2026/2/15(日) 『民(私達)を顧みる愛』ルカの福音書7章11〜17節:村松 登志雄 牧師

本日の聖書箇所は、主イエスが今まで多くの癒しをされて来た中で、病からの癒しや悪霊からの解放ではなく、直接的な“死”からの癒しを取り扱っています。

死は、死なれた遺族にとって耐えられない事です。
そして、その死の中でも、子どもが死ぬという事は、親にとって、自分が身代わりとなって死にたいと思うほどに、悲しい事です。また、その事によって、その人のその後の人生が狂ってしまうほどの事です。
この逗子福音教会にも、その歴史の中で、その経験をなさり、すでに召された方がおられます。その当時の教会の兄弟姉妹方はその方に対して、どのようにしても、どんな言葉によっても、慰める事などできない事を知られたことでしょう。
もしあえて、唯一できることと言うのなら、その悲しみに一緒に寄り添う事以外にない、と思われた事と思います。

民法テレビキリスト教番組「ライフライン」の元司会者でありメッセンジャーでもあった榊原寛牧師は、御自分でもその経験をされ、その時の悲しみの様子を語っておられます。(「それでも主が共に」p.32)
「その日は初夏の陽気でした。学校から帰って来た六歳になる次男は、「遊びに行ってきます」と出かけて行きました。
しばらくしてから、「ヤー君が自動車に轢かれた!」と息子の友達が報せに来ました。ドキッとはしましたが、どこか怪我でもしていないかと心配した程度でした。
しかし駆けつけてみると、大きなダンプカーに轢かれた息子が全く動かずに横たわっていました。
私は、道路で子どもを抱きかかえながら、「神様、返して下さい。私の命をお取りになっても結構ですから、子どもを返して下さい!」と泣き叫びました。
検屍に長い時間がかかりました。やがて息子の遺体は、頭から足のつま先まで包帯で巻かれ、柩に入った姿で病室から出てきました。私は柩の中に両手を入れ、息子の体にさわりながら家に帰って来ました。
私達家族は悲しみのどん底に突き落とされました。とても牧師は続けられないと思いました。これから先、生きていく事さえできないと思いました。事故から数十年も過ぎているのに、いまだに胸がかきむしられる様な気持ちに襲われる事があります。
・・・・ 親にとって子の存在は、子を失うより自分が代わりに死んだほうがどんなにいいかと思えるほどなのです。・・・・」と。

聖書に戻りますが、12節で主イエスは、ナインの町(カペナウムから南西へ一日の道程にある町)で、やもめとなった母親の一人息子が死に、その葬儀の行列で、町の人達の大勢が、その母親に付き添っているのをご覧になりました。
おそらくその母親は悲しみのあまり、まともに歩く事など出来なかったのでしょう。

13節「主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた」のです。
以前の訳では「かわいそうに思う」と訳されていましたが、これは単なる同情の言葉ではありません。原語(<ギ>スプランクノス)の意味は、心臓や内臓や腸(はらわた)を揺り動かされることを意味します。ですから、心の奥底からの深い思いを持って、という意味です。
ここで私は一つの言葉を思い出します。妻が昔、私に教えてくれたのですが、沖縄にはこのギリシャ語と同じ意味を持つ言葉があるそうです。

“ちむぐりさ”という言葉で「肝苦りさ」、肝が苦しいと書きます。つまり、内蔵を表す肝が引き千切られるような苦しさ、痛みを指す言葉だそうですが、この時イエス様は正に、この内蔵をも揺り動かされるような思いを持って、その母親をご覧になったのでしょう。

私達の主イエスは「私達の弱さに同情出来ないお方ではありません。(ヘブル 4:15)」というみことばの証言がこのお姿にあります。
このみことばは、福音書の中で主イエスについて何度も宣べられています。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒された。(マタイ14:14)」
「イエスは弟子たちを呼んで言われた。『かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。』(マタイ15:32)」
「イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。(マタイ20:34)」
「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。(マルコ1:41)」などがあります。

主イエスは、夫を亡くし、そのうえに一人息子を亡くして、嘆き悲しむ、その母親に言われました。「泣かなくてもよい」と。
しかし、私達はその様に言う事は決してできません。私達に出来る唯一の事は一緒に悲しむ事だけです。どうして「泣かなくてもよい」などと言えるでしょうか。
このみことばは、主イエスにのみ言える言葉です。罪の贖いの為の十字架の死から三日目によみがえり、その罪の死に勝利された主イエスにのみ言える言葉です。
ですから、この御言葉は、昔流行った「千の風になって」の歌の様に、「私のお墓の前で泣かないで下さい。・・・・ 私は千の風になって生きています。」という情緒的な内容で人の心を慰めるものとは全く違います。(この歌を中傷する意図はありません。)

主イエスが「泣かなくてもよい」と言われたのは、現実に確かなものとして言われたのです。何故なら、主イエス御自身がその死を滅ぼされたお方であるからです。
パウロはこの様に宣べています。「今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。(Ⅱテモテ 1:10)」と。

また主イエスが「近寄って棺に触れられる(14)」という事にも注目したいと思います。このことは、律法に規定されたきよめの規定(民19:11P274)を意図的に無視した行為であります。そして、そのようにして葬儀の行列を止める事などあり得ない非常識な事ですが、この時の主イエスの行為は、その母親の悲しみだけを見つめておられたが故の愛に溢れた行為だったのです。そして主イエスはその愛と共に、神としての権威をお持ちでした。
そこで主イエスは権威を持って言われました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。(14)」と。「すると、その死人が起きあがって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。(15)」のです。

福音記者ルカは、医者であったと言われていますが、彼は医学的にはあり得ない奇蹟そのものを強調しているのではありません。
私達が信じている主イエス・キリストは、「死をも滅ぼすお方なのだ」、「復活の主なのだ」と、福音を宣べているのです。

しかも、このお方は、いつも「私達の弱さ」に「腸を揺り動かすほどの深い愛をお持ちのお方なのだ」と、主イエスの「私達を顧みられる愛(16)」を伝えているのです。

ここで注目したいのは、この癒しが本人の信仰を伴わないものであった点です。ちなみに前回の箇所では、しもべの癒しが百人隊長の信仰に因る所が大きかったものでした。しかし、今回の癒しは、イエス様ご自身の深いあわれみに因るもので、人としてのイエス様の情動をよく表した箇所と言えるでしょう。
そして、16節「人々はみな恐れを抱き、『偉大な預言者が私たちのうちに現れた』とか『神がご自分の民を顧みて下さった』と言って、神をあがめた。」とありますが、これは神としてのイエス様を表していると言えるでしょう。

さて、先ほどの榊原寛牧師の回顧録には続きがあります。それは「息子さんを失って、自分が身代わりになって死にたい、と願ったそのとき、『実に、そのひとり子をお与えになったほどに(ヨハネ 3:16)』私を愛していて下さっている父なる神の愛を知った」、と証ししておられるのです。
そうです。悲しみだけに終わらず神のみこころを受け止められるに至っておられるということです。

私たちも多くの人が経験します。最も愛する身近な人の“死”という現実を。そしてこの時『私もこの母親のように愛する人を生き返らせて欲しかった』と願う事があるかもしれません。いや願うでしょう。
しかし神は静かに示しておられます。この世の不条理を超えた神の恵みがあることを。それは、私達の信じる神は、実に、私達の悲しみを遙かに越えた悲しみを味わわれ、それを通して、私達に復活の希望という信仰を与えて下さっているという事実を。

それだから、主イエスは私たちにも仰っているのです。「もう、泣かなくてよい」と。それはこの母親に言われた(すぐ生き返るから)「もう 泣かなくてよい」という事を越えた「あなたはもう死の支配下にはない。死をも勝利する復活のいのちが与えられているのだから」という意味で「もう 泣かなくてよい」と仰っているのです。

ですから、この朝、私たちは私たちの全てをご存じのイエス様のこの優しい愛に溢れた語りかけを心に受け止め、力強くまた一歩を踏み出して行こうではありませんか!