-主イエスを知る深みへ-
本日の聖書箇所は一つのまとまった物語ですので、これまでのように、文節毎のアウトラインを示すことはしません。この記事は、子ども礼拝でも、よく取り上げられる有名なペテロの召命(主イエスに弟子として召される)物語です。
それでは共に見て行きましょう。
場所はゲネサレ湖です(1)。これはガリラヤ湖のことですが、ルカは親しみのある通称で表現しています。現代ではキネレテの海と呼ばれています。海と呼ばれているのは、大きいからです。長さ21㎞、幅12㎞あります。
このガリラヤ湖は淡水で、魚は豊富で、後に聖書の人物名を付けられた魚も出てきます。例えばシモンのスズメダイ、アンデレのスズメダイ、マグダラのスズメダイ、、何故かスズメダイだけですね。スズメダイが沢山捕れたからでしょうか、、?
さて、大勢の群衆が神の御言葉を聞こうと、ゲネサレ湖の岸辺に立たれた主イエスに押し迫るので、主イエスは、すでに漁を終えたシモンすなわちペテロの持ち舟に乗り、陸から少し離れた場所で、その舟から群衆に御言葉を語られました。
御言葉を語り終えられると、主イエスは、漕ぎ手であるペテロに言われました。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。(4)」と。
ペテロは主イエスに答えて言いました。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でもおことばですので、網を下ろしてみましょう。(5)」と。
確かに、ペテロ達漁師は、すでに漁を終えて、網を洗っていたのです(2)。しかもその日の漁は何一つ捕れなかった、のです。(漁は夜に行われ、この時は明けて翌朝の午前中だったと思われます)ペテロ達漁師が、どんな思いで網を洗っていたか、は想像が付きます。
彼らは、自分達と同じ岸辺におられ、群衆に押し迫られながら、御言葉を語られている主イエスを、網を洗いながら横目で見ていたのです。
その時の彼らは群衆と一緒になって、主イエスの御言葉を聞こうとは思っていなかったようです。それに、今はそれどころではない、と思っていたのかも知れません。
しかし、主イエスは押し迫る群衆に取り囲まれていても、そんな彼らの心をご存じで、しっかりとご覧になっていたのです。
主イエスはペテロ達の小舟をご覧になると、ペテロに舟を漕ぎ出す様に頼まれました。一見すると、主イエスは押し迫る群衆の為に舟に乗られたのだと思えます。
しかし、そうだとしても、主イエスは、もっと重要な目的をお持ちだったのです。それは、ペテロを御自分の御許に引き寄せる為ではなかったか、と思うのです。
そして、ペテロは主イエスと初対面ではありません。ペテロには、主イエスに対して、ひどい熱で苦しんでいた自分の姑を癒していただいた(ルカ 4:39)大恩があります。
ですからこの時のペテロは、すでに主イエスの弟子であったのだ、とも思えますし、ですから、主イエスの頼みを聞かないわけにはいかなかったのです。
それで、今はそれどころではない、という思いを持ちながらも、主イエスの為に、舟を漕ぎ出しましたので、自ずと、主イエスの傍らで、主イエスの御言葉すなわち福音を聞かされる羽目になったのです。それは主イエスが、ペテロを次の段階に導く為に、御言葉を嫌でも聞かなければならない状況の中に置かれたからです。
そして主イエスは、そのお話を終えられると、ペテロに命じられたのです。「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚を捕りなさい。」と。
しかし、ペテロは漁の専門家です。スペシャリストです。素人の主イエスに、漁に関して口をはさまれる事は、彼のプライドが傷つけられることです。
しかもその専門家のペテロに対して、素人の主イエスが、「漁を再開せよ」と命じられたのです。ですから彼は,「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。」と答えたのです。魚の捕れる時間帯は夜間です。魚は夜に餌をあさる習性がある為、夜に活動的になります。反対に日中は岩陰に身を潜ませているので、漁には不向きです。
ペテロが主イエスを「先生(別訳:頭、親方、ボス)」と呼んだのは、主イエスが悪霊を追い出されるという奇蹟をなさったお方(ルカ 4:33~35 )であり、自分の姑の病を癒してくださった大恩あるお方(ルカ 4:39)でもある、それ故におそらく、神の預言者として尊敬していたからであったと考えられます。しかしそれでも、素直に「はい」とは言えず、やはり専門家として一言言わなければ気がすまなかったのです。彼はしぶしぶ従ったのです。「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」と。
彼が「おことばですので」と応えたのは、あのクリスマスの出来事、受胎告知を受けた処女マリヤが「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。(ルカ 1:38)」と応えたその信仰とは比較になりません。
しかしそれでも、主イエスは彼を咎めてはおられません。主イエスの寛容さに、驚きます。
おそらく彼は、魚が捕れるとは信じてはいなかったでしょう。専門家の彼にとって、その漁は無駄であり、あり得ない事だったからです。
しかし、おことばどおり、網を下ろすと、まさに信じられない事が起こりました。網が破れそうになるほどの大漁であり、ペテロの持ち舟では足りず、もう一艘の舟に助けを求め、その二艘とも沈みそうになるほどの大漁だったのです。
ペテロのプライドなど、吹っ飛びました。そして彼は理解したのです。このお方は、天地創造の神であられることを。(参照;コロサイ 1:15~17)
その証拠は、ペテロの主イエスに対する呼び名が、「先生」から「主」に変わったことにあります。神の民、ユダヤ人は決して、人間を「主」すなわち「神」とは呼ばないからです。
この告白は、後に「あなたは、生ける神の子キリストです。(マタイ16:16)」にまで深まって行きます。
ペテロはその奇蹟に恐れを感じ、主イエスの足下にひれ伏して「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い人間ですから(8)」と告白しました。大漁の魚の為に、狭い舟の中で必死に後ずさってこう言ったのでしょう。
しかし主イエスは驚き恐れるペテロに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。(10)」と。
この御言葉は、主イエスの弟子としてのペテロと他の弟子<ゼベダイの子ヤコブやヨハネ(10)>に対する召命の御言葉ですが、ここに主イエスのユーモアが見られます。
「あなたがたは、今日まで魚を捕る漁師でしたが、これから後、人を捕る漁師になるのだよ。」と仰ったところに。(「魚を捕る漁師」、「人を捕る漁師」と韻を踏んでいる訳ですね)。
それで「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。(11)」のです。
この時以前も彼らは主イエスの弟子であったと思われるのですが、この時から彼らの、真の意味での弟子としての歩みが始まったのです。
「すべてを捨てて」とは、文字通りの意味でもありますが、しかし、それはそれまでの仕事をつまらないものとして廃業するとか、世捨て人になることではありません。それを強いるのはカルト宗教です。
聖書を注意深く見るならば、彼らはその後も必要に応じて漁師の仕事も続けていたと思われる記述があります。(参照;ヨハネ21: 3)
「すべてを捨てて」の本質は、生活の優先権の事であって、それまでの自分を中心とした生活から、主イエスを中心とした生活に変えられる、ということです。
そして、主イエスのこの召命の御言葉は、特別な弟子<使徒>だけに与えられたのではなく、今現在の私達キリスト者一人一人にも与えられている御言葉です。
復活の主イエスが弟子達に命じられた御言葉を思い出しましょう。
主イエスは弟子達に命じられました。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19a)」と。弟子になるとは、献身するということです。
ですから、私達キリスト者は、キリストの弟子とされたのだ、という意識を持つべきです。
かつて教会では、牧師や宣教師等を特別な位置に置き、他のキリスト者を平信徒と呼んでいた時代がありました。まるで、会社の社長と平社員のような関係です。
しかし今はそのような呼び方はしないまでも、うっかりするとキリスト者でありながら、キリストの弟子とされた、という意識がなく、伝道するのは特別な人<牧師、伝道師、宣教師>としてしまう、ということはないでしょうか。
教会とは、キリストのからだであり、私達はそのキリストの体の各器官です。御霊の賜物の違いはありますが、優劣はありません。(参照;Ⅰコリント112: 1~27)
そしてキリストの弟子とされたペテロも「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。(Ⅰペテロ 2: 9)」と断言しています。
また、日本においても「弟子になる」とは、師匠の姿をそのまま真似ることによって成長し、師匠のようになることが目的です。
同じように、聖書は、キリスト者すなわちキリストの弟子は、キリストを真似て成長し(Ⅰペテロ 2:21)、やがてキリストのようになる(ピリピ 3:21、エペソ 3:19、4:13、Ⅰヨハネ 3: 2、ローマ 8:29、)、と約束しています。そう思うと具体的に描けませんか?
日々あの親方、イエス様のようになるんだ!と思って暮らせば、どのような瞬間も、その態度、雰囲気、言葉遣いを真似、「こんな時イエス様なら何と仰るかな?どう行動されるかな?」と考えるようになれば、自分勝手な思いは消えて行きます。行く筈です。目標にしましょう。
しかし、真のキリストの弟子になるには、一足飛びになれるのではなく、かなり時間がかかります。その証拠が、ペテロです。ペテロはこうしていつも、引き合いに出されますね。彼は主イエスの召命を受けましたが、その後、主イエスの弟子として何度も失敗しています。
しかも主イエスが十字架で処刑される為に、ユダヤ人宗教指導者達に捕らえられた時、彼は主イエスを知らないと言って、主イエスの弟子であることを否定し、主イエスを裏切ります(ルカ22:55~62)。
そして十字架の死から復活された主イエスに出会い、主イエスが、御自分を裏切った自分さえも愛して下さっていることを知って(ヨハネ21:15~17)、キリストの弟子として再出発します。 その後、御霊の満たしによって、主イエスの預言通り、最初の伝道において、約三千人ほどの弟子を生みます(使徒 2:41)。
しかしその後、彼は再び、古い律法に引きずられて、パウロに叱責されるような失敗をします(ガラテヤ 2:11~16)。
しかし最後には、主イエスの預言通り(ヨハネ21:18~19)、キリストの弟子として殉教するのです。「神の賜物と召命は取り消されることがないからです(ローマ11:29)」とある通りです。
また、キリストの弟子となる為には、最も大切な条件があります。それは何でしょう。
それはペテロが「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い人間ですから。」と告白した、彼の罪人としての認識であり、主イエスにひれ伏す姿です。
イザヤ書6章 1節から13節にある、預言者イザヤの叫び「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。(イザヤ 6: 5)」と告白しているのと同じ、罪人としての認識です。主イエスの素晴らしさを知ることと、自分の罪深さを知ることは表裏一体です。
その様な者を、主イエスはキリストの弟子として召してくださるのです。では今、私達はどれほど、主イエスの御前に、ひれ伏す者でしょうか。
最後に、もう一度、ペテロの召命物語について、復習してみましょう。
彼は、すでに主イエスの弟子であり、主イエスを尊敬していましたが、真の意味でキリストの弟子ではありませんでした。
そして彼は最初、主イエスの御言葉を信じていませんでした。しかし疑いつつも、それでも御言葉通りに従ったことによって、奇蹟を見ることができ、神の臨在を経験し、真のキリストの弟子としてスタートしたのです。
「御言葉通りに従った」ここに鍵があります。従わないことには何も始まりません。主の御言葉をただ聞いて、何もしない、ただの傍観者でいては神の臨在は経験できないのです。
しかし、しかしですよ。そのことも全て、主イエスの方からペテロに近づいて下さり、ペテロを導いて下さったことを見逃してはなりません。主は決して「自力で這い上がって、ここまで来い、完璧になりなさい」とは言われないのです。主の方から近づいて、導いて下さるのです。そうしたいほど、主イエスは私達を愛しておられるのです。
事実、私達は、キリスト者<キリストを信じる者>であっても、現実の日常の生活の中で、御言葉を聞いていても、御言葉をその通りに信じられない時がありますね。
しかし、たとえ信じられなくても、自分の思い<思惑>を第一にするのではなく、御言葉に従いましょう。ペテロのように、まず言われた通り従ってみましょう。主イエスを知るために、深みに漕ぎ出しましょう。
状況がどうであろうと決してあきらめず、御言葉に従いましょう。そうするならば、必ずペテロのように、キリストの臨在を経験し、キリストにひれ伏す者として、真の意味でのキリストの弟子となることができます。
いいえ、私達はキリストのようになる者として、キリストの愛に導かれて、キリストに召されている者であることを確信しましょう。
それでもまた、失敗するかもしれません。否、必ず失敗します。それでも、主イエス・キリストにある神の愛から、私達が引き離されることは決してない(ローマ 8:39)のです。
ですから、私達は、御言葉に従う者にならせていただきましょう。すでに主イエスの恵みによって、キリストの弟子とされている感謝をもって、主イエス・キリストの御前にひざまづき、さらに「弟子となし給え」と願い、賛美し、祈りをささげましょう。その時、主イエス・キリストは必ず、「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(ピリピ 4:13)」という信仰をお与え下さるのです。
それを信じて、さあ、今週も主イエスと共に、信仰の深みへと漕ぎ出して行きましょう!
