5月も3週目となりましたね。今は梅雨前の本当に良い季節です。「風薫る5月」といわれますが、私はこの季節が大好きです。
さて今朝は、5月の主題メッセ-ジとして、この聖書箇所が示されました。本日のテキスト、伝道者の書というのはソロモンが書いたといわれています。日本人の情緒にとても親和性の高い書ですね。お好きな人も多いのではないでしょうか。この伝道者の書というのは、繰り返し繰り返し「私達の人生はこれから後に起こることは分からないし、誰もそのことを告げることはできない」、ということを語っています。
それではその不確かな将来において私達はどのようにあるべきでしょうか。本日の箇所で、伝道者はこのように勧めています。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す」と。この言葉はとても有名なことばです。皆さんも耳にしたことがあるのではないでしょうか。でも、これがどういう事なのか、ということを知っている人は案外少ないかもしれませんね。
この「あなたのパンを水の上に投げる」というのは三つの解釈があります。第一の解釈は、これを穀物の海上貿易のことだと理解します。海上貿易には多くのリスクが伴う。しかし、そのリスクを恐れず投資するなら多くの利益を持って報われる、というものです。この場合、パンは穀物のこと、或いは自分の財のことであって、「投げる」とは貿易のことを指しているということになります。それを「水の上に投げよ」とあるので、海上での取引に投資することと解したのです。ある英語訳聖書(TEV)では「あなたのお金を海上貿易に充てよ。そうすればいつの日か多くの報いが与えられるであろう」と訳しています。この伝道者の著者ソロモン自身、海上貿易で巨万の富を築いています(Ⅰ列王10:22~24<p616>)。船を危険な海に送り出して海上貿易を行うことは難破や海賊等の危険がありますが、成功すれば、巨額の利益を得ることになります。
第二の解釈はこの「水」を洪水で氾濫した肥沃な土地のことだと解釈し、そうした土地にパン、すなわち穀物の種を蒔くなら、多くの収穫を期待できるというものです。
そして第三の解釈は「パン」を比喩的に解釈し、物惜しみしないで多くの人々に情けを施すなら、必ずその報いを思いがけない所から受けるだろう、というものです。伝統的なユダヤ教のラビ(宗教指導者)達は、このように受け止め彼らはこれを「不確かな将来の中で今できる善を成せ、そして報いを楽しみに待て」という意味だと理解しています。
日本を代表するキリスト者の一人に内村鑑三という人がいますが、彼もこの考え方を支持しています。彼はその註解書の中で次のように言っています。「世に無益なることとて、パンを水の上に投げるが如きはない。水はただちにパンに浸み込みて、浸されるパンの塊は直ちに水底に沈むのである。パンを人に与うるは良し。これを犬に投げるのも悪しからず。されど、これを水の上に投げるに至っては無用の頂上である。しかるにコヘレト(伝道者)はこの無益のことを成せと人に告げ、己に諭したのである。汝のパンを水の上に投げよ、無効と知りつつ愛を行え、人に善を成してその結果を望むなかれ。物を施して感謝をさえ望むなかれ、これ人生の至上善なり。最大幸福はここにありとコヘレトは言うたのである。」(内村鑑三註解全集第五巻p253)
これらのいずれの解釈においても言えることは、自分の手の中にある善いものを惜しみなく蒔くなら、必ずその報いを受けるようになる、ということです。その背景にあるのは、申命記15章10節<p242>のみことばです。ここには「必ず彼に与えなさい。また与える時、物惜しみしてはならない。このことの故に、あなたの神、主はあなたのすべての働きと手の業を祝福して下さるからである」とあります。「彼」とは「あなたの同胞」のことです。あなたの同胞の一人が貧しい者である時、その貧しい同胞に対して心を頑なにしてはならないのです。手を閉ざしてはなりません。必ずあなたの手を開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない、何故ならこのことの故に主はあなたのすべての働きと、手の業を祝福してくださるからです。
同じことがガラテヤ人の手紙6章9~10節<p383>にもあります。「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。ですから、私達は機会があるうちにすべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。」と。
ですから、パンを水の上に投げるとは、ビジネスにとどまらず、貧しい人達に分け与えたり、支援したりといった慈善活動においても言えることなのです。日常生活においても善を行うことに飽きず、失望しないで取り組むならば、やがて時が来て、その刈り取りをすることになるでしょう。これが神の国の原則です。この世の原則とは全く異なります。主イエスは、ルカの福音書6章31~35節<p122>で、このように言われました。「人からしてもらいたいと望む通りに人にしなさい。自分を愛してくれる者たちを愛したとしてもあなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたはいと高き方の子どもになります」と。
報酬や賞賛を求めずに善を行えということです。誰でも自分を愛してくれる人を愛することはできます。自分に善くしてくれる人に善いことをすることもできます。返してもらうことを当てにして貸すことはできます。しかし主イエスはそれでは不十分だといわれました。そういうことは罪人でさえできます。自分の敵を愛すること、彼らに良くしてやり、返してもらうことを当てにしないで貸すこと、それがいと高き神の子とされた者にふさわしい態度であると言われたのです。「あなたのパンを思い切って水の上に流したらどうか」と。これを文字通りに実行したのが、先週のお話の中でも言及したマザ-テレサ姉です。彼女の詳しい働きへの言及はここでは省略しますが、要するに彼女は、神の国の原則に生きたのです。私たちもまた、そう招かれているのではないでしょうか。
このような神の国の原則は福音宣教においても言えることです。主なる神はこう言われます。「あなたのパンを水の上に投げよ。すると後の日になってあなたはそれを見出す」と。私たちキリスト者は「いのちのパン」を持っています。それはイエス・キリストです。主イエスは「わたしはいのちのパンです」と言われました。そのパンを水の上に投げなければなりません。それを人に分け与えなければならないのです。主イエスを信じれば誰でも救われます。なぜなら、イエス様が私達のすべての罪の身代わりになって、十字架にかかって死んでくださったからです。ですから、主イエスを信じたらどんな人でも罪赦されて天国にへ行くことができるのです。
主イエスはその鍵を私達キリスト者に委ねて下さいました。それが「いのちのパン」です。ですから、この「いのちのパン」を持っている私達は、これを持っていない人達に分け与えなければなりません。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒16:31)」何と素晴らしい知らせではありませんか。主イエスを信じればどんな人でも救われるのです、しかし、信じなければ天国へ行くことはできません。どんなに道徳的に立派な人生を送っている人でも、主イエスを信じなければ天国へは行けないのです。どんなに頑張ってもその人は自分で自分の罪を精算することはできません。主イエスを信じなければ、どんなに立派な人でも天国へは行けません。しかし、主イエスを信じたら誰でも天国に行けます。どんな悪い人でも救われます。
ロ-マ人への手紙4章 4~ 5節<p302>には「働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます」とあります。敬虔な者を義と認めるというのではありません。不敬虔な者、何の働きもない者を義と認めて下さるのです。これが恵みです。これが恵みなんです!!恵みによる救いです。主イエスの贖いというものはそれほどすごいものなんです。その「いのちのパン」を主イエスを信じた私達はみな持っています。
そして、このパンを水の上に投げなければなりません。もうおわかりでしょうか?問題はそれを水の上に投げよ、と言われていることです。水の上に投げたらどうなりますか?先ほどの内村鑑三師の言葉にもあったように、そんなことをしたら、たちまち水を含んで水底に沈んでしまうか、水に流されてしまうことになります。行為が無駄になってしまう、、、と思いますよね。しかし、これが伝道なのです。
伝道というものは、この水の上にパンを投げるようなものです。投げても投げても、なかなか実が見えません。でも大切なことは投げ続けることです。そうすればずっと後の日になってあなたはそれを見出すようになるからです。私達にはこれから後に起こることは分かりません。でも分かることは、もし水の上にパンを投げ続けるなら、ずっと後の日になってそれを見出すようになるということです。」(大田原キリスト教会 tomio ohashi師 2021/03/12投稿より一部参照)
私の小さな経験ですが、先日私達夫婦は、前の教会で知り合ったご夫妻に久し振りにお会いしました。家内の病気の為にも祈って下さり、埼京伝(放送伝道)の働きの為にも捧げものをしていて下さる方です。懐かしい話に花が咲き、その方の息子さんのお嫁さんの話になりました。忙しい仕事を持つその義理の娘さんは、まだ信者にはなっていなくて、お二人はずっと祈って来られました。 でも最近になって知ったことは、その娘さんは礼拝にはなかなか出席できなかったけれど、教会の中にある小グル-プにずっと参加していて、そこでの交わりの中で、随分信仰が成長したということでした。その小グル-プこそ、私が前教会で、伝道に苦心していた時に示されて作った小グル-プの交わり(各々の特徴があって、家長のグル-プ、主婦のグループ、働く女性のグル-プなど)でした。
その働く女性のグル-プに十何年も参加し続け、学びと祈りと分かち合いを続けているということでした。その各グル-プが私の手を離れても続けられており、各々で伝道もしているという、何よりも嬉しい知らせを受けたのです。
また、私の携わっている放送伝道(埼京伝)も大変地味な働きです。でも、続けていることの大きな意味を知らされます。身近な話で恐縮ですが、今を遡ること60年前、PBA(太平洋放送協会)のラジオ放送「世の光」という伝道番組があります。
その放送を朝食の準備をしながら、毎朝聴いていた一人の婦人がいました。彼女の末娘はその母親の聴く「世の光」の放送を、母親の朝餉の準備のトントンと鳴る包丁の音と共に、布団の中で聴いていました。母親はその後、その放送の中で、聖書の通信講座があることを知り、それを受け、やがて教会に通うようになりました。彼女は聖書の中の「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」というみことばを信じ、家族に伝道しました。様々な苦労を経て、家族全員が救われました。その母親の末娘とは、何を隠そう、ここにいる私の妻です。そして、私自身も独身時代にPBAとの関わりがありました。その二人が甲府の教会で出会い、私は彼女を見た途端、自分の生涯を共にするのは彼女しかいないと思い、神に祈り、結婚を申し込みました。そして今は、志を同じくして伝道に生きています。60年の時を経て、放送伝道の実が実った訳です。
伝道は労多くして実りは少ないものではありますが、決してあきらめてはならないと思います。私のことを多く語ってしまいましたが、皆さんもそれぞれ経験されているのではないでしょうか。何年も何年も祈り続け、伝道しても、なかなか成果は得られないという経験が。家族は特に難しいですよね。理屈っぽい思春期の娘、息子、上から命令してくる親、ガンコな親父、これらに伝道するのは本当に骨が折れます。そういう父親と一緒に暮らし、ケンカをしながらも神様のことを伝え、「一緒にお祈りすることができました!」と感謝の報告をしてくださる姉妹もおられます。
また、良い行いをすることにもあきらめてはいけません。時にはお金を貸して返って来ないという経験だってします。それも、有り余る中から貸した訳ではなく、ギリギリの中で貸した場合、大変痛手です。でも見返りは求めず、善を行えと言われます。報いて下さるのは神です。この世の原則に従えば、献金なども最も愚かな行為です。しかし、神の国の原則は違います。全ての富を持たれる天の父は不思議な方法で報いて下さいます。がっかりすることも、腹の立つこともあります。しかし、伝えるその方々どなたも神が愛して、創って下さった方です。ですから、私達は諦めず、今週も善を成し、神様から頂いた、このいのちのパンを多くの人に分け与えて行きましょう。
