2025/11/23(日) 『主は御心を成し給う』ルカの福音書1章5〜25節,57〜80節:村松 登志雄 牧師

次週主日からアドベント<待降節>ですので、少し早いですが、クリスマスが待ちきれない子どものような気持ちで、今日は聖書のクリスマス物語を見て行きましょう。
本日の宣教聖書箇所、ルカの福音書1章 5節から25節と、ルカの福音書1章57節から80節までは、主イエス・キリストの誕生の前に起こった、バプテスマのヨハネの誕生物語です。主イエスの福音宣教の道備えとしてのバプテスマのヨハネの役割は、その誕生においても主イエス・キリストの前ぶれとして記されています。

では、この物語の全体の流れを見てみましょう。
「ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた(5)」とは、神殿で奉仕する祭司24組の第 8組にあたる者のことです(Ⅰ歴代24:10)。
また、彼の妻エリサベツは、「アロンの子孫<モーセの兄で大祭司(出28: 1~ 3)>(5)」ですから、祭司の中でも名門の出です。
そして祭司は約2万人近くいるというのですから、「神殿で香をたく(9)」という奉仕は、一生に一度あるかないか、という名誉な奉仕です。しかも、「くじを引いて(9)」当たったというのですから、本人の功績と関係ないところでの選び、すなわち「神の御心」以外にありません。
おそらく彼はかなり緊張して、神殿に入ったのではないか、と思います。「ところが、主の使い<天使>が彼に現れて、香の祭壇の右に立った(11)」のです。
彼は恐怖に怯えましたが、天使はやさしく「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます(13)。」と、彼にとって待ち望んでいた「良い知らせ(19)」を告げ、「その名をヨハネとつけなさい(13)」と命じました。
しかし彼は、「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。(18)」と、その「良い知らせ」に対する不信表明をした為、天使は自分の名をガブリエル(19<ダニエル 9:21~27>)と名乗り<その名の意味は「神の強者、神の人」で、その役割は、神のご計画を伝えること>、続いて「これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことば<神のお告げ、すなわち神の御心>を、あなたが信じなかったからです。(20)」と、主のさばきを告げました。
神殿の外でザカリヤを待っていた他の祭司達は、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた(21)のですが、神殿から出てきた彼は「彼らに話すことができなかった(22)」ので、彼らは、その彼の様子で、彼が神殿で幻を見たことが分かった(22)のです。
その後、彼の妻エリサベツは天使のお告げ通り身ごもりました(24,25)。そして、彼女は妊娠した確証を得て「『主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました』と主に感謝をささげ、五ヶ月の間、安静にしていました(25)。」
彼女の「恥」とは、子どもが与えられないということであり、神に祝福されていないという当時の社会から教えられた恥でもあり、世襲制の祭司にとって深刻な問題でした。
さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産みました(57)。その八日目に、近所の人々や親族が幼子に割礼を施すためにやって来て、その幼子の名を父親の名にちなんでザカリヤと名づけようとしました。が、エリサベツは「名はヨハネとしなければなりません。(60)」と答えたところ、彼らは「あなたの親族には、そのような名の人は一人もいません。(61)」と言い、父親のザカリヤに「幼子にどういう名をつけるつもりか(62)」と尋ねると、彼は書き板に、「その名はヨハネ」を書きました(63)。「すると、ただちに彼の口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神を誉め讃えた(64)。」のです。
そしてこの一部始終を見ていた人々は、ユダヤの山地全体に、語り伝え、聞いた人々は皆、「いったい、この子は何になるのでしょうか(66)」と言うようになりました。
そして父親ザカリヤは聖霊に満たされ、主なる神を賛美し、わが子が「いと高き方の預言者と呼ばれ、主の御前に先立って行き、その道を備え(76)」、「罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与える(76)」ことを預言しました。以上がこの物語のあらすじです。

ではこの物語から、私達は何を学ぶべきでしょうか。本日は三つのことを学びます。
第一は、神は必ず私達の祈りを聞いておられ、応えてくださるということです。
その証拠は、天使が「ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。(13)」と告げたことで分かります。
私達が祈るべきお方は、全知全能の神、天地万物の創造者であり、「私を探り、私を知っておられ、私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られ、私が歩くのも伏すのも見守り、私の道<人生>のすべてを知り抜いておられる(詩139: 1~ 3)」お方です。 
主イエスは父なる神がどのようなお方であるかを弟子達に教えておられます。
「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられる(マタイ 6: 8)」と。
しかし、ザカリヤへの祈りの応えで分かることは、神は、神の方法で、すなわち神の御心によってその祈りの応えを下さるのであって、私達人間の思惑によらないということです。
そして神は、その彼の自己中心の祈り、彼の望んだものより、もっとはるかに良いものをお与え下さるということです。
ザカリヤは自分の思いで、わが子を欲しましたが、神はその願いをはるかに越えたもの、「いと高き方の預言者」としてのバプテスマのヨハネを、彼の子として、与えられたのです。

第二は、神を信じているはずなのに、神が全能の神であることを知っているはずなのに、なかなか信じることができないのが、私達キリスト者であっても、罪性を持つ人間である、ということです。
そして、それにも拘わらず、神は私達を見離さない(ローマ 8:38~39)ということです。
天使は、ザカリヤに「あなたの願いが聞き入れられた」と告げています。
と言うことは、ザカリヤとエリサベツが神に必死に祈っていたことが分かります。彼らにとって、社会的な恥であり、彼らの家にとって深刻な問題だったからです。その祈りに応えていただけないのなら彼らの家が途絶えてしまうからです。
また、ザカリヤとエリサベツは不信仰な者ではなく、「二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を、落ち度なく行っていた。(6)」のです。非常に熱心で立派な信仰者なのです。
またどこかの道路で、不意に天使に出くわしたのではなく、神殿に入って香をたくことは、選ばれた祭司しかできないのであり、神殿は神の臨在の場所です。
その神殿の中に現れた天使を見、神の御言葉が語られたのなら、ザカリヤのような立派な信仰者なら、何の疑いもなく、信じるのではないか、と思えるのです。
しかし、彼は、その神の御言葉をそのまま信じられませんでした。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。(18)」と疑い、その証拠を求めています。
そして「この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。(18)」というのが、その疑いの理由です。
普通の人がこの理由を聞けば当然と思います。しかし彼は、ユダヤ人なら誰でも知っていること、彼の先祖アブラハムが百歳で妻のサラが九十歳の時(創17:17)、主なる神から子どもが与えられると約束されたこと(創17:16)、そして本当に与えられた事実(創21: 1~ 2)を思い出すべきだったのです。

そして、そのアブラハムもサラも、子どもが与えられる、という主の約束を信じ切ることができなかったのです。彼らの疑いの理由も同じでした。
アブラハムは「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。(創17:17)」と心の中で笑い、妻サラも「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。(創18:12)」と心の中で笑って呟いたのです。
それにも拘わらず、彼らに、約束の子が与えられたのです(創21: 1~ 2)。                主なる神は、心の中で笑って呟いたアブラハムとサラに言われました。「主にとって不可能なことがあるだろうか。<=否、ない>(創18:14)」と。      

さて、私達もまたこの聖書の語る事実を知っています。そして、「そうだ、信じなくては。不信仰であってはならない。」と決意もします。
しかし、私達もまた、自分の思惑や経験を越えることについては、信じ切ることができない、というのが正直なところではないでしょうか。
また、聖書は、聖書に登場する私達の信仰の先輩者達の多くが、神の御言葉の約束を信じ切れないで、失敗をしているのを見せています。
では、信じ切れないのは当然なのだから、それで良い、と言うことなのでしょうか。
否です。だからこそ、私達は信じなければならないのです。しかし、それを自分の決意や努力によって為そうとするので、失敗するのです。聖書は、そのことを何度も何度もその事実を示し、人間の愚かさを示しています。

まず私達は、私達自身がその愚かさを、自分のものとすべきなのです。
アブラハムの失敗ももザカリヤの失敗も、自分に関係のないことではなく、まさしく自分自身のことであることを。
そしてそれ故に、私達の中に、神の御子御自身、主イエス・キリストが来て下さって、私達のそのかたくなな信じない罪性の為に、十字架で死んで下さったことを徹底的に知るべきなのです。否、知ることができるように願う<祈る>べきです。
主イエスは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。(ヨハネ20:27b)」と命じておられるからです。
と同時に、主イエスが「あなたがたもわたしにとどまっていなければ、<信仰の>実を結ぶことはできません。・・・・わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:4b・・5b)」とも警告しておられることを忘れてはなりません。

そして「私は不信仰だから、」という言い訳はしてはならないのです。その理由は、その言い訳によって、自分自身で自分を不信仰な者と定めてはならないからです。何故なら、神があなたをそのような者として見ておられないからです。
聖書は、そのことについて、不思議な事実を記しています。と言うのは、ヘブル人への手紙11章に、アブラハム等、多くの信仰の先輩者達についての神の称賛の記事があります。
しかし不思議なことは、彼らの失敗については何も記していないのです。彼らの良いところしか記していないのです。
何故でしょうか。それはその背後に、主イエス・キリストの十字架の罪の贖いが与えられているからです。
そして彼らは、その多くの失敗によって悔い改め<悔い改めとは、自分の思惑に心を向けるのではなく、神に向き直ること>、信仰を増し加えられていったのです。
神は、失敗するあなたではなく、そこから悔い改めて、神に向き直るあなたを見ていて下さるのです。ペテロのように(ルカ22:32)
私達は、私達の失敗が、神御自身のなさろうとされることに障害となるなどと愚かな考えを持ってはなりません。

何故なら「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っている(ローマ 8:28)」はずだからです。それならば、私達もまた聖書に登場する信仰の先輩者と全く同じように、神に取り扱われるのです。何という慰めでしょう。

第三は、神の、信仰者<キリスト者>に対するさばきは、恵みである、ということです。
神のさばきによるザカリヤの沈黙とは、神が彼に、神御自身をより深く知る、チャンスを与えられた、ということなのです。
天使はザカリヤに神のさばきを告げました。「見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。(20)」と。
ここで「わたしの言葉」とは、天使の言葉ではなく、神の御心を告げた天使の言葉であって、神の御心<御言葉>のことです。
伝道者はこう宣べています。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。(伝 3:11)」と。
ザカリヤは、その与えられた沈黙によって、神の御前に静まることができたのです。
ダビデはこう賛美しています。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して揺るがされない。
私のたましいよ、黙って、ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。
私の救いと、私の栄光は、ただ神にある。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を、神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。(詩62: 1~2、5、7~ 8)」と。

神のさばきによる沈黙は、私達を悔い改めに導き、すなわち私達を神に向き直させ、私達の自分の思いの中で閉じ籠もっている世界から、私達を神の無限の恵みの世界に導いて下さるのです。
私達は、神の御前で静まるとき、神は必ず、私達の願いを聞いていて下さるお方であることを知ることができます。
そして私達の神は、私達の願うところを遙かに越えて、素晴らしいことを、最善を成し給うお方であることを知ることができます。
私達の神は、御心を行われるのに、私達の不信が妨げになるなどということはなく、私達の不信をも、益と変えて下さるお方であることを知ることができます。

神のさばきによる沈黙は、私達に「神は御心を成し給う」お方であることを知る機会として下さるのです。
次週主日から始まるアドベント<待降節>の時、私達もまた、神の御前で静まろうではありませんか。


私達に最も必要なことは、神の御前で、思いを巡らすことです。御霊に満たされることです。
私達は、このアドベントを迎えようとする今、何を思うでしょうか? 
疑い深い一年だった。試練続きの一年だった。信じ切れない一年だったと嘆くでしょうか。 しかし、また思い出しましょう。神は必ず、私達の祈りを聞いて下さる方である事を。
そして、疑い深く、信じ切れない私達を決して見離さないお方であることを、そして更に裁きに見える神の沈黙さえも、私達を神に向き直させる恵みであるということを今一度確認し、力強く確信し、喜びのクリスマスを迎える時を過ごしましょう。