2026/1/18(日) 『主を待ち望む者として』ルカの福音書2章21〜40節:村松 登志雄 牧師

さて本日は、この聖書箇所から、特に三つのことを共に教えられたいと願っています。  第一は、何故、イエス様が神の御子<であるのに>他の幼子と同じように、割礼を受け、主に聖別されなければならなかったのか、また何故マリヤがきよめの儀式を受けなければならなかったのか、についてです。
第二は神の祝福とは何か、についてです。
第三は、何故、老人シメオンと女預言者アンナが、幼子<赤ん坊>に、神の御子、キリスト<救い主>を見ることができたのか、についてです。

さて、ヨセフとマリヤは、マリヤのきよめの儀式と共に、幼子すなわち神の御子イエスを主にささげる為に、ベツレヘムから北上して約8キロの道程のエルサレムまで行きました。それは、「モーセの律法による(22)」とあるように、律法を守る為でした。
レビ記12章に記されていますが、生まれて八日目の幼子は割礼を受けることが命じられています(21、<レビ12:3>)。
そしてその母親はさらに三十三日間、血のきよめの期間として家に籠もることが命じられています(レビ12:4)。それは今日の産後の静養期間に当たります。
そして、その期間を終えたとき(22)、すなわち四十一日目にきよめの為の全焼のいけにえとして一歳の子羊一頭と、罪の為のいけにえとして家鳩の雛か、山鳩を一羽をささげることが命じられていました。
しかし、羊を買うことのできない貧しい者は、全焼のいけにえも鳩で代用することが許されていました(レビ12:6~8)。
ヨセフとマリヤは、「山鳩一つがい、又は、家鳩のひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげた(24)とあるので、このことから彼らが貧しかったことが分かります。

さて、第一に、何故、神の御子が他の幼子と同じように割礼を受け、主に聖別された者と呼ばれる為(23)に、主なる神にささげなければならなかったかについて、見て行きましょう。また何故、ヨセフとマリヤがきよめの儀式を受けなければならなかったのでしょう。
最初に、ヨセフとマリヤについて考えてみましょう。マリヤが聖霊によって神の御子を宿しているにもかかわらず、マリヤが他の女性と同じように、汚れているとされており、きよめの儀式を受けているのは何故か、です。おそらく、ヨセフとマリヤは、神の御子を宿したということについて、自分達を特別な者<有資格者>としての特権意識を持っていなかったのでしょう。<反対の例;ハガル(創16:4)、将軍のお世継ぎを宿した者に与えられる高い地位(大奥)>
また福音記者マタイは、「ヨセフは正しい人であった(マタイ 1:19)」と記しており、福音記者ルカはシメオンについて「この人は正しい、敬虔な人(25)」と記しています。それは道徳的に正しいという意味と共に、神に、神の律法に忠実な人であった、ということを意味します。ヨセフとマリヤは、特権意識を持つ者ではなく、神の前にある自分を見つめることのできる人、罪人としての意識を持っていたことが分かります。

さてマリヤが、受胎告知に対して「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。(ルカ1:38)」と告白し<受け入れ>て、「この卑しいはしために目を留めてくださったからです(ルカ1:48)」と感謝<賛美>したその信仰は揺るぎのないものだったのです。
ですから、心から神を恐れる者として、他の律法に忠実なユダヤ人と全く同じように、律法に従ったのです。また何よりも彼らは、神の御子を養育するというその重い責任を感じ、恐れを感じていたに違いありません。
次に、何故、神の御子である主イエスが他の幼子達と同じように、割礼を受けなければならなかった(21)のか、についてです。割礼とは、神の民とされることの契約のしるしです。どうして神の御子御自身が割礼を受けなければならなかったのでしょうか。
またさらに疑問に思うことは、何故、神の御子が、他のユダヤ人の幼子達と同様に、聖別されなければならない(23)のかということです。
この津法は、イスラエル民族の出エジプトに関係があります。特に、過越のいけにえ<神のさばきによる長子の罪の贖い>」に関係があります。
主はモーセに告げて仰せられました。「イスラエルの子らの間で、最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。(出13:2)」と。
ピリピ人への手紙 2章 6節から 8節の御言葉は、これらの疑問に答えています。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」と。
他参照;ローマ8:3、ヘブル2:14~18
これを、神の御子の「謙卑」と言います。へりくだりつつ、自分を低い者とするということです。
これは主イエスが神の御子であり、また同時に、真の人であることを示すだけではなく、過越のいけにえとしての、主イエス御自身の十字架の死のお姿が示されています。
もちろん、この儀式を、赤ん坊の主イエスが自ら受けることはできません。ですから、これらの事は全て、神の御子の養育を委ねられた、ヨセフとマリヤによってなされたのです。 このヨセフとマリヤを主イエスの養育者として選ばれたのは、父なる神の導きによることは間違いありません。しかしそれでも、神の御子主イエスが全てをヨセフとマリヤに、すなわち人間の手に委ねられていることに驚きを感じます。

第二に、神の祝福とは何か、についてです。
教会の献児式及び子供祝福式では、主イエスが幼子に手を置いて祝福してくださった聖書箇所(マタイ19:13~15、マルコ10:13~16、ルカ18:15~17)と、本日の聖書箇所のルカの福音書2章22節から24節を、式文として用いています。
この御言葉に、「主に献げるために」とあります。
子供祝福式の時にも、お話ししましたが、この世の多くの人々が願う神の祝福は、子供の成長における無病息災が中心です。すなわち御利益です。
しかし、教会では、神から与えられたその子の親が親としてふさわしく養育出来るようにと、神の祝福と導きを願うことがその中心です。
ヨセフとマリヤは、文字通り、神から与えられた、神の御子の養育の責任を果たすことができるようにと、神の祝福と導きを願ったのです。
「主にささげる」とは、「献金」と同じように、自分のものを主にささげるのではなく、神から与えられたものを神にお返しすることです。
自分の子を主にささげる、とは、自分の子は自分のものではない、神から与えられたものであり、神から養育を委ねられていることを告白することです。
神に代わって、神が与えられたいのちの子を養育する責任が与えられている、ということなのです。
ですから、老シメオンは、この両親を神が祝福してくださるようにと祈ったのです。
しかしその祝福<「民6:24~26」の御言葉か>の中で、彼は、主イエスの十字架の死に向き合わなければならない母マリヤの運命をも預言しました。
35節「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。」と言って。それは人間には決して祝福として受け取れない預言です。しかし、この預言も祝福の御言葉なのです。しかし、祝福と言っても、この世の多くの人々が願う祝福と全くかけ離れています。
そして、マリヤはこの預言の成就を、主イエスの十字架の死を目の前で見るという、人間として、母親として、最も残酷な体験をさせられることになるのです。

しかし、私たちは知っています。マリヤがこの地上で最も恵まれた女性であることを。
何よりもマリヤ自身が告白しています。「今から後、どの時代の人々も、私を幸いな者と呼ぶでしょう。(ルカ1:48b)」と。
マリヤはその苦しみの体験さえも色あせるほどの、恵みをいただいているのです。神の御子を宿し、その神の御子の十字架の死による自分の罪の贖いと、その死に勝利した復活の主イエスを見て、永遠のいのちを受けたからです。
パウロはこう告白しています。「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。(Ⅱコリント 4:17)」と。
何故なら、私たちキリスト者もマリヤと同じようにキリストを宿しているからです。同じ恵みをいただいているからです。その証拠は、私たちが「キリストのものである(Ⅰコリント3:23)」からです。
使徒ヨハネはこの世で苦しみの多い私たちに問いかけています。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(Ⅰヨハネ 5: 5)」と。

昨年も、この教会に、それこそ「心を刺し貫かれた」体験をされた方がおられたことを私は知っています。その体験された方に対して、私は何の慰めも与えられませんでしたし、ただ祈ることしか出来ませんでした。
しかし、その方が信じているお方は、人間の生まれるべき場所ではない家畜小屋に生まれ、「日毎の糧を今日も与え給え」と祈らずにはいられないほどの貧しさの中に暮らし、果ては、自分の弟子にさえ裏切られて、人々の嘲りの中で死なれた主イエス、人間の貧しさ、悲惨さの全てを経験され、私たちの弱さに同情してくださるお方(ヘブル 4:15)なのです。それ故に、その人もそのキリストの恵みの御座(ヘブル 4:16)に近づいておられるのを見ています。
このように、神の祝福とは、無病息災のようなものではなく、失敗、苦難、悲しみを取り除いていただくことでもない、しかしそれにもかかわらず、勝利することのできる人生を与えることです。

第三に、何故、老シメオンと女預言者アンナは、幼子に、神の御子、キリストを見ることができたのでしょうか。
ルカは、老シメオンのその姿を「聖霊が彼の上におられた(25)」「聖霊によって告げられていた。(26)」と記しています。
パウロもまた「神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。(Ⅰコリント 2:10)」と宣べています。
更に続いて「、、、、御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。(Ⅰコリント 2:14b)」と宣べているように、老シメオンは、人間的洞察力によったのではなく、御霊に満たされていたが故に、貧しいヨセフとマリヤの貧しく小さな幼子に、「神の救い」の実現を見ることができたのだと思います。
しかも彼の賛美には、驚くべき救いの事実が示されています。
「あなたが、万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄を。(31~32)」と。
だからヨセフとマリヤは、老シメオンが幼子についていろいろ語られる事に驚いた(33)のは無理もありません。何故なら、当時のユダヤ人は神の民イスラエルとしての救いしか待ち望んでいなかったからです。
しかも、賛美する前の老シメオンでさえ、それまで待ち望んでいたのは、「イスラエルが慰められること(25)」だけだったのです。
しかし御霊に導かれた彼の賛美は、「全世界の救い主」についてに変わったのです。
そして、女預言者アンナもちょうどこの時、そこにいて神に感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいる全ての人々に、この幼子のことを語った(38)のは、老シメオンと同じく、御霊に満たされていたからに他なりません。

では何故彼らが聖霊に満たされていたのか、です。それは彼らが、決してあきらめず、主の救いを確信して待ち望む人であったからです。
老シメオンは「正しい、敬虔な人(25)」であったと記されています。それは道徳的に正しく、神を恐れ敬う人であった、ということです。
また、女預言者アンナも、たった7年の結婚の後、やもめとなって77年間を過ごしているのですが、彼女にそれまで、どんな苦労があったのか、神をも呪いたくなるような時もあったのではないか、と想像できます。
しかしそれにもかかわらず彼女もまた、老シメオンと同じく、主の救いを確信して待ち望んでいたのです。
この「宮を離れず」というのは、宮に住んでいたということではなく、いつも主を礼拝していた、ということです。「断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた(37)」というのですから、彼女がどれだけ熱心に、主の救いを待ち望んでいたのかが分かります。

私は、ある牧師のメッセージで、その牧師の牧会する教会のある老婦人の存在を知りました。その老婦人は、いつも礼拝で一番前の席に座り、メッセージされるその牧師をじっと見つめておられるそうです。
ところがその老婦人は耳が遠くなってほとんど聞こえなくなっており、彼女はその牧師のメッセージを聞く為に教会の礼拝に出席しているのではないことは明らかです。
彼女は、主を礼拝する為に教会の礼拝に出席しているのです。主の救いを確信し、主を待ち望んでいる心によって、主を礼拝しているのです。その牧師は、彼女の存在にいつも励まされていると証ししておられました。
その老婦人がどのような人生を歩まれたのかは私は知りません。しかし多くの苦難を通って現在の信仰が与えられているのだと思います。私もそのような、主の救いを確信し、主を待ち望む老人になりたいと思います。
しかし年を取ったら自動的にそのような老人になれるかと言うと、そうではないのです。
何故なら、私たちには、今ある人生の中で、ひたすら主を待ち望んでいるかが問われるからです。
私たちは主の究極の救い、主の「再臨」を待ち望む者です。しかしそれは「再臨」を声高に叫ぶことではありません。また、遙か彼方の空をじっと見つめて、もしかしたら雲に乗って来られる主イエスを見ることができるのではないかと夢見ることでもありません。
この地上に軸足をしっかりと置き、今自分に与えられていることに忠実に歩み、日々、主の御言葉に聞き<聖書を開き>、いつも主に祈る、キリスト者としての日常の積み重ねが、御霊の導きの中で、主の救いを確信し、主を待ち望む信仰を育むのです。 

さて、あなたは、今年、2026年をどのように生きるのでしょうか。
「剣があなたの心を刺し貫く痛み」の中でも、ひたすら、主の御言葉に聞き、主に祈り、主の恵みの御座に近づくことができるでしょうか。
ひたすら、主を待ち望むこと、それが、私たちに与えられている恵み、であり、「生きる」ということなのです。
ですから、お互い励まし合い、主の祝福を信じ、主を待ち望む者となりましょう。