前回、私たちは安息日について見て来ました。
安息日とは「神を知り、神と交わること」であって、その「安息日」の中心は主イエス・キリストご自身のことであるという事でした。
そして主イエスは「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。(マルコ2:27~28)」と宣べられているように「安息日」は人間が、真に人間らしく生きるために、主なる神が人間の為に制定して下さったものでした。
それというのは、神の御前に憩い休息する時を神が制定して下さらなかったら、私たち人間は、自己中心の罪の暴走の結果、罪の滅びの死に至るしかなかったということを見て来ました。
私たちが誤って滅びの道を歩まないようにと、「神との交わり」という至福の時を私たちに賜り、その上で、感謝を携えて集う、すなわち、真に神を礼拝する私達を、切に求めておられる(ヨハネ 4:23参照)ということを共に熱く学びました。
さて、それでは本日の箇所に入ります。イエス様は今日もCOOL(かっこいい)です。6節、別の安息日に、主イエスは会堂に入って教えておられました。
しかし、その会堂には、例によって、主イエスへの敵意をむき出しにしているパリサイ人達がいました。思い出して下さい。主イエスとパリサイ人との間には所謂“安息日論争”なるものが勃発していました。前回、主イエスはパリサイ人達が反論できないような角度から神の御心を示し、パリサイ人の主張を覆されました。普通なら、「なるほど、そうだったのか」と素直に認めるところをこのパリサイ人達はそうはならなかったのです。更なる怒りを燃やし、イエスを陥れる次なる機会を狙っていたのです。
こうなると、神への礼拝などどこへ行ってしまったのかと思います。神のことを思わず、ただイエス憎しの思いに駆り立てられていたようです。
主イエスもそのことをよくご存じでした。ならば何故、みすみすそのような場所に赴かれたのでしょう。本来、主イエスご自身は「安息日の主」であり、パウロが宣べたように、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにならない(使徒17:24)」お方なのですから、わざわざ敵のいる会堂に行く必要などありません。
しかし、「神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられた(ピリピ2: 6~ 7)」神の御子、主イエスは、「安息日」を守ること、すなわち父なる神を礼拝する事を何より大切に思われ、自ら会堂に行かれました。
これは主イエスは人の子として、神の礼拝日に公同礼拝に参加するという人間にとって最高の時を持つために会堂に来られたという意味なのです。
ですから、ご自分に敵対するパリサイ人の存在をご存じでありながらも、彼ら、すなわち人を恐れるのではなく、神を恐れる真の礼拝者として会堂に来られました。主イエスは何よりも礼拝者であることを大切にされたのです。
また、主イエスは「(律法を)廃棄するためにではなく、成就されるために来られた(マタイ5:17)」お方でした。
それはパリサイ人達のように律法に定められているからとか、規則を守るためというようなことではなく、誰よりも父なる神を愛するが故に、誰よりも父なる神との愛の交わりを喜び、三位一体の神の臨在の場所である会堂に来られるという行動を持ってその律法の意味する所を成就されました。
ですから、会堂に来るという表面的な行動はパリサイ人達と同じ様に見えますが、その動機はパリサイ人達のように規則<儀式>を守るといういうような守り方とは全く違うのです。
どう違うのでしょうか?それは“神への愛”がその動機です。それはその後の、この会堂での出来事によって明らかになります。
6節、そこに「右手のなえた人」がいました。「そこで、律法学者パリサイ人達は、主イエスが安息日に人を治すかどうか、じっと見つめていた( 7)」のです。
「じっと見つめていた」のは、「主イエスを訴える口実を見つけるため( 7)」すなわち主イエスを律法破りの罪人であることを、集まっているユダヤ人達に証明し、主イエスをユダヤ人議会に訴えようとしていたからなのです。何という事でしょうか、、、聖なる礼拝が行われる会堂で、、、
しかし8節「主イエスは“彼らの考えを知っておられた”」のです。何故なら「人は上辺を見るが、主は心を見る(Ⅰサムエル16: 7)」と、そのようなお方だからです。
それで、右手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われました。すると「その人は、起き上がり、そこに立った。」のです。
そして主イエスは、この会堂にいる人々に質問されました。9節「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」と。そして、10節「彼ら全員を見回してから、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われました。<彼が>その通りにすると、<彼の>手は元どおりになった。」のです!
パリサイ人達はどのような反応をしたでしょうか。
彼らは、目の前でこの素晴らしい奇蹟を見ました。しかし、にもかかわらず、彼らが見ていたのは、主イエスが安息日の規定を破ったという現象だけでした。彼らには、片手のなえた人に対するあわれみの心など全くなく、その人が癒されたことなどどうでも良かったようです。そしてあろう事か、11節「彼らは怒りに満ち、イエスをどうするかと話し合いを始めた。」というのです。
何というパリサイ人達の悲しい姿でしょう。彼らは「安息日の主」である、主イエス・キリストが、目の前で「安息日」に行うべきことを御言葉と愛の行動によって、これだけはっきりと示されたにもかかわらず、彼らには何も見えていなかったのです。
彼らは、自分達の「主義」を絶対化していました。故に、その自分達の主義に反すれば、たとえ現実を目の前に突きつけられても、受け入れる事が出来ず、かえって自己防衛の為に攻撃的になって行ったのです。正に律法の奴隷です。
一方、主イエスがご覧になっていたものは、律法をどれだけ守っているかなどということではなく、どうにもならない人間の罪というものでした。
何という心のかたくなさ、何という人間の罪深さでしょう。ですから主イエスは、悲しみの心の内にも、もはや御自身の十字架での罪の贖いしかない、とこの時確信し、その後この心のかたくなな彼らパリサイ人の為にも、十字架の道を歩まれたのです。
しかし、当時のユダヤ人社会において、最も神に近いと自他共に認められている彼らパリサイ人が、父なる神の御心、それは主イエス・キリストの罪の贖いの為の十字架に至る道でしたが、それに対する悪役(敵役)として用いられてゆくとは、何という皮肉でしょうか。
彼らは人一倍宗教熱心で、律法の規定を隅から隅まで守ろうとしている者達であったのに、その実、神から最も遠い存在になってしまったという事実に、震える思いがします。そしてそこに人間の罪性の恐ろしさを感じます。
さてここで私たちは、主イエスに敵対するパリサイ人達の安息日論争を通して、何を見るべきでしょうか。
パリサイ人達は、律法を厳守する者として「安息日」の規定を厳格に守っていましたが、それでは今日、私たちが主イエスの復活の日に守る“礼拝”というものに置き換えて考えてみましょう。
今日の主日礼拝において、私達はこのパリサイ人達とは違うと言えるでしょうか。いやいやそんな、私たちがパリサイ人になるわけがないと思えるでしょうか。
では私達は、主日礼拝のプログラムを、礼拝そのものと勘違いしていることはないでしょうか。礼拝プログラムを守ることによって、礼拝したつもりになっているということはないでしょうか。ここは大変間違い易い所でありますが、大変重要な所です。
繰り返し言いますが、礼拝の本体は主イエス・キリストです。ですから、礼拝とは、主イエス・キリストが示された愛の世界に生きることです。
ここで主イエスが捉えた「律法」というものを見て行きましょう主イエスは「律法」すなわち「十戒」を二つに要約されました。それは「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(マタイ22:37)」と、もう一つ「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」の二つ「神を愛しなさい」と「隣人を愛しなさい」です。
そして、パウロはこの第一戒と第二戒をまとめて、「律法全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』という一つのことばで全うされるのです。(ガラテヤ5:14)」と、更に昇華させた段階を示しています。
ですから、「主日礼拝」は、主イエスが示されたこの二つの律法が守られる日です。そして、主イエスは、これを新しい戒めとして弟子達に何度も(ヨハネ13:34、15:12、17)命じられました。「わたしはあなた方に新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」と言われて。
「安息日の主」を礼拝する真の礼拝者とは、ヨハネの手紙第一4章 9~11節の「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させて下さいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」の御言葉に従い生きる者ではないでしょうか。
真に神と交わりを持った者ならば、御言葉にあるように、隣人と交わることをしないでいられるのでしょうか。
神と親しく愛の交わりを持った者が隣人と親しく交わることをしないことがあり得るのでしょうか。
コロナ禍前の逗子福音教会の礼拝後には、素晴らしい交わりの一時がありました。それは、礼拝が終わった後のティータイムです。
交わりの一時を持ちたい、と言う要望があって行われるようになりました。
真の礼拝者には、礼拝が終わった後に、真に神との交わりを持った者としての具体的なその特質が現れるはずです。
今は祈祷会という形で、祈りの中で共に必要を分かち合っていますね。とても大切なことだと思います。
礼拝後に、すぐに求道者の方々に声をかけ、その人達を一人にしたりはしないでしょう。
何と言っても、教会にわざわざ来て下さった方に感謝しないで、その人を放っておくことなどできる訳がありません。
また、久しぶりに来られた方がいらしたら、その再会を喜び、またもし礼拝に欠席されている方があれば、互いにその方の消息を訪ね、隣人と共に祈るでしょう。
真の礼拝者が最も大切にすることは、神に愛されている者としての隣人との交わりのはずです。キリストのからだとしての一体性が現れるはずです。
ですから、真の礼拝とは、礼拝プログラムを守ることではなく、神様への愛、隣人の方への愛、すなわち、十字架の愛(神と自分との縦の関係、自分と隣人との横の関係)の実が結ぶ所です。
礼拝プログラムが終わったら、礼拝が終わったのではなく、その礼拝において結ばれた実によって、恵みの分かち合いが必ず生じるのです。
礼拝はプログラムで終わるのではありません。真の礼拝者には、むしろその後の互いの交わりを通して、見えない神との愛の交わりによって結ばれたその実が具体的に現れるのです。
私にはここで、ある一人の姉妹の方が取った行動が思い起こされます。
その姉妹には、同じ職場の同僚で、まだ神様を信じていない友達がいました。その方は、深い深い悲しみと悩みの中におられたそうです。毎回毎回その姉妹は根気強く、その同僚の悩みに耳を傾けていました。しかし、ある時、その同僚があまりにも暗く沈んだ思いに心が乗っ取られているのを感じたそうです。そこでその姉妹が取った行動というのは、思わずその同僚の手を取り、「あなたの為に祈らせて欲しい」と申し出たということでした。大胆な行動です。まだ神様を信じていないその同僚からしたら、「一体何事だろう」と奇異に思われる行動だったかも知れません。変な人だと思われる可能性だってあったかも知れません。しかし、その姉妹は人目や、その同僚にどう思われるかなど、その時には眼中になかったそうです。ただ、目の前にいる人の苦しみを救いたい、祈らずにはいられなかったという、愛の表出だったと思うのです。
果たして、その同僚の方はその後、神を信じ、イエス様を自分の救い主として受け入れ、愛の共同体の中に招き入れられました。これこそが真の礼拝ではないでしょうか。
使徒ヨハネは、こう宣べています。「人間の目を通して見る事の出来ない神を、私達キリスト者の愛の交わりの中で結ばれた実によって、見せる事が出来るのだ(参照;Ⅰヨハネ 4:12)」と。
初代教会のキリスト者の交わりには、神への愛と隣人への愛が顕著に見られました。
使徒の働き2章46~47節には「そして、毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心を持って食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」とあります。
どうして、全ての民に好意を持たれたのでしょうか。
どうして、主が毎日救われる人々を仲間に加えて下さったのでしょうか。
教会が真の礼拝者で満たされるとき、すなわち「キリストを証しする人」で満ちたとき、主は救われる人々を送って下さるのです。
何故なら、神の愛を受け取った真の礼拝者達はどんな人でも受け入れることができるからです。神はその受け入れた人数に応じて、多くの人々を喜んで送って下さるからです。
「安息日の主」を真に礼拝する者とは、熱心に礼拝に集い、熱心に献金をし、熱心に教会奉仕に励むことを越えて、今そこにおられる隣人に思いが至るキリスト者のことです。
それはあなたにもできる事です。ですから、私達は今日、自分の隣人として与えられた方を心から愛し、共に主なる神を喜ぼうではありませんか!
