本日の聖書箇所でまず目を引くのは12節の主イエスの行動です。「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」とあります。
この直前にあったのは何だったでしょう。それは安息日に主イエスが人を癒した事に対して宗教指導者パリサイ人達が怒りに満ち「イエスをどうするか話し合いを始めた」という事実でした。 敵意にあふれる彼らを前にして、主イエスがなさった事は、なだめる事でも論破することでもなく、静かに山に退いて祈ることでした。それも夜通し祈られたのです。そしてこの祈りの目的は十二人の使徒の選任でした。特別な弟子十二人を選ぶということです。
ではここで、「使徒」とは何かを見て行きましょう。
「使徒」とは、「使節、大使、特別な使命を帯びて派遣された者」という意味で用いられる語であって、「派遣する」という語に由来しています。
主イエスは言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。(ヨハネ15:16)」と。
ですから、「使徒」とは、主イエス・キリストに任命され、派遣された者のことです。
また、この使徒が12人であったことは、イスラエルの十二部族に由来します。
そして、この十二使徒は後の教会の基礎ともなる12人でした。ですから気まぐれや思いつきで人選するはずはありません。それは夜を徹して祈るというほどに重大な事であったのです。
では、主イエス・キリストに選ばれた十二使徒達がどんな弟子達であったかを見てみましょう。まず14節から見て行きましょう。十二弟子は、二人一組で紹介されています。
最初に登場するのは、私達に最も親しみを感じさせるペテロです。彼は良くも悪くも弟子達の筆頭です。彼は、主イエスによって、ペテロ<ケパ<アラム語>「岩」の意)(ヨハネ1:42)>と名付けられました(マタイ16:18)が、元の名はシモンと言い、かつては漁師でした。
彼が主イエスにペテロと名付けられたのは、彼の「あなたは生ける神の子キリストです。(マタイ16:16)」という主イエスに対する完璧な信仰告白<しかし、これも父なる神による(マタイ16:17)>によります。
しかしその直後に、主イエスが十字架の死の預言をされると、彼は「主イエスをわきにお連れして、いさみ始め、『そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』」と言って、主イエスに『下がれ。サタン』と一喝された(マタイ16:21~23)事もありました。
また、彼にとっての最大のエピソ-ドは、主イエスの十字架にかかられる前夜の出来事だったでしょう。主イエスへの絶対的服従を明言し、自分だけは絶対裏切らないと豪語しておきながら、主イエスが捕らえられてしまった時、恐れからイエス様を「知らない」と否んでしまいました。しかも呪いをかけてまで、、、。しかし、この事実が後に復活の主に会った時、献身を新たにする動機にさえしていただいたのです。(マタイ26:31~35、26:69~75)
このようにペテロは直情的で、激しく、しかし時に弱気になる、実に愛すべき人物です。
次にペテロの兄弟アンデレです。彼は、ペテロより先に主イエスと出会い、ペテロを主イエスに紹介した人物です(ヨハネ1:40~42)。ですから彼は、私たちキリスト者にとって、主イエスのもとに人々を連れて来る伝道の人として有名です。
彼はペテロと共に漁をしていたとき、ペテロと一緒に主イエスの弟子として召されています(マタイ4:18~20)。しかし、彼はペテロのように目立った行動をしていません。絶えずペテロの陰に隠れていた人物とも言えます。
次にヤコブとヨハネはゼベダイの子で兄弟です。彼らもかつては漁師でしたが、雇い人もいて、かなり裕福であった様で(マルコ1:19~20)、大祭司とも付き合いがあった様です(ヨハネ18:15~16)。この兄弟は二人共、主イエスに「ボアネルゲ<雷の子>(マルコ3:17)」とあだ名をつけられたほど、気性が激しかった(ルカ9:54~56)様です。しかし後に、使徒ヨハネは彼の記した書簡によって「愛の使徒」とまで呼ばれるまでになった人物です。
ヤコブについてはあまり詳しく記されていませんが、主イエスはよく、ペテロとヨハネとヤコブだけを連れて行かれることがあり、彼はペテロとヨハネとともに主イエスの側近とされていました。そのため彼は主イエスの「栄光の姿」を見ており(マタイ17:1~3)、ゲッセマネで祈られる主イエスの近くにいた人でした(マタイ26:37)。
そして、彼は十二使徒の中で最初の殉教者となりました(使徒12: 1~2)。
そしてピリポはペテロやアンデレと同じガリラヤ湖畔のベッサイダの出身です(ヨハネ1:44)。
彼は友人ナタナエル(バルトロマイ)に、主イエスを紹介しようとした時、旧約聖書から適切に主イエスについて論理的に説明した人物です(ヨハネ1:45)。
主イエスは彼に対して、いつも親しく話しかけていたようです。その例として、主イエスが五千人の給食の奇蹟のとき、彼を試して、「どこからパンを調達しようか」と質問された時、それに対して彼は実に現実的な計算のみの思考から、不可能であることを伝えました(ヨハネ6:6~7)。
このように彼は、論理的であり、現実の計算に傾く人物であったのかも知れません
さあ、バルトロマイはどうでしょう。彼はピリポの友人ナタナエル(ヨハネ1:45~50)と同一人物のようです。ナタナエルは、ピリポによって主イエスのことを知らされたとき、「ナザレから何か良いものが出るだろうか。(ヨハネ1:46)」と皮肉的な懐疑心を表しました。
しかし主イエスに、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたが無花果の木の下にいるのを見ました。」と言われて驚き、主イエスに従った人でした。
さて次に、マタイはマタイの福音書の記者であり、少し前に見たように、彼はユダヤ人社会では売国奴として嫌われていた取税人でした。しかし、彼は自分の名前にわざわざ元の職業を記しています。「取税人マタイ」と。それはこんな者が神の恵みの故に主イエスの弟子とされたのだとの自戒の思いも込めてのことだったのでしょう。
そしてトマスは、「復活の主イエスに出会った他の弟子達が彼に『私たちは主を見た。』と言ったとき、『私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に私の指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。』と言った(ヨハネ20:24~29)」ほどに、頑固で疑い深い人物として有名です。良く言うなら慎重な人です。
次に、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンについてですが、彼らの詳細はよくわかりません。しかし、ゼベダイの子ヤコブとの区別のため、アルパヨの子ヤコブと紹介されたのでしょう。熱心党員シモンも、シモン・ペテロとの区別のためと思いますが、他の弟子と違うのは、親の名前での区別ではなく、「熱心党員と呼ばれていた」という表現です。聖書は、この表現以外に彼のことを詳しく宣べていませんが、当時の祖国ユダヤの独立を図ろうとする熱狂的愛国者であっただろうと思われます。
しかし、地上の王国ではなく、天の御国を与える為に来られた主イエスにとって、厄介な人物ではなかったかと想像できます。そして更に、ユダヤの国の売国奴のような仕事をしていた取税人マタイとは相容れない物を持っていたでしょうから、この二人が12人のグル-プに同席していることはかなり軋轢を生んだのではないでしょうか。しかし敢えて相反する2人を入れるという所に深い洞察を覚えます。
そして、最後に紹介されている組の二人の名は、両方ユダですが、ヤコブの子ユダと、イスカリオテのユダに区別されています。
ヤコブの子ユダは、タダイと同一人物と考えられています(マタイ10: 3、マルコ 3:18、ヨハネ14:22)。
最後の、イスカリオテのユダは、「イエスを裏切った者となった」という不名誉な但し書きが記されています。彼が何故、十二使徒に選ばれたのかは謎です。
しかし、主イエスは最初から最後まで彼を愛しました。主イエスは、ご自身を裏切り、祭司長達に引き渡すために近づくユダに対して「友よ(マタイ26:50)」と呼びかけておられます。
ペテロは彼についてこう証言しています。「ユダは私たちの仲間として数えられていて、その努めを割り当てられていました。(使徒 1:17)」と。
ですから、ユダは初めから主イエスを裏切る者ではなかったと思われます。彼自身そんな事は考えていなかったと思います。
しかし続いてペテロは、ユダによって欠けた十二人目の使徒の選びを主の御前で祈った時、ユダについてこう証言しています。「ユダは自分の場所へ行くために離れてしまった、(使徒1:25)」と。「自分の場所に行く」とはどういうことかと言いますと、彼は、悔い改める<神の御前に行く>ことをせず、主イエスではなく、自分<の思い>を第一にすることを選んだことです。
ユダについて考える時、私は厳粛な思いになります。その罪性が私自身にもあることを、私もユダとなる可能性があることを思わされるからです。主イエスよりも、自分を第一にする者であることを。
ですから、その一部始終を見ていたペテロは、自分自身も含めてこう警告しています。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(Ⅰペテロ 5: 8)」と。
さて、先ほども申し上げたように、主イエスは、この十二使徒を任命する前に、徹夜で祈られました(12~13)が、いったいどの様に祈られたのでしょうか。
主イエスは「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。(ヨハネ5:19)」と言っておられます。
この御言葉によって、主イエスはどの様な事においても、父のみこころを行われるお方(参照;ヨハネ5:30)であることが分かります。
ですから、主イエスは誰を十二弟子に任命したらよいかを悩み、相談する為に、父なる神に祈られたのではなく、父の御心によって召された弟子達のために祈られたのです。
この主イエスの、夜を徹しての弟子達の為の祈りに、十字架の愛を感じます。
神の御子であられ、人の子である主イエスは、「わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わした方の御心を求める(ヨハネ 5:30)」と言われた様に、何時如何なる時も、父なる神に心から服従されました。
ですから、主イエスは父なる神によって与えられた十二弟子達、どうしようもない、相応しくない者達の為に、心からの愛を持って祈られたのです。
主イエスは十字架の死の前夜も、ゲッセマネの園で、父なる神に、弟子達の為に祈られました。 そして主イエスは、弟子達を「あなた<父なる神>が世から選び出して与えてくださった人たち(ヨハネ17: 6)」と言っておられます。
そして御子イエスは、御父が選ばれたのだから、わたしには関係がないとはお考えになりませんでした。その証拠は、主イエスが「父が与えて下さった弟子たち(ヨハネ17: 6)」に対して、「わたしがあなた方を選び、あなたがたを任命しました。(ヨハネ15:16)」と、ご自分でも言っておられるからです。
御父が愛された者を、御子も同じように愛されたのです。(ヨハネ15: 9、17:23,26)
そして主イエスは、過越の祭りの前の夕食のとき、十字架の死の前夜、弟子達の足を洗い、彼らに対する最高の愛を示されました(ヨハネ13:1~5)。
しかしながら、これまで見て来たように、選ばれた十二使徒達は主イエスの使徒として、相応しい者は誰一人いませんでした。社会的にも、彼らの評価は低い人々でした。
福音記者ルカはペテロとヨハネを捕らえたユダヤ人議会の指導者達が「二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。」(使徒4:13)と記しています。
そして彼らに主イエスは「いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。(マタイ17:17)」と嘆かれたこともあります。
また彼らは普段から、誰が一番偉いのかと争うような人達でした(マルコ9:34)。しかも主イエスの十字架の死の前夜でさえ、彼らはまだ、この中で誰が一番偉いのか、と論議していたのです(ルカ22:24)。
しかし、そんな彼らは、主イエス・キリストの十字架の血潮による罪の贖いによって、御霊に満たされ、キリストに相応しい者へと変えられて行きました。
ですから、パウロはこう宣べています。「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば、知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち、無に等しい者を選ばれた(Ⅰコリント1:26~28)」と。
そうです!ですから私たちもまた、同じ様に選ばれた者です。「主イエスに任命され、遣わされた者」という事において十二使徒だけでなく私達キリスト者全てが、主の弟子として召されているのです。使徒と同じです。あの番外使徒とも言うべき大先輩パウロも「私たちはキリストに代わる使節なのです(Ⅱコリント5:20)と宣べているのですから。
このように、相応しくない者が、主イエス・キリストの十字架の血潮による罪の贖いによって、相応しい者とされ、選ばれたのです。
しかし、私たちはこんな風に考えてしまう事はありませんか?自分自身を見る時「こんな何も取り柄がない者が、、、」と嘆くことはないでしょうか。そして、他の人と比べて「あの人は優れているけど、自分は、、、」と言って劣等感に苛まれる、ということはないでしょうか。私も絶えずそんな思いに襲われる者です。
しかしそんな時、私はある少年が言ったことを懐かしく思い出します。それは前の教会に仕えさせて頂いていた時、教会学校で出会った少年です。彼は言いました。「ぼくは今まで、一回もテストで100点を取った事がない。クラス委員に選ばれたこともない。スポ-ツでも選手に選ばれたことがない。学芸会でも主役には選ばれない。でもでも、イエス様にぼくは選ばれたんだ!ぼくはイエス様の弟子なんだよ!」とすごく嬉しそうに輝く笑顔で話してくれました。彼は掴んだのです。最も大切な事を。
主イエスは命じられました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイ28:19)と。
そして主イエスは、その私達と、今も、いつも共にいて下さいます(マタイ28:20)。しかも主イエスは私たちのために祈っていてくださるのです。
主イエスは、地の塵に等しい、何一つ取り柄のない者、御自身を裏切る者達の中で、その人間のどうしようもない罪性の現実の中で、夜を徹して祈られたのです。
そして今も生きておられ、私達の為に祈り、執り成していて下さるのです(ヘブル 7:25、ローマ 8:34)。何と言う、驚くばかりの愛でしょう!
ですから私達は、心から喜んで、この主イエスの愛に応える者として、主の証人とならせていただこうではありませんか!
