2025/4/20(日) 『 君は燃えているか』ルカの福音書 24章13〜35節:村松 登志雄 牧師

私達は先週、イエス様の十字架の意味を深く覚えさせていただきました。そして今日は喜びのイ-スタ-です。皆さんは、「復活」を信じていますか?

今日、聖書のお話を喜んで聞いて下さる方でも、「復活」の話になると、信じられないと言う人が多いようです。ある人は、キリスト教伝道の障害となっているとさえ言います。「キリスト教の教えは良いが、復活はちょっとねえ、」と。

しかし、聖書の中にも、偶像で満ち溢れているアテネの町で、多くの聴衆に向かって、パウロが真の神について語りましたが、「死者の復活のことを聞くと、ある者はあざ笑ったが、ほかの人たちは、『そのことについては、もういちど聞くことにしよう。』と言った。(使徒17:32)」ということが記されています。しかし「ある人々は彼につき従い、信仰に入った。(使徒17:34)」のですが、少数だったようです。

それどころか、聖書には、弟子達でさえ、主イエスの復活を信じていた者は一人もいなかったと書かれているのです。また、主イエスの復活の事実を御使いに知らされた女性達は、主イエスのみことば<十字架と復活(ルカ18:31~33)>を思い出し、使徒達に知らせましたが、彼らは女性達のたわごととして信じなかった。(ルカ24:1~11)ということも記されています。という訳で、今日、多くの人たちが「復活」を信じないのは当然のことです。

しかし、ある人にはキリスト教伝道の障害とも言える「復活」は、キリスト者にとっては、十字架とともに救いの原点であり、信仰の基本であり、私たちに「永遠のいのち」を保証するものなのです。パウロもこう宣べています。「もし、キリストの復活がなかったのなら、私たちキリスト者たちの信仰は単なる妄想であり、私たちは今もなお、自分の罪の中にいるのです。・・・・・・もし、私たちがこの世だけの希望を持ってるとすれば、私たちはすべての人々の中で最もみじめな<あわれむべき>者です。(Ⅰコリント15:17・・・19)詳訳聖書」と。

そして、本日の聖書箇所には、二人の主イエスの弟子が、主イエスが共にいて下さっているにもかかわらず、主イエスであることがわからなかったという不思議な出来事が記されています。この不思議な事実は、何故、彼らが、復活の主イエスを間近に見ていながら、復活が信じられなかったのか、その理由を私たちに教えてくれています。この二人の弟子は、クレオパ(18)夫妻と言われています。もし、そうであるならば、クレオパの妻は、主イエスの十字架のそばにいた姉妹の一人(ヨハネ19:25<クロパの妻マリヤ>)だった訳です。そうですので、「彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。(14)」とは、主イエスの十字架の出来事を間近に見たことや、復活のこと(ルカ24:20~24)だった筈です。

彼らは、主イエスから、その話は「どんなことですか。」と聞かれると、「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。

それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちの何人かが私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻ってきました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行って見たのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」(19~24)」と答えているのです。

私には、主イエスの復活を信じないまでも、その事実をわかっていながら、何故彼らは、もしかしたら、、、くらいまで思いが至らないのだろうかと思ってしまいます。主イエスが「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。(25)」と仰って嘆かれたこともわかるような気がします。

しかし、それにしても、主イエスの墓が空であったことの事実を知りながら、主イエスが復活されたことに思いが至らないのは何故なのでしょう。

私は、彼らの「私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。(21)」という言葉に、彼らが主イエス・キリストの復活に思いが至らなかったすべての原因があると考えます。それは、彼らの求める救いの内容です。彼らだけではなく、主イエスの十二弟子達さえもそうでしたが、彼らの求める救いは地上での自己中心の願望に過ぎなかったことにあります。「イスラエルの解放の願い」そのものが悪いのではありません。しかし、それは神が与えてくださる救いではなく、自分の願いを満たす救いを求めている事であり、神をその道具にしているという点に気付いていないことこそに原因があります。

「この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。」という願いは、神が与えてくださる救いから離れた、見当違いの願いです。復活の主イエスに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。(使徒1:4)」すなわち「聖霊によるバプテスマを授けられるまで、待ちなさい。(使徒1:5)」と命じられた使徒たちが、「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。(使徒1:6)」と質問したように、地上の王国のことしか頭になかったことと同じです。

主イエスは、彼らに「聖霊によるバプテスマを授けられるまで、待ちなさい。」と命じておられます。それは、何故でしょう。パウロが「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です。』と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)」と宣言しているように、主イエスの復活を信じるということは、聖霊を受けなければわからないことなのです。つまり、神が働いて下さらなければわからないことなのです。人間の知恵によって、復活を信じることはできないのです。罪ある人間は、この世の、地上の幸せを求めているだけであり、神の国を求め、永遠への思いには至らないのです。しかし、人間にとって最も大事なことは、神の国を願うことであり、神に帰り、神と共に生きることであり、永遠への思いです。それに気づかせてくださるのが、主イエスご自身であり、聖霊なのです。

エマオ途上の二人の、復活の主イエスが彼らと共に歩んで下さっているのに気がつかないという、あり得ないと思えるほどの鈍さは、彼らが、主イエスが十字架で死なれたことで、すべてが終わったと思い込んでいたことにあります。他の弟子たちも同じです。

しかし、確かに、主イエスはこの二人に嘆かれましたが、でも、主イエスは彼らを決して見捨てませんでした。主イエスは彼らに問われました。「キリストは必ず、そのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。(26)」と。主イエスはかつて彼らに語られた「十字架と復活」の預言(ルカ18:31~33)を思い出させようとされたのです。

それから主イエスは「モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。(27)」のです。何と、主イエスは懇切丁寧なお方なのでしょうか。

そうこうするうちに、一行は二人の目的地エマオの村に着きました。しかし、彼らが引き留めなければ、「主イエスはもっと先へ行きそうなご様子であった(28)」と記されています。主イエスは、決して意地悪でそうされたのではなく、彼らに求めがなければ、それ以上無理強いはされないということでしょう。救いに与るのは、主の御業であり、神の側からですが、それを求めなければ受けることはできません。人間の側からなすべきことは求めることです。→参照;マタイ7:7

彼らが「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています。」と言って強く勧めたので、イエスは彼らと泊まるため、中に入られた(29)」のです。主イエスはおそらく、彼ら自身の気付かない真の求めに、彼ら自身が気付くようにされたのではないでしょうか。この光景は「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示3:20)」の御言葉のとおりであることに気づかされます。

主イエスは彼らとともに食卓につかれました。そして、パンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡されました(30)。この食事は、明らかに、主イエスの過ぎ越しの食事であり、聖餐です。十字架の罪の贖いによる契約です。このことによって、彼らの目が開かれたのです。彼らは、主イエスの十字架の死で、すべてが終わったのだと思いこんでいました。しかし、主のみからだであるパンをいただいたとき、主イエスの十字架の死は終わりではなく、罪の贖いの完成である復活の始まりであることがわかったのです。そして、真に目を開けて、復活の主イエスを見たのです。生きておられる主イエスを。彼らは興奮しながら、証しし合ったのです。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心は内に燃えていたではないか。(32)」と。それは、当然です。私たちの主イエスは生きておられるお方だからです。「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。(ヘブル7:24~25)」そして、「私たちは神の中に生き、動き、存在しているのです。(使徒17:28)」

私たちは自分に問いましょう。「私の心は内に燃えているか」と。そして、お互いに問いましょう。「君の心は燃えているか」と。

私たちは、主イエスの復活の事実を信じさせるために、人を説得する必要はありません。何故かと言うと、それは、主イエスが、御霊が、導いて下さることだからです。神の側からのものだからです。

しかし、私たちは、自分は真に復活の主イエスを信じているのか。永遠に存在される、生きておられる主を本当に信じているのかを問わなければなりません。

信じているのなら、みことばによって、祈りによって、私たちの「心が燃える」はずです。生きておられる主イエス・キリストと交わっているのですから。

私たちの「心が燃え」、私たちの「喜び」の中で、人は、復活の主を、生きておられる主イエスを見るのです。

私たちは今、復活の主、今も生きておられる主イエス・キリストを信じさせていただいているという恵みに感謝しましょう。そして、目を開けて、主の栄光を見ましょう。