2025/9/21(日) 『主の素晴らしさを味わい、見つめる日』ルカの福音書6章1〜5節:村松 登志雄 牧師

先週は、新しいぶどう酒を頂いた、私達の生き方について見て来ました。さて本日の箇所はいわゆる“安息日論争”と呼ばれる箇所です。パリサイ人達の非難は相変わらず続きます。
先週までの所でも、パリサイ人達の悪意ある問いかけに、イエス様は思いもよらない切り口、視点で神の御心を鮮やかに示して来られました。

さて、本日の箇所でも主イエスの切り返しは健在です。本日の箇所は「ある安息日」の出来事です。その前に安息日とは何かを押さえておきましょう。
聖書には、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。・・・・それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。(出エジプト20: 8~11)」と記されています。
主イエスも、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)」と宣べておられます。
「安息日」は、ユダヤ教徒も、キリスト者も、守るべき聖なる日であることは間違いありません。
現在、私たちキリスト者は、復活の主こそ礼拝すべきお方であると信じており、その主イエスご自身が「安息日の主」であると宣べておられるので、主イエスの復活の日を記念して、ユダヤ教の土曜日ではなく、日曜日を「安息日」として礼拝しているのです。

では本日は、この「安息日」の出来事について見て行きましょう。
さて、主イエスと主の弟子達は、ある安息日に麦畑の中を通りかかったとき、弟子達が空腹のために「穂を摘んで、手でもみながら食べて(1)」いました。
すると、あるパリサイ人達がそれを見つけて言いました。2節「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」と。(このようにパリサイ人達はいつもイエス様一行を監視していたのですね。)
ここで注目すべきは、彼らの非難が、他人の麦畑のものを盗んだという罪を咎めたのではありません。何故なら、旧約聖書には「隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでも良い。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。(申23:25)」というイスラエル共同体の恵みの規定があるからです。
彼らは主イエスの弟子達が「安息日にそれを行った」と、非難しているのです。そして、弟子達にそのことを許している主イエスを非難しているのです。
「安息日にしてはならない」こととは、安息日に「いかなる仕事もしてはならない。(出20:10)」という律法から来ています。
主イエスの時代には安息日にしてはならないことの規定が詳細に定められていて、それは39の基本的な規定からなって、そこから更に細かく分かれ、その条項は1,521にも及んでいたそうです。この規定によると、この麦の穂を摘む行為を、その禁じられた仕事の中の「刈り入れ」に関することで、刈り入れ作業に当たるというのです。そして穂を摘んで、手でもみながら食べていた(ルカ6:1)ことは脱穀作業であり、貯蔵行為であるということなのです。もちろん、こんな規定は旧約聖書にはありません。

そこで主イエスは彼らに答えて言われました。3節「ダビデと供の者たちが空腹になったとき、ダビデが何をしたか、どのようにして、神の家に入り、祭司以外はだれも食べてはならない臨在のパンを取って食べ、供の者たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」と。
この言葉は、文字通り読んだことがないという意味ではありません。聖書に精通している彼らはその事件をもちろん良く知っていました。しかし、その真意を悟っていないことを、主イエスは皮肉っておられるのです。
サムエル記第一21章1節から~6節には、“ダビデが、サウル王の迫害から逃げ、ノブにある幕屋にたどり着き。そこで彼は、聖別された供えのパンで、それは毎週新しいものに取り替えられ、その下げられた古いパンを祭司だけが食べることを許されていたのですが、そのパンを、祭司アビメレクから与えられ、彼が食べた。”ことが記されています。
このことは明らかに律法を破っています。しかし神はダビデを罰していないのです。
このことは律法を破って良いということの教えではなく、窮乏している隣人に対する愛こそ、律法の本質であることを示しています。                            
「律法全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つのことばで全うされるのです。(ガラテヤ 5:14)」とある通りです。

では何故、パリサイ人達は、それが分からなかったのでしょうか。
彼らは、決して不真面目な人達ではありません。それどころか、私達が見逃してはならない事は、彼らの律法を守ることにおいての、自分に対する厳しさは、ある意味で、私達が見習わなければならない事です。「そこまでやるか」というほどに、神に近くあろうとする、その努力を笑ってはなりません。
しかし悲しいかな、それは、所詮、「肉の行い<人間的努力>」であったのです。御霊の助けによってでなければ、罪ある者は、必ず傲慢になり、人をさばくのです。
彼らは、かつてはパリサイ人であり、「律法による義については非難されるところがない者でした。(ピリピ 3: 6)」と言い切ったパウロが、自らを反省しながら言ったように「古い文字(ローマ 7: 6)」に仕えていたのです。
「古い文字に仕えている」というのは、律法主義、教条主義のことであり、形は守っていても、その実は、相変わらず罪に束縛されている生き方です。外側は美しく見えても、内側は汚れている(マタイ23:25~28)生き方です。
そして彼らパリサイ人は、パウロのように「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。私には、自分のしていることが分りません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。(ローマ 7:14~15)」と告白して、罪の責めにボロボロになっている自分を認めるのではなく、主イエスの御前に立っていながら、本当の自分を見つめようとしない人達でした。

そしてこの安息日の規定も、たとえ人間が作ったものといっても、その出発は、如何に聖なる神に相応しく過ごすべきか、という真面目なものであったに違いありません。
しかし、その主義、主張が、絶対化してゆくとき、神から離れてゆくのです。何とも皮肉なことです。その意味では、今日の所謂「福音主義」も、パリサイ化するという危険性を認めなければならないと思います。
具体的には、身近なことで、礼拝の守り方とか、礼拝における音楽の用い方とか、伝統か改革か、と、いろいろあります。もちろん、何でも自由でよい、ということでもありませんし、伝統を守ればよい、ということでもありません。
それはどんな時でも、どのようなことにおいても、「自分がどこに立っているか」が問題なのです。パウロのように、「私は本当にみじめな人間です<真の意味で、神に従うことなどできません>。だれがこの死のからだから<神のさばきの下から>私を救い出してくれるのでしょうか。<ですから、自分でどうすることもできない私の罪を、十字架の血潮で贖って下さった>私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(ローマ7:)」という立場に立っていることが重要なのです。 

そして主イエスは、単に、律法破りの正当性、飢えたときには供えのパンを食べても罪に問われない、弟子達が麦の穂を摘んだことも罪に問われない、と弁護しておられるのではありません。次の主イエスの御言葉が重要です。
5節「人の子は安息日の主です。」
これはすなわち、主イエス・キリスト御自身が、安息日を制定された「主なる神」であられることの宣言です。
ここではその神に直接仕えている弟子達は、聖なる務めについているのであって、このお方の御赦しの下で、安息日に麦の穂を摘んだからといって、どうして罪に問われるのかと宣べておられるのです。
それにしても、ユダヤ教の規定に縛られず、まだ、主イエスの十字架の血潮による救いも知らずに、空腹を満たす為に、麦の穂を摘み、手でもみほぐして、夢中で食べている無邪気な主イエスの弟子達の姿にほっとします。主イエスと供にいるから安心して自然体でいられたのでしょうね。
そして、この恵みは、私達にも与えられているのです。
それに比して、眉毛を逆立てて、主イエスと主イエスの弟子達を非難しているパリサイ人達の姿に、人間のどうしようもない罪性を感じます。

そして主イエスは、パリサイ人達の非難の機会をとらえて、ご自分が律法を制定されたお方であり、律法を越えたお方であることを示されたのです。
この安息日の規定に関するパリサイ人達の非難に対しての主イエスの主張の中心は、どのようなとき安息日の規定を破って良いかを判断させることではなく、「ここに安息日を定められた神ご自身がおられる」ということの宣言なのです。
ですから主イエスは、「人の子は安息日の主です。」と宣言されたのです。

パウロはこのように宣べています。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことについて、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。(コロサイ2:16~17)」と。
「安息日」の中心は、本体である主イエス・キリストです。
そして、この主イエス・キリストは、天地万物の創造主です。
コロサイ1:15~17に「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は、万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。」とある通りです。
故に、この神を知ることこそ、「安息日」の中心です。その神とは主イエス・キリスト御自身です。

「安息日」を守ることの最も重要なことは、規則を守ることではなく、「安息日の主」である主イエス・キリストを知ることであり、そのキリストと交わり、そのキリストの素晴らしさを味わい、見つめることです。
そして福音記者マルコも、主イエスが「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。(マルコ2:27~28)」と言われたことを記しています。
ここで「人間のため」と宣べられたからと言って、もちろん人間の罪の趣(おもむ)くままにという意味ではありません。「安息日」は人間が、真に人間らしく生きるために、主が「安息日」を制定して下さったのです。

私達は「主を礼拝する」と言ったとき、まるで、「主のために」何かをしているつもりになってはいないでしょうか。
しかし、主は「何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。(使徒17:25)」

私達は、神が私達に、神の御前に憩い<休息し>、親しく交わる時を制定して下さらなかったら、私達人間は、自己中心の罪の暴走の結果、罪の滅びの死に至る道しかないことを知らなければなりません。
しかし、主なる神は、私達が誤って滅びの道を歩まないようにと、「神との交わり」の至福の時を私達に賜ったのです。
私達人間が、天地を造られた主、私達の罪の贖いのために十字架の死にまで従われた主を礼拝することをやめたとしたら、いったいどんな人生の旅路を歩むのでしょうか。
私達が「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」と語りかけて下さる主との会見をやめたのなら、私達の人生にいったいどんな意味を見つけることができるでしょうか。                                                   
私達が「私たちの内臓を造り、母の胎の内で私たちを組み立てられた(詩139:13)」天地創造の主を思い、この神の御前で憩うことをやめたのなら、いったい私達人間はどこに行ってしまうのでしょうか。

ある姉妹はこんな事を語ってくれました。その姉妹はクリスチャンホ-ムに育ち、主日礼拝に出席するのは当たり前だと思って育って来ました。しかしある時、周りの友達を見渡した時、日曜日はみんな楽しそうに家族と遊びに出かけます。それを見ているうちに、彼女は自分が不自由だと感じるようになったそうです。自分も日曜日は好きな所に出かけたい、テスト勉強がある時はずっと自分の為に時間を使える、そう思って主日礼拝を休むようになりました。最初はドキドキしましたが、休んでも別に何ともないじゃないか、普通に生活は続くじゃないかと平気になって行ったそうです。
しかしその内、少しずつ生活が崩れて行ったそうです。時間が浮いたはずなのに、いつも時間に追われるような気がして、朝もゆっくり寝ていた筈なのに、疲れは取れず、イライラが募るようになったそうです。その内友人関係も悪くなり、諍いで心が傷付きました。成績も思うように伸びません。自由を得たと思ったのに、いつも何かに追われるように不自由になったと言ってました。その時彼女は思ったそうです。礼拝に行くというのは不自由な事ではなかった。自分の生活が整い、自分が幸せになるものだったと分かったそうです。そして彼女は元の通りに毎週の礼拝の場に喜んで戻ったそうです。

このように主なる神は、守らねばならないという儀式に、自己満足している者達ではなく、心から喜んで、主によって生かされていることの感謝を携えて、主の御前に集う私達を、求めておられるのです。
主イエスは、サマリヤの女に、ご自分を示されて宣べておられます。「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。(ヨハネ4:23)」と。
何ということでしょう!私達は、主に求められているのです。真の礼拝者として。

主イエスは「安息日の主」であり、私達に、最高のプレゼント、主にある「安息日」を下さっているのです。主の素晴らしさを味わい、見つめる日として。
ですから私達は、嫌々ではなく喜んで顔を上げて、主の臨在の場に今週も来週もはせ参じようではありませんか!