2025/12/7(日) 『マリアのしあわせ』ルカの福音書1章39〜56節:村松 登志雄 牧師

本日は最初に、先週の礼拝でのマリアの受胎告知の場面を少し復習致します。
御使いは、マリアに処女懐胎(神の御子を宿す)を告げる訳ですが、その時、御使いは、実に丁寧に、マリアが信じることができるように、その事実と、その根拠を提示しました。

それは、まず第一に、マリアが妊娠するのは、ヨセフという男性(人間)を通しての通常の人間の性の営みによるのではなく、直接、聖霊、神によって妊娠するという、特別なことであることが伝えられます。

第二に、マリアの親類の祭司ザカリヤの妻エリサベツの、たとえ通常の男女の営みであっても不可能な妊娠が、神の御わざによってなされた事実が伝えられます。

 マリアはエリサベツの神の御わざによる妊娠を通して、イスラエル民族の父アブラハムとサラとに与えられたイサクの事実を思い起こします。

そして第三に、御使いはマリアに告げます。「神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ 1:37)」と。
マリアは、その御言葉によって、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と従ったのです。
マリアの素直な信仰に驚かされます。彼女の親類エリサベツも彼女の素直な信仰に驚いて賛美しています。「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。(45)」と言って。

しかし、御使いの受胎告知に対するマリアの信仰について、最も大切な事は、マリアの信仰は、神によって与えられたことです。御使いが彼女に「聖霊があなたの上に臨み、(ルカ 1:35)」と告げているように、御霊が彼女を導いておられるのです。
神は、マリアを聖霊で満たし、その上でマリアの処女懐胎を喜び祝福する、同じく御霊に満たされたエリサベツ(ルカ 1:41)をマリアに与えておられます。
神は、マリアに最善の配慮しておられるのです。
そして、マリアに「おめでとう、恵まれた方」と言う御使いの挨拶には、次のことばが続きます。「主があなたとともにおられます。(ルカ 1:28)」と。
マリアの信じる神、私たちの信じる神は、「インマヌエル<神が私たちとともにおられる>(マタイ 1:23)の神です。

神の、マリアへの最善の配慮、とは、エリサベツの存在です。マリアにとって、エリサベツの存在は非常に大きいと思います。
確かにマリアはその信仰によって、神の御子の受胎告知を受け入れたのですが、世間の状況は決してマリアに起こったことを事実として受け入れるほど、信仰的ではありません。彼女に、世間に対する恐れ、不安がなかった、などとは考えられません。

信仰があっても、現実の不安は不安としてあります。信仰があれば、不安など決して起こらないはずだという人もおられます。
確かにそれはとても素晴らしい事ですが、信仰者であるなら、何も不安がない、などということはないと思います。案外、その人が鈍感なだけということもあります。
また、信仰者であっても、不安があるということは決して不信仰であるということではありません。

何よりも、私たちの信じる主イエスはその弱さに同情してくださるお方であることを忘れてはなりません。
私たちは、その不安を、自分で抱え込まないで、主のあわれみにすがるために大胆に、主の恵みの御座に近づき、助けていただくことができるのです。参照;ヘブル 4:15~16)」。
マリアはそのあわれみを受けたのです。マリアの主への賛美も、その主の「あわれみ(50、54)」に対してであり、エリサベツもその「大きなあわれみ(ルカ 1:58)」を受けました。
神の「あわれみ」は、その弱さを乗り越えることのできる力を、そして勝利を与えて下さるのです。

さて、ここから本日の箇所ですが、マリアは何故エリサベツに会いに出かけたのでしょうか。当時の若い女性が独りでナザレから何日もかけて(5,6日?)ユダの町<エルサレムから遠くない山地>に行くなどということは、普通の事ではありません。

しかしマリアはどうしてもエリサベツに会いたいと思ったのです。彼女にとってどうしても必要な事だったのです。
何故なら、マリアが信仰によって受け入れていても、彼女以外にそのことを信じることのできる人は一人もいないのです。世間どころか、彼女の家族でさえも、そしてこの時点では、最愛の婚約者<夫>ヨセフも、です。
マリアの切実な必要は、同じ信仰の友、真の理解者です。
不妊の女性エリサベツに子どもが与えられたという事実、その神の奇蹟の体験者エリサベツなら、きっと自分の身に起こったことを、そのまま受け入れてくれるに違いない、と思ったのではないでしょうか。

そしてその訪問は、彼女の期待以上でした。エリサベツの祝福に満ちた歓迎は、彼女を癒し、彼女の確信は、さらに深められたのです。
もちろんその二人の感激の対面には、御霊の導き、満たしがありました。
エリサベツがマリアの挨拶を聞いたとき、エリサベツの胎内の子が躍り、エリサベツは聖霊に満たされ、マリアを喜び、祝福したとあります。
「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。(42~45)」と。

孤独なマリアにとって、それはどんなに感激であり、慰めであったことでしょう。
神は、そのご計画の中で、マリアに、誰よりも自分の身に起こっている事を理解し、同じ思いとなり、共感してくれる友を、すでに与えておられたのです。
主によって、エリサベツは、わが子(バプテスマのヨハネ)と同じように、マリアの道備えとしての役割が与えられているのです。
そしてエリサベツもまた、神の御子を宿したマリアによって、どんなに慰めと励ましを受けたことでしょう。主にある者の存在は、互いに慰め、互いに励まし合う事ができるのです。

マリアは約3ヶ月エリサベツと共に暮らしました。その間、マリアはおそらくストレス<先々の不安、婚約者(夫)のヨセフに何と説明したらよいのか、等>からくる、つわりに苦しんだことでしょう。

しかしマリアは、自分の身に起こっている現実と独りで戦うのではなく、エリサベツという最高の理解者と共に過ごすことができたのです。

また、その長い約3ヶ月もの滞在は、エリサベツの出産に関係があるのではないかとも考えられます。もしそうであるのなら、マリアは、エリサベツの出産の手助けをした後、ナザレに帰ったのかも知れません。
単純に計算するなら、マリアの受胎告知はエリサベツの妊娠6ヶ月目(ルカ 1:26)であり、その後のマリヤの滞在3ヶ月(56)を加えると、エリサベツの妊娠は9ヶ月です。
しかしそれほどきっちり計算出来る日数ではなく、「3ヶ月ほど」と言う表現から、もう少し幅があるのではないかと思います。
そして何よりも、福音記者ルカが、過去のエリサベツの出産の様子を誰から取材したのかという現実的なことを考えると、目撃者マリア以外にいないのではないかと思えるのです。

そして、もしそうであるのなら、その約3ヶ月の滞在のクライマックスは、エリサベツの出産の出来事です。
エリサベツの夫である祭司ザカリヤが、その子の名を「ヨハネ」と書き板に書いたその時、彼の口が開いて、ものが言えるようになって神をほめたたえた事(ルカ 1:59~64) を見て、マリアは、そこに、神の臨在を見たに違いありません。

その事によってマリアは、自分の身に起こっていることが神の御計画であること、必ず神はその御計画を成し遂げられることを確信することができたに違いありません。
マリヤはその約3ヶ月の滞在で、最高の理解者エリサベツと共に過ごし、彼女の出産における神の臨在(ルカ 1:63~64)を見て、神のご計画にある自分を必ず、主が守ってくださることの確信を深められたのです。
マリアは、最高の理解者エリサベツと共にあった約3ヶ月の滞在によって、世間に公けにその身をさらさなければならない勇気を、夫ヨセフに自分の身に起こった事を説明する勇気を与えられたのです。

しかし、神は、夫ヨセフにも、彼の夢の中で、マリヤの妊娠は聖霊によることを、彼に説明して下さり、マリアを妻として迎えるように命じて下さったのです(マタイ 1:20~21)。
また、夫ヨセフに迎え入れられたことよって、世間のうわさはともかく、不倫の罪に問われる事(死刑<石打ちの刑>)もなかったのです。

神は、神の御計画に中にある者に必ず助けを与えて下さるのです。神は耐えられない試練にあわせることはなさいません。(Ⅰコリント10:13)。
神のご計画の下にあり、神の御旨を行う者を、神の愛から、引き離すことはありません(ローマ 8:38~39)。

マリヤは、聖霊によって、神の御子を自分の胎に宿す、という不思議を通して、神を賛美しています。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は、私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。(46~48)」と。

では、マリアの告白している、彼女の幸い、しあわせ、とは、どんな「しあわせ」でしょうか。
現実のマリアに起こった状況は、決して、しあわせなどと言う状況ではありません。人間の目から見るなら、夫ヨセフ以外の子を身籠もるなどということが、どうして、しあわせ、などと言えるのでしょうか。
しかも、その与えられた息子は、やがて神の御計画の中で、彼女の目の前で、十字架にかけられて死ぬのです。その体験は人間の悲しみの限界を超えています。

マリアのしあわせ、とは、言うならば、春の温かい日溜まりの中にあるのではなく、冬の寒い北風の吹く中にある、しあわせ、です。
北風の吹く中で、その寒さを防ぐに十分な防寒服を与えられている、しあわせ、です。その防寒服は、「主のあわれみ」という防寒服です。

マリアの主への賛美は、マリアへの「主のあわれみ」に対してであると、先にお話ししましたが、マリアは、その「主のあわれみ」が、「このいやしいはしため」である自分に与えられたからであると告白しています。
神の御子を自分の胎に宿す、という光栄なことを、何故、ナザレの田舎娘の一人である自分のような者に与えられたのか、と、マリアは、純粋にその不思議に驚いているのです。

ですから、マリアのしあわせ、とは、主イエスが言われた、幸いな者、すなわち「心の貧しい人(マタイ 5: 3)」であることではないでしょうか。
そして「心が貧しい」が故に、御言葉にすがることのできる幸いではないでしょうか。
エリサベツが祝福したように、マリアは「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人」だからではないでしょうか。

マリアの身に起こったこと、そしてその身に起こったことに対する、マリアの主への賛美によって、私たちは、本当の「しあわせ」とは何か、を知ることができます。
それは、私たちの現実がどうであろうと、自分の身に起こっている事が、神の御計画の中にある事を信じることができることであり、神の語られた御言葉は、必ず実現すると信じ切る事ができることです。
「主のあわれみ」の眼差しが、いつも自分にも、注がれていることを信じることができることです。何という幸いなことでしょうか。

そして、それ故に、今私たちは、アドベント〈待降節〉の時を過ごしているのではないでしょうか。
私たちもまた、マリアのように「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました(49)。」と賛美する者として。

そして私たちもまた、「主はこのはしため〈奴隷、心の貧しい者〉に目を留めてくださったので、私はしあわせです!!」と告白する者とならせていただきましょう。