3月も残すところ今日を入れて、後2週となりました。そしたら、また新しい年度のスタ-トです。いくつになっても、新しいスタ-トというのは何かワクワクしますね。さて、私は前にも申しましたが、月に一回は主題メッセ-ジをと思っておりまして、今月は何を語ったら良いでしょう?と祈っていたところ、今日の箇所を与えられました。
さて、皆さんにちょっとお伺いしたいのですが、皆さんは大勢の人と集まって過ごすことが好きですか?これは人によっても、その時の状況によっても変わるものだと思います。極小単位である我が家の場合であってさえ、私は割とみんなと集まるのが好きですが、家内は反対に一人で過ごすのが好きと言います。でも、同じ人間でも私だって、時には一人でいたくなったり、家内もまた、みんなの中に入って行きたくなったりと変わるものです。ですが、本日の話はそう言った人間側の好みの話ではないのです、、、。
教会の中で、よく聞く言葉に「交わり<(ギ)コイノニア>」 と言う言葉があります。この「交わり」とはどういうものでしょう。この「交わり」について、“月刊いのちのことば”2020年12月号に、連載された、日本同盟基督教団の岡村直樹牧師の「日常の「神学』」の第12回「教会と交わり」の中に分かり易く書かれた一文がありましたので、参照して、宣べて行きたいと思います。
教会には、礼拝の後で時々持たれる食事や茶菓を共にする「交わり会」や、婦人同士の会や家長の人達の集まりなど、様々な交わりと呼ばれるものがあります。一番最初の教会の交わりとはどういうものだったでしょう。主イエスが昇天された直後、始まったばかりの教会にあったのは「祈り」と「食事」と「交わり」でした。
使徒の働き2章41~42節には「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」と記されています。今、教会で持っている食事交わり会は、その意味でとても聖書的と言えるでしょう。そしてまた、ほぼ毎週礼拝後持たれている祈祷会は、祈りによる交わりですから、これまた大きな聖書的意味があります。
教会に於ける交わりの特徴は、この世の一般的な交わり、サ-クル、人との交際や付き合いとは全く違います。聖書の語る「交わり」は実に多様で豊かな意味が含まれています。私たちは、キリストを救い主として告白し、自分の罪を悔い改める時、恵みによってキリストの救いを受けることができます。パウロは、コリント人への手紙第一1章9節で「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私達の主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」と宣べています。そうです。私達は「キリストとの交わりに入れられた」のです。
主イエスは昇天された時、「では、私は天国で待っていますよ。天国で会いましょう。」と言って、いなくなってしまったお方ではありません。
救いを受けたその日から天国へ行くまでの地上での期間、私たちはずっと神様の「愛」と「励まし」と「慰め」のある親しい「交わり」の中にあるのです。逗子福音教会2025年度定期予算総会の主題聖句とした、ピリピ人への手紙2章1~3節「ですから、キリストにあって、励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのでなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思う。」という関係性の中に留まり続けることができるのです。
そして、救われた私たちは、お互いを兄弟姉妹と呼びます。その交わりは求道者の方も含め、年齢も社会的な仕事も様々です。そして、どなたかが病めば全員で祈り、その人の痛みを自分の痛みと思い、またどなたかに嬉しいことがあれば、自分のことのように喜びます。先頃、杉本兄姉の所に可愛い赤ちゃんの友くんが与えられましたね。友くんが教会に来ると、みんな競うように抱っこさせて欲しくて駆け寄ります。自称、じいちゃん、ばあちゃん、にいちゃん、ねえちゃんで溢れています。教会の大きな家族の中ですくすくと大きくなっています。また、私は最近つくづく本当にそうだなあ、と感じさせられることがあります。最近救われたある姉妹は教会の方々のことを「福音家族」と呼んでおられます。私は「いいなあ」と思いました。そして何かあると、この家族に相談し、様々な意見をもらい、祈ってもらっています。お仕事でなかなか教会に来られない時は「来週こそはイエス様と福音家族に会いに行きます。」と力強く仰います。
今宣べてきたように、交わりの素晴らしい特徴は、その多様性にあります。一般的なおつきあいのほとんどは、共通する立場や、興味の上に成り立っているので、集まる人の年令や社会習慣が似通っています。しかし、キリスト者の「交わり」には、そのような縛りはありません。そこには、あらゆる年代、あらゆる人種、あらゆる職業、あらゆる社会背景の人達の居場所だからです。そして、キリスト者の「交わり」の真価は多様な人達が手を携え、信仰者として、共に歩む中で発揮されると言えるでしょう。パウロは「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。(Ⅰコリント12:27)」と宣べ、さらにパウロは「あなたがたは、もはや他国人でも、寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:19)」と宣べ、この「交わり」を「神の家族」に例えています。
先ほど、友くんの話をしましたが、赤ちゃんが家族の中で愛され、だんだん成長していくように、キリスト者の「交わり」もその中にいる信仰者の成長をもたらします。当然のことですが、問題のない家族はこの世にはありません。時には言い争いがあり、ギクシャクした関係が続いたりすることもあります。また、時には、しばらくの間、疎遠になってしまうことだってあるでしょう。それでも、深いところでは互いに愛し合い繋がっている、それが本来の家族の関係性です。キリスト者の「交わり」 も同様です。そこにいるのは罪のない人達ではなく、罪赦された罪人ですから、当然問題も起こります。気の合わない人もいれば、カチンと来てしまう人もいるかもしれません。意見の食い違いが起こることや、傷付いてしまうこと、また様々な理由で一時的に離ればなれになってしまうこともあるでしょう。
しかし、家族の絆が様々な問題を乗り越えて強くなっていくのと同様、キリスト者の「交わり」もまた、様々な問題を乗り越えて強くなって行きます。ですから、問題が起こったからと、そこから身を引いてしまったりしては成長の機会が失われてしまうだけではなく、「交わり」そのものが死んでしまいます。それは意味のない無価値なものとなってしまい、世の中にある集まりと何ら変わらなくなります。
パウロはローマ人への手紙12章2節で「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」と宣べています。先ずはへりくだって、相手ではなく、それぞれ自分が変えられることを祈り求める時、その「交わり」 は更に神様に喜ばれるものとなるでしょう。
さて今まで宣べてきたことは、人同士の交わり、神様が与えてくださった横の繋がりです。 もう一つ大切な交わりは、言うまでもなく神様との交わり、縦の繋がりです。救いを与えられた時に宿ってくださった聖霊様により、神様との交わりがあります。この二つのことを十字架に例えて話されることがあります。十字架の縦の棒は神との交わり、横の棒は人との交わりということです。
そして、最後に今日のみことばの「集まる」ということの意味を考えてみたいと思います。 初代教会の頃、それは熱心にキリスト者は集まっていました。3000人が救われた後も、毎日救われる人を加えてくださいました。そして、迫害が始まった時、一層この”集まる”ということの意味が明確になって来ました。主を礼拝するために、命がけで集まったのです。
何故、危険を犯してまで集まろうとしたのでしょうか?家内が観て感動したと言う“クオ・バディス”(ラテン語で、「主よいずこに行き給うぞ」の意味) という映画の一場面に、迫害下でキリスト者になり、ペテロが指導していた礼拝に、何としても行きたいと願う主人公のユダヤ人の女性が、命がけで屋敷を抜け出し、仲間の所に来て、「ペテロ先生!」 と呼ぶ姿が神々しいほど一途で美しかったと申しておりました。もちろん、私も一緒に観ていて感動しました。
そして日本に於いても、隠れキリシタンの末裔の方々が追っ手を逃れて集まって礼拝した痕跡というものが全国に残っているそうです。また、家内が読んでいた湊かなえ氏の短編集の中に“石の十字架”という作品があって、その中にもそうしたエピソードが一場面として載っています。それは瀬戸内海の小さな島の山の中で、小学生の女の子二人がそれぞれの願い事を胸に秘めながら、島の年寄りに伝え聞いた伝説、この島に昔、隠れキリシタンたちがキリシタン狩りをする侍たちの追ってを逃れて、私はここに来て祈りをしたという合図に、仏像の裏に十字架を刻んで、石を積んでおいたという話を頼りに、その十字架を懸命に捜してとうとう見つける、という話があるそうですが、その跡が今も残っているそうです。このように日本のあちこちにその歴史が残っているそうです。
今は集まろうとしたら、すぐにでも集まれます。迫害もありません。それなのに何故、集まることを止めてしまおうとするのでしょうか。自分でどちらでも選べると思ってしまうのでしょうか。選択できるものと思っているのでしょうか。
しかし、これは天に帰られた主イエスの心からのお願い、愛ある命令なのです。「集まることを止めないで。」 と。集まりは礼拝です。神との会見です。ですから、場所、時を合わせて、自分を整えて集まるのが礼拝です。
あまりに豊かに、恵まれた状況になった今の私たちも、原始の教会の人と同じ心になって、ペテロ先生、パウロ先生、ステパノ先生、私たちの先輩を見習って、心燃やされつつ、集まることを止めないで、今週も、来週も、また次の週も、主に会いに、兄弟、姉妹に会いに、神を礼拝するために集まろうではありませんか。
