2026/2/1(日) 『みことばを行う人』ルカの福音書6章43〜49節:村松 登志雄 牧師

さて、今日は一つのテ-マのまとめとなる箇所です。
ご一緒に見て来たルカの福音書6章20節「貧しい人たちは幸いです。」で始まる、このテーマ<自分は何者でもない、罪深い者であることを知る>ということはこの説教の骨幹であり、最初から最後まで貫かれています。

そして、驚くべきことに、主イエスは、私達罪深い者に到底不可能な「あなたがたの敵を愛しなさい(ルカ 6:27)」という命令を私達キリスト者に命じておられます。
「いと高き方の子ども(ルカ 6:35)」すなわち、「神の子ども(ヨハネ 1:12)」とされた私達キリスト者に、イエス様は、御自身の十字架の愛を与えられている者として、その愛を敵である相手に示せと命じておられるのです。その理由は、「いと高き方<神>は、恩知らずの者にも悪人にも、あわれみ深いから(ルカ 6:35)」なのです。
主イエスは、その十字架の苦しみの中で、御自身を十字架につけ、嘲笑い、殺そうとしている者達に対して「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのか分かっていないのです。(ルカ23:34)」と、父なる神に執り成され、「敵を愛する」という、究極の愛を示されました。

主イエスはその十字架の死の前夜、弟子達の足を洗い(ヨハネ13: 4~15)、弟子達に、新しい戒めを与えられました。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」と。
主イエスは、また、この愛の戒めを、逆からも命じておられます。先週見たところですね、「さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。(ルカ 6:37)」と。

そして最後に、主イエスは、キリストの弟子、いと高き方の子ども、すなわち神の子どもであるキリスト者とは、どのような者かを示されました。
それは第一に、「木はそれぞれ、その実によって分かります(44)」という事を示されています。
「実」とは、「良い行い」のことです。ですから、キリスト者であるか、どうかは、その行いによって分かる、というのです。
しかし、その「良い行い」とは、神が備えて下さるものである、という事を忘れてはなりません。
「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩む様に、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ2:10)」とあるとおりです。
この大切な御言葉を忘れていると、「そうだ、やはり行いが大事だ!」とばかりに勢い込み、例えその動機は正しくても、それを少しでも成し得た時には、自分の力で行ったかの様に勘違いし、高慢になり、自分の様に行えない<あるいは、行わない>者に対して、「さばいてはいけません」という戒めを破ってしまう可能性があるからです。
ですからキリス者は、自分の力でその実を結ぶ事が出来ない事実を知る者(参照ヨハネ15: 4~ 6さ)「心の貧しい者(マタイ 5: 3)」でなければなりません。
何故なら神は、「心の貧しい者」、すなわち「自分の貧しさを知るが故に、神に求める者」に、御霊の実「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ 5:22~23)」を結ばせて下さるからです。

第二に、主イエスは、私達キリスト者に問うておられます。
「何故、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言う事を行わないのですか。(46)」と、主の御言葉に従わない<主の御心を行わない>者を責めておられます。 

福音記者マタイは、主イエスのこの御言葉を詳細且つ具体的に記しています。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。その日<キリスト再臨の日>には、大勢の者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私達はあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟を沢山行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなた方を全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」と。大変厳しいおことばです。
しかし、ここで列挙されている、この「良い行い」は、どれ一つとっても、素晴らしい行いではないでしょうか、なのにどうしてでしょうか?

しかし、考えてみてください。単なる「良い行い」によって天の御国に入る事ができるのなら、キリスト者である必要はないのです。

では、その「良い行い」が主の御心に適うには、何が必要なのでしょうか。
パウロはこのように断言しています。
「たとえ、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反する事をせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。(Ⅰコリント13: 1~ 8a)」と。

ですから「御心に適う行い」とは、「行い」そのものではなく、「行い」の背後にある主にある動機、それは主イエス・キリストの愛に基づくものでなければならないのです。
しかし、人は、その表面に現れている「行い」そのものを見ます。けれども、主は、心を見る(Ⅰサムエル16: 7b)のです。主を侮ってはなりません。
ですから、私達は「心の貧しい者」とならせて下さい、と祈りましょう。「心の貧しい者」とは、自分には、愛がない、と知る者であり、それ故に、御霊の満たしを切に求める者です。
ですから求めましょう。主イエスは私達に命じ、約束しておられます。
「求めなさい。そうすれば与えられます。・・・・・・天の父はご自分に求める者たちに、聖霊を与えてくださいます。(ルカ11: 9…13b)」と。

『主よ、主よ。』と呼ぶ人達が、主イエスに退けられたのは、彼らが実は「主よ。私はあなたの為に、これだけの事をしました」と自分を誇っている者達だからではないでしょうか。
彼らは、神の名をみだりに口にして(出20: 7)、自己満足をしているに過ぎないのです。『主よ、主よ。』と呼びながら、主に向かっているのではなく、自分に向かっている人達だからです。優しく愛に溢れたイエス様が、このように時に厳しく、忌み嫌われるには、自分も神をも欺き、形だけ「主よ」と呼ぶ者に対してです。
ですから、私達は「神の為に行う」という、この一見素晴らしい動機に思える考えを捨てなければなりません。

何故なら、私達が徹底的に知らなければならない事は、私達は神の為に何も成し得ない者であるという事であり、私達が神の御心に適った事を行う事が出来るのは、神が私達に行わせて下さる時だけである、という事なのです。

第三に、主イエスは、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人(47)」すなわち「御言葉を行う人」とはどの様な人かを、たとえを用いて示しておられます。
「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人(48)」だと言っておられます。
「地面を深く掘り下げ(48)」る人とは、神を深く知ろうとする人であり、また、自分<の心>を深く掘り下げ、自分を正直に見つめる人、すなわち「心の貧しい者」であることを知る人です。

また「岩の上に土台を据え」る人とは、主イエス・キリストにとどまる人(ヨハネ15: 5)です。
「岩」とは、「生ける神の子キリスト(マタイ16:16)」御自身であり、生ける神の御子キリストに対する信仰(マタイ16:18)です。「土台」も同じ意味です。
ですから、「岩の上に土台を据える」とは、主イエスを決して忘れず、主イエス・キリストこそ自分の人生の基いだと知ることです。
現実の建築においても、家はその土台が強固でなければなりません。土台が強固であれば、洪水等の災害、即ち試練が押し寄せても、びくともしないのです。ちなみに、この教会には家の土台に聖書を埋めているという方もおられます。
しかし、現代の建築のニュースで明らかにされている様に、その土台が中途半端であると、災害、すなわち試練が一度襲うと、ひとたまりもなく、しかも、その壊れ方はひどいのです。

私たちの人生には、それぞれに、試練があります。では、それに打ち勝つ人生とは、どんなものでしょう?今まで宣べて来たのでもうお分かりですね。
それは、主イエス・キリストに絶対的信頼を置く人生ではないでしょうか。
主の弟子ヨハネは宣べています。
「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか(Ⅰヨハネ 5: 5)」と。
「イエスを神の御子と信じる者」とは、どういう人でしょう。これも繰り返し言いますが、それは徹底的に自分が当てにならない者である事を知っている、真に「心の貧しい者」のことです。
「心の貧しい者」とは、「私は、本当にみじめな人間です。(ローマ 7:24)」と心から告白出来る人です。
でもそれは、自分なんか駄目だ、と泣き叫び、自己憐憫に埋没する事ではなく、「神の御心に添って悲しむ(Ⅱコリント 7:10)」事ができる人のことです。
みことばに「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせる(Ⅱコリント 7:10)」とある通りです。
それにより御霊の導きの中で、主イエス・キリストと共に歩む様になり、やがて「みことばを行う人(ヤコブ 1:22a)」に成長させていただけるのです。

まとめになりますが、「みことばを行う人」とは、徹底的に神にすがる人であり、逆に言うなら「みことばを行うことができない者である事を知りつつ、「神よ 私を探り 私の心を知って下さい。私を調べ 私の思い煩いを知って下さい。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いて下さい。(詩139:23~24)」と祈る人です。
ですから、主イエスは言われたのです。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。(ルカ 6:20)」と。

最後にヤコブはキリスト者に勧告しています。「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブ 1:21~22)」と。

これらの命令をどうか、表面だけの行いの命令に取らないでください。鍵は「主に在って」ということです。御霊の力によって、ということです。
ですから、願いましょう  !
主への再献身の思いを持って今日、御霊によって「御言葉を実行する人」にさせていただきましょう。