2026/2/8(日) 『御言葉への信頼』ルカの福音書7章1〜10節:村松 登志雄 牧師

主イエスは、平地での説教を終えられると、カペナウム(ガリラヤ湖北西岸の、ダマスコ通商路上にある繁栄した町で、ペテロとアンデレの家があり、主イエスのガリラヤ伝道の拠点の一つ)に入られました(7:1)。
そこで、主イエスが多くの人々を癒された(ルカ 6:17~18)ことを聞いた、ある百人隊長が、その町の長老達を送って、彼のしもべの病を癒して下さる様にお願いしました( 7: 3)、というのが今日の内容です。

ここに登場する百人隊長についてですが、ローマ帝国の軍隊というのは、一軍団が六千人で編成されており、更にその中が六十の百人隊に分けられており、その百人の長が百人隊長です。
ここで興味深いのは、新約聖書に登場する百人隊長達は、皆信仰深いということです。ここに登場する百人隊長を始めとして、主イエスの十字架上の死を見て、「この方は本当に神の子であった。(マタイ27:54、マルコ15:39、ルカ23:47)」と言った百人隊長、ペテロから洗礼を受け、キリスト者となった百人隊長コルネリオ(使徒10章)等が有名です。
その他にも、聖書に登場する百人隊長は人格者が多いのです。例えば、キリストの大伝道者パウロを含む囚人達を乗せたロ-マへの護送船が難破した為、兵士達が囚人達を殺そうとした時も、パウロのことをあくまでも助けようとしたのも、百人隊長でした(使徒27:41~44)。
何故、そうなのかなと考えてみますと、百人隊長の上に千人隊長(使徒22:26)がいますから、百人隊長というのは、会社で言うなら、課長、すなわち中間管理職のような者達です。いろいろな意味で、一番きつい仕事をこなさなければならない立場にあります。
ですから、戦争時は、その最前線で兵士達と共に戦う人達ではなかったかと思います。ですから、人格者でない百人隊長には、いざ戦いの時、兵士達がついて行かないのです。
会社では、上司にも部下にも、人望がないと、課長職は務まりません。
また、百人の兵士の長として、彼らの命を預かるという責任を持ち、いつも生死を見つめていますから、その中で、人生の儚さ虚しさも実感し、神に対する信仰心も普通の人よりも強く芽生えたのではないかと思います。

福音記者ルカは、この百人隊長が直接、主イエスの許に行ったのではなく、ユダヤ人の長老を送っている事を記しています。
おそらく、この百人隊長に人望があったので、ユダヤ人の長老達が、彼の代わりに、主イエスの許に行く事を買って出たのではないかと思います。
主イエスの許に行ったユダヤ人の長老達は、主イエスに、彼の為に熱心にお願いし、「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。私たちの国民を愛し、私たちために自ら会堂を建ててくれました。(7:4~5)」と、主イエスに推薦しています。
ですから、この百人隊長は、明らかに、ローマの兵士でありながら、ユダヤ人の神、天地創造の神、唯一の神に対する信仰を持っていた事が分かります。
そして、彼が「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒されます。(マタイ8:8)」と言っているのは、謙遜であることと、彼がまだ、ユダヤ教に改宗していない為に、神の民ではなく、異邦人であるという認識を強く持っていたからではないかと思います。
また、この百人隊長の自分のしもべに対する愛情にも驚きます。「しもべ」とは「奴隷(<ギ>ドウーロス>)」のことです。ローマ帝国においても、いつの時代においても奴隷は人間として認められていません。アリストテレスは「奴隷は生きている道具であり、道具は命のない奴隷である」と言ったそうです。ですから、この百人隊長の態度に驚くのです。

福音記者ルカは、「ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべ(7: 2)」と記しています。ですから、この百人隊長にとって、かけがえのない特別なしもべではなかったかと思います。
福音記者マタイは、自分のしもべの癒しを主イエスに切に願っている百人隊長の言葉を記しています。「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます。(マタイ 8: 6)」と。おそらく百人隊長は、かつて主イエスが、「中風の人」を癒された事(ルカ 5:17~26)を聞き、知っていたに違いありません。

主イエスは、その願いを聞かれると、その百人隊長の家に、その願いを伝えに来たユダヤ人達と一緒に出向かれました(7: 6)。
しかし、この事もユダヤ人社会では異例のことです。当時のユダヤ人達は、異邦人の家に出向くなどという事は決してしませんし、非常識なことだったからです。
しかし、主イエスは違っていました。福音記者マタイは、主イエスご自身の方から、「行って彼を治そう。(マタイ 8: 7)」と仰った事を記しています。
そうなのです。私達の主イエスは、私達が求めるなら、必ず、私達の所に来て下さるお方です。その証拠は、主イエス・キリストが神であるお方なのに、人として、私達の所に来て下さったという事実にあります(ピリピ 2:6~8)。

しかし、百人隊長は主イエスに「主よ、わざわざご足労下さるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格は、ありませんので。ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒してください。と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。( 7: 6~8)」と答えたのです。
主イエスはこれを聞いて驚かれました。
その驚きの第一は、百人隊長は、主イエスに対して「主よ。」と呼んでいることにあります。
ユダヤ人達が「主よ。」と呼ぶのは理解できますが、異邦人の百人隊長が「主よ。」と呼ぶ事は、決して普通の事ではありません。何故なら、彼は、ローマ帝国の百人隊長であり、ローマ皇帝の権威の下にいる者であるからです。
何故、彼がこれほど、主イエスに対して絶対的権威を認めているのかわかりません。が、明らかなことは、この百人隊長が、主イエスに全面的信頼を置いているということです。

驚きの第二は、彼の謙遜さです。
彼は、ユダヤ人の長老達に「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれたました。(ルカ7:4~5)」と推薦されたほどの人です。
それなのに、彼はそのことを一言も言わず、主イエスに「私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。」と言っていることです。
このことの理由の一つには、彼が異邦人であるからですが、それ以上に、彼が神の御前に相応しくない者として、自分を認識していることです。
それは、神が最も喜ぶ態度です。神は「砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。。(詩51:17)」を喜ばれるからです。 

そして驚くべきことの第三は、彼の御言葉への信頼、御言葉の権威への服従精神です。
その権威に対する服従精神ですが、彼が何故、そのように、御言葉の権威に服従できるのかの証拠を、彼自身が説明しています。それは、彼の軍隊生活が基礎となっていました。
軍隊では、命令がなされ、その命令に無条件に、反射的に兵が服従しなければ、軍隊は成り立ちません。
百人隊長は、上の権威に全面的に服従する者であり、また権威をもって命令することの重みに耐える生活が身についていたが故に、神の権威を持つ主イエスの御言葉に、全面的な信頼を置くことができたのです。もちろん、彼は、ユダヤ人の為に会堂を建てたほどの人ですから、ユダヤ人の信じる天地創造の神を信じていたことが、この信仰の基礎となっていることは間違いありません。

主イエスは彼の信仰に驚き、ついて来た群衆の方に向いて、彼を称賛して言われました。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。(7 : 9)」と。
そして、使いに来ていた人達が家に帰ってみると、なんとそのしもべは良くなっていた( 7:10)のです。

福音記者マタイは、主イエスが百人隊長の信仰を称賛した後、こう言われた事を記しています。
「多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ8:11~12)」と。
東から西から来る多くの人々とは、異邦人のことです。御国の子らとは、ユダヤ人達のことです。アブラハム、イサク、ヤコブと一緒の食卓とは、選民イスラエルに約束された天の御国の祝宴のことです。これは、主イエスの悲しみが込められた選民ユダヤ人達に対する預言であり、皮肉でもあります。
しかし、おどろくべきは、私達キリスト者は、この百人隊長と同じ異邦人であり、主イエスを信じた者として、天の御国の祝宴につく者とされているという事です。

しかしながら私達は、この百人隊長の信仰の物語をどのように見ているでしょうか。「ああ、すごいな、この人の信仰は。私はこの人の様な信仰者にはなれない。」と思ってはいないでしょうか。もし、貴方が、私は百人隊長のような信仰者にはなれないと思っているのでしたら、貴方はとんでもない思い違いをしています。
貴方は、生きて働いておられる神の権威よりも、この世の常識という権威を重んじる生活に馴らされているのです。
御言葉の権威よりも、この世の常識の権威に従わされているからです。

私達の信仰とはどのようなものでしょうか。否、私達は、誰を信じているのでしょうか
天地創造の神、唯一の神ではありませんか。
主イエスは言われました。「まことにあなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ。』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。(マタイ17:20)」と。
からし種は、小さくても生長して、どんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になるのです(マタイ13:31~32)。

福音記者マタイは、主イエスが百人隊長に仰った事を記しています。「あなたの信じたとおりになるように(マタイ 8:13)」と。そして、そのとおりになったのです。 そうです。私達の人生の歩みは、私達が信じるとおりになるのです。神の御言葉の権威の下に生きるか、この世<サタン>の常識の権威の下に生きるかです。貴方はどちらを選びますか。

この世の多くの人々が、進化論を信じています。しかし、私達キリスト者は、創造論の立場に立って、私達人間が、猿から進化したのではなく、天地創造の神が、私達を「神のかたち」として造られた事を信じています。
私達は偶然に発生し、その進化によってではなく、神の御心<御目的>によって造られ、神に等しい者として(詩 8: 3~ 5)、神のいのちの息を吹き込まれた(創 2: 7)ほどに、神に愛されている者なのです。
ですから私達は、私達の人生に、永遠の神の御心、御計画がある事を信じており、私達の人生が偶然の積み重ねで意味がないなどと、決して思わないのです。
そして私達は、天使によって、処女マリヤに宣べられた御言葉「神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ1:37)」ということを信じているのです。

私達は、世の人々が「あり得ない」と言う、死人の復活、すなわち復活の主イエスを、そして、その主イエスが人間として生まれたマリアの処女降誕を信じています。
私達は世界は偶然の産物ではなく、神の御摂理の中にある事を信じています。
私達は偶然に生きているのではなく、神に生かされている事を信じています。
それなのに、どうして、御言葉の権威に従う<御言葉を信頼する>ことができないのでしょうか。
もし、「全ての事が、神から発し、神によって成り、神に至る(ローマ11:36)」という事実を忘れているのなら、思い出して下さい。

私達は、この世の人々が信じることのできない天地創造の神と、処女降誕、死人の復活、すなわち復活の主イエスを信じる信仰(Ⅰコリント15:4,20)をすでに与えられているのです。
ですから私達には、すでに百人隊長と同じ信仰が与えられているのです。
ですので、思い違いをしてはなりません。私達が、御言葉の権威に従えない<信頼出来ない>事はあり得ないのです。

私たちは詩篇作者のように、御言葉の権威の下に生きる者として祈りましょう。
「あなたのしもべに豊かに報い、私を生かし、私があなたのみことばを守るようにしてください。私の目を開いて下さい。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。(詩119:17~18)」と。

もし、私たちがこの世の常識という権威に従うなら、あなたの人生にとって御言葉は何の益にもならないでしょう。
しかし、あなたが御言葉の権威の下に従う<御言葉を信頼する>者であるなら、奇蹟を見ることができます。また、奇蹟を見なくとも、あなたの人生は素晴らしいものとなるでしょう。
何故なら、すべてのことがともに働いて益として下さるお方(ローマ8:28)が、私達の神であるからです。
ですから信じましょう!そして今日、私たちは安心して、この御言葉に信頼して歩む者となろうではありませんか。