先週は、ルカの福音書から、主イエス・キリストの誕生の経緯を、マリアの受胎告知の事件から見ました。今週は、マタイの福音書から、そのマリアの婚約者ヨセフの側の事件から見てみましょう。
聖書は「イエス・キリストの誕生は次のようであった。(18)」と、主イエス・キリストの誕生を宣べています。
しかし、その誕生は人間には理解できないことです。また、とりようによっては、いかがわしい事件に誤解されます。
それは、次の「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。(18)」という事実です。
そして、「マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、二人がまだ一緒にならないうちに」ということについて、当時のユダヤ人社会の婚姻制度を簡単に説明しましょう。
当時は、男女が結婚する場合、両家の合意があり、花婿側から花嫁料が支払われ、両家の婚姻関係が公になります。そして、約一年間それぞれが両親のもとで暮らし、その後、一つ屋根の下で夫婦として暮らすのですが法律上は正式な夫婦なのです。
今日で言う婚約期間とは違い、今日の役所に出す婚姻届に匹敵します。そのことが「ヨセフの妻と決まっていた」ということです。
聖書は「聖霊によって(18)」と宣べていますが、ヨセフがマリヤの懐妊をどのようにして知ったのかは宣べていません。マリヤ自身から告げられたのか、それとも彼女の両親からか。
もし、マリヤから「聖霊によって」と告げられたとしても、どうしてそんなことが信じられるでしょうか。彼が変な誤解をしたとしても当然です。
ですから、夫ヨセフのショックはどんなであったでしょうか。しかし、「夫のヨセフは正しい人であって<あったけれど>、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った(19)」のです。
「正しい人」とは、当時のユダヤ人社会における「律法に忠実な人」という意味です。ですから、律法に忠実であるならば、マリヤは姦淫の罪で死刑になるのです(申22:23~24)。
それで彼は「ひそかに離縁しようと思った(19)」のです。彼は、自分が裏切られた<と思った>にもかかわらず、自分の思いによってではなく、マリヤの尊厳を守ることを選び取ったのです。
私たちは、このヨセフに学ぶべきことがあります。たとえどんなに正しいことであったとしても、正しければ良いという考えは神の律法の真の意味<目的>から離れることがあるのです。
主イエスは律法を二つにまとめられました。それは「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(マタイ22:37)」と「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(マタイ22:39)」であり、神への愛と隣人への愛です。律法を守ることの真の目的は愛です。
ヨセフは確かに、律法を守り行う正しい人でした。しかし、マリアに起こった出来事を公表せず、ひそかに離縁しようと思ったのは、彼が真の意味での律法を守る人であり、愛の人であったからです。
しかし、それであっても、ヨセフは「このことを思い巡らして(20)」いました。つまり、思い悩んでいたのです。それは、当然でしょう。
しかし、主の使いが彼の夢に現れて、マリヤの子は聖霊によると伝えます(20)。それで、彼は、主の使いに命じられたとおりにして、マリヤを妻として迎え入れたのです(24)。
しかし、たとえ主の使いのことばであっても、そう簡単に「はい。そうですか。」と信じられることではないと思います。
しかも夢ですから、変な夢を見たと思うこともあり得ます。
一般的に、マリヤの信仰が称賛されています。しかし、ヨセフの信仰は、マリヤに劣っていません。いいえ、それ以上です。
確かに、マリヤはまだ起こっていない事実を、主の使いによって受け入れましたが、そのみことばを、懐妊したという事実によって自分の身に実感できたのです。
しかし、ヨセフには実感はいつまでもありません。信仰によって受け入れるだけです。マリヤの懐妊を神のみわざとして受け入れることは、信仰による以外にありません。
キリスト教の教えは良いが、どうも「処女降誕」などということはまともに信じるということはできない、という人は多いようです。それは当然だと思います。
しかし、ヨセフは信じました。また私たちキリスト者も、この天地創造の神を信じる者として、当然のこととして「神のみわざ」である、聖霊による誕生を信じています。
なぜなら、「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟る(ヘブル11:3)」ことができるからです。
また、このことが信じられないのは、神を人間の知恵で解釈しようとするからです。神と神の御業を人間の知恵で解釈することができるのなら、その時点で神は神ではありません。その神は、人間の知恵の中にある限界あるものとなるからです。
さて、聖書は、ヨセフの信仰に焦点をあてて宣べているのではありません。聖書が示しているのは、この誕生が人間による誕生ではないということを示しているのです。
そして、多くの人々は「処女降誕」、マリヤの懐妊に焦点をあてて、それが信じられるかどうかを議論していますが、聖書が示しているのはマリヤの「処女降誕」が中心ではなく、「聖霊<神>による神の御子の降誕」です。
この誕生物語の中心は、見えない神が、見えるかたちで、神であられるのに人間としてこの地上に現れて下さったことなのです。参照;ピリピ2:6~8
そして、主イエスの誕生の記事の前に、主イエス・キリストの系図が記されていますが、その系図は血塗られた罪の歴史があります。
この系図に登場する代表的な一人の人物を紹介しましょう。それはダビデ王(マタイ1:6)です。 主イエスは「ダビデの子」と呼ばれ、その呼び名は、主イエスがキリスト、すなわち救い主であることを表します。このダビデは信仰の人として有名です。しかし、聖書は「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」と記しています。ウリヤとはダビデの忠実な家来です。しかし、ダビデは、ウリヤの妻を奪い、ウリヤを戦場の最前線に追いやり、殺しました。ダビデは信仰の人でしたが、また姦淫の人であり、殺人者でもあります。
残念ながら、キリストの系図には、ダビデだけをとりあげても、人間の罪性による血塗られた歴史があることが分かります。聖書はその事実を決して隠しません。
そして、この罪の歴史は、いろいろなかたちで、私たち人間社会に続いています。その事実は日々の社会のニュースによって明らかです。
しかも、私たち自身が自分をごまかさずに自分を見つめるなら、人間社会のあらゆる罪の根源が私たち自身の中にあることがわかります。世界を見るなら、国家間のエゴによる争いや憎しみによる争いがあります。
しかし、それは個人個人の人間のエゴ(自己中心)や憎しみによるものの拡大にすぎません。この人間の罪を断ち切る神のみわざとして、聖霊による神の御子の誕生が示されているのです。
聖霊による神の御子の誕生とは、確かに神が人となって私たちの罪の中に現れてくださいましたが、私たちの罪の中に生まれたのではなく、神がその罪を断ち切るお方として、罪のない神の御子の誕生をくださったという、神の一方的なご恩寵<恵み>を示しているのです。
その事実は、生まれる男の子の名に現れています。主の使いはヨセフに「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(21)」と命じます。
「イエス」という名は、ユダヤ人にとって珍しい名前ではありません。「イエス」とは、モーセの後継者となった「ヨシュア」です。その意味は「神は救い」あるいは「神が救う」です。
そして、主の使いは、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださるお方」と宣べています。「ご自分の民」とは、直訳では「彼の民」です。「民」とは、直接的には神の契約の民イスラエルを示していますが、彼、すなわち主イエス・キリストの聖餐<最後の晩餐>を受ける(マタイ26:26~28)新しい契約の民、私たちキリスト者を示しています。
また、この名は「神が救う」のであって、人間の努力によるのではないことも示されています。
そして、聖書は、「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。(22)」と宣べています。
聖書には、多くのメシヤ<救い主>預言がありますが、主イエス・キリストの誕生の預言としてイザヤ書7章14節のみことばを引用します。
「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と呼ぶ。(イザヤ7:14)」と。
人間の罪のための身代わりとして十字架で死なれ、その罪の死に勝利して復活された主イエスは、弟子達を励まし宣べておられます。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」と。
このみことばは、主イエスの弟子達が現実に体験してきたことです。彼らは、主イエスを見捨てましたが、主イエスは彼らを決して見捨てませんでした。
では「インマヌエル-神は私たちとともにおられる-」の神とは、どのような神でしょうか。
第一に、聖書は「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださる」と宣べています。(参照Ⅰヨハネ4:9~10)
そうです。「私たちが神とともにいる」のではなく、「神が私たちとともにいてくださる」のです。私たち罪人は私たちの方から神に近づくことは決してできないのです。しかし、神が私たちに近づいて下さったのです。
では第二に、どうして神は、人としてお生まれになったのでしょうか。どうしてマリア<人>を通してお生まれになったのでしょうか。
聖書はその理由をヘブル2:17~18の中で宣べていますが、それは「神は私たちとともにおられる」という現実、私たち人間の弱さに共感して下さるお方であることを、私たちが知ることができるためです。
決して私たちが自分の力では近づくことのできない聖なる神に、大胆に近づくことができるという素晴らしい恵みを下さるために、人の弱さを知るお方として、人(マリア)からお生まれになった主イエスが私たちに近づいて下さったのです。
聖書はこの御子の誕生物語を通して宣べています。「神は私たちとともにおられる」という恵みが、今、主イエス・キリストの誕生によって実現しているのだと。
第三に、その恵みとは具体的にどのようなことでしょうか。
主イエスは私たちを招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と。
「優しい」という漢字は、「にんべん」に「憂える」と書きます。すなわち、「優しい」人とは、人の傍らにいて、共に悲しむことのできる人です。その人の悲しみやつらさを実感できる人です。
すでに、聖書によって、主イエスというお方について宣べましたが、このお方こそ、真の慰め主、救い主ではありませんか。神であられるのに人となってくださったほどに「へりくだられ」、「人となってくださった」が故に、私たちの弱さ<罪深さ>に同情できるお方として、共におられる神であり、私たちを愛して下さるお方なのです。
私たちの神はインマヌエルの神です。神は私たちといつも共にいて下さり、私たちに、おりにかなった助けを下さるのです。
何という驚くばかりの恵みでしょうか。このアドベント(待降節)の時、私たちといつも共にいて下さる神、インマヌエルの神に、心から賛美をささげましょう。
