2025/7/20(日) 『これが道だ。これに歩め』イザヤ書 30章18〜24節:村松 登志雄 牧師

一ヶ月に一度は主題 メッセ-ジをと思い、用意させていただいた本日の聖書箇所は、イザヤ書です。
私達夫婦はデボ-ションの時、いつも御言葉を読みながら、様々な事を語ります。
教会の事、人生の事、家族の事、過去の歩み、これからの行く道について話題は尽きません。そういった中で、家内からメッセ-ジのヒントやインスピレ-ションを与えられる事が少なくありません。彼女曰く「私には、いつも人生の節目や折々に、深く細く重低音のように 鳴り響く神の声(御言葉)がある。それは『これが道だ。これに歩め』という御言葉なの」と言うのです。
そして、「それはあなたも同じじゃないの?きっとそうだと思う。だから、この御言葉の意味を、神のみこころを深く探って、説き明かして欲しいの」と言うのです。
私は翻って自分の心を探ってみれば、確かに私にもある。その声に導かれて今日がある、と思えました。

そこで本日は、この御言葉が語られた背景、イザヤ書の事情などを掘り下げながら、今日この教会に語りかけられる神の御言葉を共に見て行くことにしましょう。

30章18節で「それゆえ主(ヤハウェ)は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。」と言われ、とてつもない恵みの宣言から始まります。
何が「それゆえ」なのでしょう。 普通、「それゆえ」 と使う場合は、「あなたが良い子にしていたから、それゆえ、褒美を与える 」などの下りで使われると思うのです。
この時のイスラエルの民は、神から恵みを頂けるような状態だったのでしょうか。
そのヒントは今日の箇所の少し前、30章1節から読めば分かります。
「わざわいだ、頑なな子ら。―主のことば― 彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。(イザヤ30:1)」と激しい言葉で、叱責し、嘆いておられます。
そうです。この時のイスラエルの民は神の声を聞かず、背信に背信を重ねます。この時だけではなく、イスラエルの、人間の歴史を見れば、反逆の繰り返しでしたね。

当時、イスラエルはアッシリア帝国の脅威に晒されていました。しかし、この時のエルサレムの指導者達は神に聞かず、政治的常識に則って、はかりごとをめぐらし、同盟を結びます(30:1)。エジプトに助けを求め、貢物を送ろうとします。人間的な努力や考えだけで、臨もうとします。
それ故、予見者、先見者には本当の事を語らせず、自分たちに都合のよい、耳障りの良いことばかり語らせます。その上、嘘、騙しごとを語らせ、「イスラエルの聖なる方を消せ(30:11)」とまで言っています。神を排除させようとしているのです。

何という忘恩の罪でしょうか。しかし、イスラエルの民は悉く失敗するのです。頼りにしたエジプトからは、貢物だけ奪われ、辱めを受けます。 
その民に神は「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。(30:15)」と信仰のエキスのような言葉を語られます。
その内容も然(さ)ることながら、聖書の言葉、表現はいつも美しくて惚れ惚れします。
原文では、「立ち返って(引き返して)、落ち着く(静まる、憩う)ことにおいて、あなたがたは救われる。静かにして(落ち着いて)、信頼する(立ち返って信じる)ことがあなたがたの力(強さ)となる(力を得る)」と記されています。
これは平行法で「立ち返る」ことと「信頼する」ことが同義語、「落ち着く」ことと「静かにしている」ことが同義語であり、その結果が「救われる」こと、また「力を得る」ことと描かれます。これは、主(ヤハウェ)への祈りの中で、すべての悩みを打ち明け、その後、沈黙している中で、聖霊があなたのうちに働き、そこに不思議な知恵と力が生まれることと解釈できるでしょう。
このように、神は手を変え品を変え、イスラエルの民をなだめ、励まし、時に厳しい叱責をもって導いて来られました。

そして、いよいよ、本日のおおとり、メインテーマの18節から見て行きましょう。
前節で、背信の民の行く末を言い当てながらも、「それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。主が義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。(18)」と宣べられているのです!
何という感動的な表現でしょうか。英語のNIV訳では、「さらに主は憐み深くありたいと待ち焦がれておられる。それゆえ同情を示そうと立ち上がられる」と訳されています。
それは、主(ヤハウェ)ご自身の側から、イスラエルの民がご自身のもとに立ち返るのを待ち焦がれ、特別な恩恵を施したいと願っておられる姿です。
ここの箇所を読むと、ある物語を思い出しませんか?それは、ルカの福音書15章20節で、放蕩息子が父の家に帰って来た時、その息子の姿を遠くから見つけた父の姿を、「まだ家まで遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」と描かれていることを思い起こさせます。
神の側から、駆け寄り愛する。その理由は、「主(ヤハウェ)は義の神であるからだ」と記されています。とても不思議な表現だと思います。
人が義と認められるとは何でしょう。後の新約聖書で「その信じる信仰により義と認められる(ローマ3:22、28、創15:6)」とあります。
信仰の出発点は、自分の惨めさを神の御前に言い表すことです。しばしば、不必要なプライドを捨てきれずに人の好意を無にしてしまう事がありますが、神の御前でまで、そのような愚かな振る舞いをしてはいけませんね。神は、あなたに特別な恩恵を与えたいと、待ち焦がれておられるのですから。

そして、19節で、「もうあなたは泣くことはない。あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。」と言われます。

私達の人生では何度も、泣き叫ぶことがあります。もう叫ぶしかない、このように思える時が。
しかし神は、それに即座に答えてくださるというのです。「必ず恵みを与え」とは、「恵む」ということばを重ねた強調表現です。もうむちゃくちゃ恵む、ということです!

また「たとえ主があなたがたに苦しみのパンと虐げの水(20)」という苦難を与えられることがあったとしても、「あなたを教える方はもう隠れることなく、あなたの目はあなたを教える方を見続ける(20)」と約束されます。これは、私達が既に恵みの中に置かれており、目の前から「教える方」がいなくなることはないという意味です。ずっとずっと一緒だということです。

さて、次は本日のメッセ-ジの表題でもある御言葉です。「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを、あなたの耳は聞く(21)」とあります。
人生の中で、行く道に迷った時、この先、一体私はどう歩んだらよいのか、、と途方に暮れてしまった時、この御言葉が人生の中で、絶えず根柢にあるという家内やまた私はその歩みが決して平坦ではなく、順調ではなかった事の証明であるように思います。

私はこの歳になると、今更自分を飾ったり、恰好良く見せようとする思いが段々薄くなって行くのを覚えます。それが良い事なのか、はたまた努力を放棄してしまっていることなのかは分かりませんが、とにかくとんでもない歩みをしてきたなあ、と思うのです。
そうであるのに心の奥にはこの御言葉が響いている。
それは、道を求めている、神に至る道を歩みたいと願っていることの証拠ではなかったかと思うのです。

では、家内の場合はどうだったか、、、元来私は人のことには興味がない、とことん自分の中での追求だけを求めてきた人間ですので、家内の内面は知らないのです。
当然黙って付いて来てくれるものと信じて疑わない典型的な昭和の男です。今で言う、パワハラ、モラハラ男です。
それがままならなくなったのは、家内の病気がきっかけでした。それまで、彼女は自分の心は仕舞い、ひたすら私に仕え、子どもに愛情を傾けて付いて来てくれました。
しかし、先日もお話ししたように、結婚した次の年には倒産、債権者からの恐怖に怯え、財産は全て無くし、安定した職と住居を求め、転々としました。
やっと落ち着いた先の小さなアパ-トで、家内は腹痛を訴えました。しかしこの時、仕事から帰って来た私は、横になっていた家内を見て一瞬不満を覚え、「なんだ、まだご飯できてないのか」と言い放ったそうです。覚えてないのですから、更に始末が悪いです。家内は手遅れ一歩手前、破裂寸前の卵巣嚢腫でした。それから家内はありとあらゆる病気をしました。それでも私はその後も、転職、転居を繰り返しました。もっと自分を生かせる職場、本当にやりたい事はこれじゃない、、という思いが絶えずありました。

その果てに、私は「伝道者になりたい、牧師になりたい」と言い出した訳です。その時も彼女は体調を崩して伏せっていましたが、私の決意を聞いて涙を流して受け入れ一緒に祈ってくれました。
それからは生活がガラリと変わりました。疾風怒濤の変化です。そんな中で彼女は意識されない過度のストレスを抱え込むようになって行ったのでしょう。物が食べられなくなり、次第に瘦せて行きました。結果それがその後何年にも渡る病気の始まりになりました。今、私は全部把握して来たように話していますが、当時私は家内の葛藤や苦しみなど全く知りませんでした。家内は10年間それを一人で抱え、私に話してくれたのはずっと後になってからです。
家内は病気による不調に悩み、癒される希望を失う中で、それでも響くあの声、「これが道だ。これに歩め」という御言葉を時に苦しく、時に微かな希望として、持ち続けたようです。

そして、今、家内はその全てを癒され、神の御言葉通りに歩めるその幸いを感無量で味わっています。何よりも嬉しいと。
日々その喜びは私にも伝わって来ます。「私はもう時間を無駄にしたくないの。失われた30年を取り戻す。私にはもう時間がないんだ」と張り切っています。
拙い証しを長々してしまいましたが、一つの御言葉を長い人生をかけて味わうというのも良いものです。
皆さんもきっとそのような経験がおありでしょう。今、葛藤のさ中にいる方もおられるでしょう。しかし、神の御言葉は真実です。どんなに時間がかかっても。

さあ、また聖書の御言葉に戻りましょう。神の御言葉を聞き、それに従うならば、として神はその後のイスラエスの行く道を豊かに祝福する約束をされています。
まず、神の御言葉を聞いた後、民は決然と偶像を排除し、唾棄します(22)。それから、神は民の土地を潤し、そこに棲む家畜たちを豊かに養われます(23~24)。

神は悪に対しては厳しく裁かれますが、立ち返った者にはとことん恵みを与えられます。愛したくて愛したくて待っておられます。ですから、神の義と愛は一致します。同じものなんです。
しかし、人間には愛することはできないのです。でも、とことん神の愛を経験した者は、人を愛したいと思います。人間が好きになります。何とかしてこの愛を伝えたいと思うようになります。そう思いませんか?
かつてのあの男、私の事ですが、酷いものだと思いませんか?
でも、こんな恥を晒したのは、自分ではなく、神を紹介したいからなんです。こんな者でも赦され、造り替えられ、神の働きに召し出して下さる、神様の途方もない愛、あなたも経験して下さい。
そして、今週も、この人に、あの方に伝えたいと願って下さい。
あなたの内にも響く、「これが道だ。これに歩め」という御言葉に従って!