メリ-クリスマス!神の御子のご降誕を心からお祝いします。
現在、世界中でクリスマス、キリストの誕生記念日がお祝いされています。
毎年この季節になると、都心の街路樹を飾るクリスマスのイルミネ-ションの美しさに目を奪われます。特に夜のライトアップは、私たちの目を楽しませてくれます。
しかし、クリスマス<の意味>について答えられる人はどのくらい、いるでしょうか?
せいぜいサンタクロースの日と答えるか、恋人同士で過ごすイベントの日と答えるのではないでしょうか。
このように多くの人々が、デパート、商業施設のクリスマス・セール等で、クリスマスに関心を持っていても、クリスマスの意味について、キリストの降誕については関心がありません。
何年か前、何故日本人はクリスチャンでもないのに、クリスマスを祝うのか、もう少し考えたらどうか、という新聞の投書を見たことがありました。私も昔、そう思った時がありましたが、今は、それでも一人でも多くの方が、この機会に、主イエス・キリストに関心を持ってくださればと願っています。
このように、多くの人々が、主イエス・キリストの降誕に関心がない、という現実は、実は、聖書の時代も同じであったのです。
ユダヤ人は、現在もそうですが、メシヤと呼ばれる救い主、すなわちキリストを待ち望んでいました。しかし、ユダヤ人の王であり、救い主であるお方の到来<誕生>が、まさか家畜小屋である、とは思っていなかったのです。
さて、世界の歴史の年を西暦で数えますが、西暦はキリスト生誕の日を元年として数えており(実際は生後4年目?)、キリストの誕生前<紀元前>、誕生後<紀元後>とに分類されています。歴史の英語はhistoryですが、それはhis<キリストの> storyのことであると言う人もいます。
さて、福音記者ルカは、主イエス・キリストの誕生が、時のローマ皇帝アウグスト(前31年から後14年在位)の出した住民登録の勅令に関係があったことを記しています。このローマ皇帝による戸籍調査は、課税額の査定と徴兵の目的があったようです。
この住民登録のために、主イエス・キリストを聖霊<神>によって身籠もった母マリヤとその夫ヨセフは、ベツレヘムに上らなければなりませんでした。
福音記者ルカはその理由と事実だけを記しています。
「人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。( 3~ 5)」と。
ナザレからベツレヘムへの旅は,徒歩で三日ほどの道のり<約百四十キロ>です。
身重のマリヤ(おそらく当時のマリヤは十代<15,6歳か?>)が徒歩で旅をするなどということは、現代の女性には考えられないことです。
我が教会の濱田優子姉は、先週主日(12/7)に、20歳の誕生日を迎えられましたが、その優子姉よりさらに若かったようです。
映画「マリア」では、夫ヨセフがマリアをロバに乗せていますが、私は大学生の時、体育実習で馬術を取りましたので、馬の歩く振動に自分の体を合わせるのに慣れないと、乗り心地の良いものではないことを知っています。ましてロバは、身重のマリアにはどんなだったのでしょうか。
昔の女性は現代の女性とは生活や体力が違うと言っても、想像するだけで、その旅がどんなに大変であったかが分かります。
マリヤは天使ガブリエルに、「おめでとう。恵まれた方。(ルカ 1:28)」と言われましたが、現実は災難続きと言って良いでしょう。
何故、そんな大変な旅をしなければならなかったのでしょうか。この旅は、マリヤとヨセフが楽しい新婚旅行として計画したものではありません。
当時のローマ帝国の国家権力の益の為に否応なく従わされているのです。
もし、ローマ帝国の勅令がなかったのなら、マリヤとヨセフにとって危険に満ちた旅、このような試練の旅に出ることは決してなかったでしょう。
しかしこの試練の旅は、そしてローマ帝国の勅令も、すべて神の御計画の下にあったのです。
まず第一に、預言者ミカが預言しています。
「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのために、イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。(ミカ 5:2)」と。ユダヤ人達が待ち望んでいた、救い主はベツレヘムでお生まれになる、と。
二人が否応なく従わされている旅、しかしそこに神の確かな導きの手があるのです。神の栄光の導きがあるのです。
第二に、私たちは、試練に会うと、何故、と神に問いたくなります。
しかしそれと同時に、私たちの人生において、私たちが最も神に近づくときは、試練の時ではないでしょうか。
この危険な旅は、救い主イエスを宿したマリヤ、そしてその父として選ばれたヨセフ、聖なる家族、神の家族として相応しくある為に、神が与えられた試練なのです。
神は、神の御子を宿したマリヤに、王女のような扱いをされませんでした。もし、王女であれば、ロバなどに乗らず、豪華な馬車に乗ることができたでしょう。何不自由なく守られたでしょう。もし、ヨセフが金持ちであれば、もっとましな旅を続けられたでしょう。しかし、神はヨセフを金持ちにはなさいませんでした。
神が与えられたのは、神に対する信頼です。これこそ、神が私たちに与えられる最高のプレゼント、恵み、すなわち信仰(エペソ 2: 8)です。どんな状況にあっても、神への信頼によって生じる平安、その確信によって与えられる希望です。
前回もお話ししましたが、私たちは、春の日溜まりの中のあること、すなわち安楽を望みますが、神は私たちに、冬の寒い北風を吹き付けさせます。しかし、その寒さを防ぐに十分な防寒用具を与えて下さるのです。どんな状況にあっても、体の芯を暖めてくれる防寒用具を。私たちを神に相応しく整える為に。
パウロが宣べていることは真実です。
「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ 5: 3~ 5)」と。
第三に、神は、その試練によって、マリヤとヨセフを、神の家族として最も相応しい者としてくださったのです。
それは二人の「愛」に見られます。夫婦に最も必要な絆です。それは、子育てにおいて、最も必要なことです。どのような子育てが良いか、という方法よりも、最も必要なことは、その子の両親の夫婦愛なのです。
もちろん、完全な親はいません。しかし、夫婦愛によって子どもは健全に育つのです。
神は、神の御子を育てる親として、最も必要なこと、夫婦の愛の絆を強く結ばせたのです。
ずいぶん前のことですが、ある情報番組で聞いた事です。夫婦のしあわせ度を計る基準として、経済度を基準としたそうです。そして驚くべきことに、経済度が低い夫婦の方がしあわせ度が高いという結果が出たのです。ある評論家のコメントでは、経済度が豊かな夫婦はそれぞれ好き勝手なことができるが、夫婦間の親密さは希薄になる。しかし、経済度の低い夫婦は、互いに助け合うことによって夫婦間の親密さが増すからではないか、と言うことでした。
人の目から見るなら、最悪に見えることであっても、神は、マリヤとヨセフに最高のプレゼント、最善のものを与えられたのです。貧しさと危機的な状況の中で、彼らの、互いに助け合い、愛し合い、信頼し合う関係を確立させたのです。
もちろん、二人に与えられた聖霊の導き(ルカ 1:35、マタイ 1:20)によることは言うまでもありません。
マリヤとヨセフの夫婦の愛の絆は、この貧しさの中にある危険な旅路によって、益々強固にされ、神の御子を育てるに相応しく成長させられたのです。
私たちの人生にも、危機的な状況に襲われることがあります。しかし、神は私たちに最善をなして下さっていることを信じましょう。
さて、神の御子の誕生において、私たちはその貧しさの極みを見ます。
「宿屋には彼らのいる場所がなかった(7)」ので、彼らは家畜小屋を宿として、マリヤはそこで、神の御子、主イエスを生んだのです。
おそらくその出産も、助産師の助けもなく、夫ヨセフだけの力を借りての出産ではなかったかと思います。もしマリヤが親類のエリサベツの出産を手伝っていたのなら、その知識が役立ったことでしょう。
ある映画で、昔の中国の若い夫婦が貧しさの為に、助産師の助けを借りずに、夫婦だけで出産をして、生まれた赤ちゃんが死亡したのを見たことがあります。その出産自体が危機的状況であったのです。
また私は、身重なマリヤに誰も関心を持たなかったのか、誰も助ける者がいなかったのか、と憤りを覚えたことがあります。
しかし今は、その憤りも傲慢であったことを知らされています。そして自分こそ、貧しい人々に関心を持たず、貧しい人々を助けず、自分のことしか考えない利己主義者ではないか、と思わされています。そしてその罪悪感を拭う為に、ほんの少しの善行で自分をごまかす偽善者ではないか、と。
キリストの時代の宿屋とは、金持ちや高貴な人の宿泊する所ではなく、彼らはやはり金持ちの友人知人宅に迎えられていたそうです。ですから、宿屋は庶民のための宿泊施設であったのです。
その庶民の為の宿泊所にさえ、何故、二人の部屋がなかったのでしょうか。確かに宿泊所は多くの人でいっぱいであったのかもしれません。
それにしても、身重のマリヤを気遣う、思いやりはなかったのか、宿屋の主人は何とかして他の宿を捜さなかったのか、と、やはり思ってしまうのです。
結局、皆自分のことだけでせいいっぱいで、困窮しているキリストの家族に無関心だったのです。
しかし、この様子は現代の私たちも変わっていないのではないかと思うのです。私たちの心の部屋はどうだろうか、と思うのです。自己中心の関心でいっぱいになっていないか、と。
キリストの家族に与えられた宿は、家畜小屋でした。それでも、雨風を防ぐことのできるところが与えられたことは感謝すべきことでしょうか。
私が大学生の体育実習で、馬術を取ったことを先にお話ししましたが、通うのには遠いので、その馬小屋に実習生の友人達数人とで、泊めてもらいたいと申し出て許されました。朝の掃除を条件として。しかし後悔しました。馬の鼻息の音や、時折匂ってくるその臭さの為に、寝られたものではなかったからです。
臭くて汚い、その家畜小屋で、マリヤとヨセフは、二人だけで、出産したのです。それでもおそらく、マリヤとヨセフは感謝したに違いありません。
しかし、ここで何よりも、私たちはこの神の御子の降誕の貧しさの極みの中に輝く、光を見出しましょう。
それは神があえてそのような、神への無関心の人間社会に、心の貧しさのただ中に、最低の場所、家畜小屋<人間が生まれる場所ではない>に、神の御子キリストを誕生させたことです。
いったいこの事実は、何を意味するのでしょうか。
それは、私たちの心の部屋が自分<の関心>以外の何ものをも入れることができない、豊かであるかのように見えて、実は貧しく、そして汚れているにもかかわらず、家畜小屋でお生まれになったお方、神の御子、主イエス・キリストが、その心の貧しさ、汚れを、全部その身に引き受けて下さった、ということなのです。
しかも、その貧しさ、汚れの中にあっても、神の御子ご自身は、決して貧しくもなく汚れのないお方です。(参照;Ⅰペテロ 2:21~22)
「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている、闇はこれに打ち勝たなかった。・・・・すべての人を照らすそのまことの光が、世<私たち>に来ようとしていた。(ヨハネ 1: 4~ 5,9)」のです。
そして、たとえ、私たちが神に無関心であっても、神は私たちに無関心ではないという事実に驚かないではいられません。
この驚くばかりの恵みが、神の御子キリストをこの世に遣わされた神の愛なのです。
この神の愛は、私たちの貧しい心を豊かにし、汚れた心を聖めるために、神の御子のご降誕と十字架の死によって、私たちの、自分で抜け出すことのできない貧しさ、汚れ<罪>を、神の御子に負わせたほどの愛なのです。
私たちの主イエス・キリスト、神の御子は、私たちのあらゆる貧しさのただ中にお生まれになりました。私たちのために、です。
ですから、私たちが知るべきことは一つです。
それは私たち自身の心の貧しさを真に知ることです。
そして、私たちが行うべきことは一つです。
私たちのその貧しさを負って下さり、その貧しさを尽きることのない豊かさに変えて下さる為に、私たちの貧しさのただ中に来て下さった神の御子の御降誕に感謝することです。
世界で初めのクリスマスの、当時の最も貧しい者の代表であった羊飼いのように、私たちも、天の軍勢の賛美を聞くことの出来る者とさせていただきましょう。
「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。(14)」の賛美の声を。
