンナ、スザンナ、その他大勢の女性の弟子達が付き
従っていました(2~3)。
見逃しがちですが、主イエスの宣教団を、影で、いいえ、本当の意味で支えていた
のは、この女性達です。
ルカの福音書は、「女性の福音書」とも呼ばれるにふさわしく、当時の男尊女卑の
時代にあって、男女差別の全くない主イエスの視点で、女性達を紹介しています。
この女性達の中に、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナがいます。ヘロデとは、当時
の国主ヘロデ・アンテパスであり、その高官であったと思われます。
3節に「自分の財産をもって彼らに仕えていた」と記されている様に、彼女は財
産家であったと思われます。その財産は、当然その夫によるものであったか、あるい
は彼女自身が裕福な財産家の娘であったのかもしれません。
そしておそらく、その夫の許可を得て、この宣教団の伝道旅行を共にしていると思
われるので、主イエスの神の国の福音が、彼女の夫を含む、当時の上流階級にも及ん
でいた事が分かります。
また、2節に「悪霊や病気を治してもらった女たち」とありますので、彼女も、主
イエスによって悪霊か大変な病気を癒された女性達の一人です。
彼女はその感謝の応答として、自分に与えられた賜物を自分で独り占めするのでは
なく、主イエスと、その弟子達の為に用いたのです。
主イエスとその弟子達とは、この時点では不完全であっても、キリストを頭とする
体です。すなわち「動く教会」です。
ですから今日で言うならば、彼女は教会に自分の財産をもって仕えたのです。
そして彼女は、埋葬された主イエスの体に香油を塗る為に、週の初めの日の明け方
近くに、マグダラのマリヤと共に墓に行き、空の墓を見、天使によって主イエスの復
活を、11人の弟子達に知らせた女性達の一人です。先週見ましたね。
そしてこの女性の弟子達の中には、おそらく下層階級と思われる女性、マグダラの
マリヤも共にいたのです。スザンナについては詳細は分かりませんが、その他の女性
とは、天使によって主イエスの復活を知らされ、復活の主イエスに出会った(マタイ
28: 9)、ヤコブの母マリヤ(ルカ24:10)、サロメ(マルコ16: 1)等でしょう。
注目すべきは、この女性の弟子達は、上流階級と下層階級の女性達が一つとなっ
て、主イエスとその12弟子達、男性の弟子達の為に仕えていたことです。
この様子は、現代の教会の模範となります。異なった背景を持ち、異なった性格の
女性達が一つとなって、この宣教団を支えているからです。
具体的には、主イエスと男性の弟子達の身の回りの世話、食事の世話等を行ってい
たのでないかと思われます。
彼女達は、直接、福音を語る事をしなかったようですが、その宣教団の福音伝道活
動を支える最も重要な役割を担っていたのです。
以前、私はJECAの奥多摩バイブルシャレー(0BC)のキャンプ委員であった
時、0BCの小学生キャンプのキャンプリーダーとして、奉仕していました。
バイブルキャンプの目的の第一は、神の国の福音を子ども達に伝えることです。で
すから、講師、キャンプリーダー、カウンセラーの働きは重要です。
しかしそれ以上に重要な働きは、それらを支えるOBCのスタッフの働きです。グ
ランドワーカーやキッチンスタッフの働きがなければ、キャンプそのものが成り立た
ないのです。
主イエス・キリストの女性の弟子達の働きは、このキャンプスタッフの働きに似て
います。
そして、彼女達は、男性の弟子達のように、結局は男性にありがちな野心による権
力争いをしたり(ルカ9:46、22:24)、主イエスが十字架にかけられる前夜に、ユダヤ
人指導者達によって差し向けられた群衆達に捕らえられた時、主イエスを見捨てて逃
げ去ったり(ルカ22:31、マタイ11:31、26:56)せず、主イエスの十字架の側に立って
(ヨハネ19:25)、主イエスの十字架の死を見届けており(ルカ23:49)、主イエスの遺体
が納められた墓を見届け(マルコ15:47、ルカ23:55)、安息日が終わった(マルコ16:1)
週の初めの日<日曜日>の早朝に、準備していた香料を持って、墓に行き、主イエス
の復活を最初に目撃したのです(マタイ28: 9、マルコ16: 9、ルカ24:10、ヨハネ
20:14~18)。
こうして見ると、女性の行動はあれこれ利害など考えず、一途な思いに突き動かさ
れて、ただ、”良いこと”のために行動するのだなあと思わされます。
さて、福音記者ルカが、この女性の弟子達の筆頭に上げているマグダラのマリヤに
ついて、ここでは注目しましょう。
彼女の名前に冠せられた「マグダラ」とは、ガリラヤ湖の南西に位置する地名で
す。つまりマグダラ出身のマリヤという意味です。
彼女は、2節で「七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリ
ヤ」と紹介されています。
この悪霊に憑かれるということがどんな状態であるかは、マルコの福音書5章 1節
から 5節に、悪霊に憑かれた人の様子が記されています。
その人は、墓場に住みついて、暴れ回る為、鎖と足かせでつながれていたのです
が、その足かせを砕き、鎖を引きちぎり、誰も彼をつないでおくことができなかった
のです。そして彼は、夜昼と無く、墓場や荒野で叫び続けていたのです。(=ルカ 8:
26~29)
そしてこの人に憑いた悪霊は一人ではなく、その名を「レギオン<ローマ軍最大の
軍団で6千人編成>」と言い(マルコ 5: 9)、大勢であることが記されています。
そして、悪霊に憑かれたマグダラのマリヤの様子について、具体的に記されていま
せんが、「七つの悪霊」の「7つ」とは、その数を示しているのではなく、複数、そ
れもかなりの量あるいは質を表しています。
例として、主イエスが、神の赦しについて「七度を七十倍(マタイ18:22)」と言わ
れたことも、その数そのものを示しているのではなく、完全数の7を70倍という表
現によって、永遠を表しているのと同じです。
ですから、主イエスに癒される前の彼女の苦痛がどんなものであったかが想像する
ことができます。
おそらく彼女は、自分の精神状態を制御できなくなっており、自分自身と対人関係
に大きな問題を抱えて、主イエスに出会う前の彼女のその状態は絶望的なものだった
と思われます。
しかし、主イエスに出会い、悪霊から解き放たれた彼女の世界は一変したのです。
彼女のその感謝はどれほどであったでしょう。
彼女のその感謝の思いがどれほどであったのかは、その後の彼女の行動によって推
し量ることができます。
四人の福音記者が、いつも彼女の名前を筆頭に記している(ヨハネ19:25を除く)こ
とから、彼女が女性の弟子達の中でリーダー格であったと思われます。
彼女(と、その他の女性の弟子達)は、男性の弟子達が主イエスを見捨てて逃げて
しまっても、十字架の最後の瞬間まで、主イエスの近くから離れず、胸が張り裂けそ
うな思いで、主イエスの十字架の死を見つめていたのです(ヨハネ19:25)。
福音記者ヨハネによれば、彼女は、朝早くまだ暗いうちに、主イエスの死体に香油
を塗る為に、埋葬された主イエスの墓に来て、主イエスに対する愛を示しています
(ヨハネ20: 1)。
そして、復活の主イエスに最初に出会った女性であり(ヨハネ20:14~16)、復活の
主イエスの最初の告知者として用いられています(ヨハネ20:17~18)。
主の親しい友と呼ばれるヨハネや、一番弟子ペテロではなく、彼女にその特権が与
えられたのです。
彼女の行動、すなわち彼女の献身的な奉仕のすべては、主イエスへの愛がその源泉
です。
主イエス・キリストに救われたその体験から、溢れ出る感謝の応答です。彼女は、
過去、救われる以前のその惨めさを決して忘れなかったからです。
さて、この女性の弟子達の記事が、前回学んだ「罪深い女」の記事(ルカ 7:36~
50)の後に続く記事であることに注目しましょう。
マグダラのマリヤ達の主への奉仕は、前の記事の「罪深い女」が、その罪の自覚の
度合いに正比例した恵みへの応答(その罪への自覚が深かったが故に、その恵みへの
応答も深いこと)であったと同じように、主イエス・キリストに救われたことへの喜
びの深さの故に、その奉仕の深さがあるのです。その奉仕の源泉は、主イエスへの愛
による、溢れ出る感謝です。
受洗準備クラスで、キリスト者、具体的には教会員としての奉仕について学びます
が、教会の奉仕について、教会員だから奉仕しなければならないと考えるならば、そ
れは大きな間違いです。
パウロは、どんなに一生懸命であり、熱心であっても、愛がなければ無に等しい、
と言い切っています(Ⅰコリント13: 1~ 3)。
そして、私達のその愛とは、主イエス・キリストへの溢れ出る感謝、すなわち愛で
す。ですから、私達の奉仕とは、その全ての源泉が、主イエス・キリストへの愛の応
答でなければ、何の価値もないのです。
しかし私達は、マグダラのマリヤの様な七つの悪霊から解放された経験をしていな
いから、という言い訳をしがちです。
しかし、それも大きな間違いです。もし貴方がその様に考えているなら、貴方は自
分の罪の贖いを過小評価しているのではないでしょうか。いいえ、全く分かっていな
いのかもしれません。
先週主日は礼拝の中で、主イエス・キリストが弟子達<私達>に命じられた聖餐式
を執り行いました。しかし、主イエスが「わたしを覚えてこれを行いなさい。(ルカ
22:19)」と言われたことは、単に主イエスを思い出しなさい、という意味ではありま
せん。
主イエス・キリストが十字架で死ななければならなかったほどの自分の罪の贖いと
は、マグダラのマリヤが体験した、悪霊からの解放と同じ、いいえ、それ以上であっ
たことを覚える為です。
パウロは、あなたがたは、悪魔の支配の下で、それに従って歩んでいた者、自分の
欲望の中で生き、その罪の中で死んでいた者であったが、主イエス・キリストの十字
架の死による罪の贖いの故に、死んでいたのに生きる者とされたのだ、ただ恵みによ
るのだ(エペソ 2: 1~9)、と宣べています。
ですから、自分はマグダラのマリヤのような経験をしていないから、などと言うの
は、自分の罪の贖いが、どれほど大きな恵みであったかが、全く分かっていないが故
の言い訳となってしまっていることが分かると思います。
ここでキリスト者でない方にも良く知られている、聖歌 229番「驚くばかりの恵
み]という賛美がありますが、アメイジンググレイスという英語名で有名です。
そこに出て来る歌詞は、「驚くばかりの恵みなりき、この身の汚れを知れる我に」
です。ここで私達は、この聖歌を賛美するとき、この歌詞の通りに告白しているのか
を自分に問わなければなりません。
マグダラのマリヤを筆頭とする、女性の弟子達の献身的な奉仕の様子は、教会の制
度に従っているのではなく、ただ、主イエス・キリストへの愛だけに基づいていま
す。そしてそのキリストへの愛は、自分の罪深さの自覚による救いの喜びに正比例し
ています。
さあ、私達もまた、この救いの喜びをもって、この女性の弟子達の列に加わりま
しょう。そして、命の終わりまで、主イエス・キリストに仕える者でありたいと思い
ます。
