ですから、あなたがたに次の言葉を教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。
久しぶりにメッセージをさせてもらう感じがします。と言うのも、先月は国家試験を受験する為にメッセージをお休みさせていただきました。試験の方は無事に、皆さんのお祈りのおかげで、なんとか合格点に達していました!「お祈りのおかげ」というのは本当にその通りでして、、何故なら勉強した箇所が全然出題されなかったのです。神様の守りの中、何とか乗り越える事ができました。
僕は今まで、まともに受験というものを経験した事がなく、テストに向けて真剣に勉強をするということが殆どなかった、、というかまともに勉強したことがなかったのだと思います。
介護福祉士という資格を得たので、介護、福祉についてこれ以上学ぶことはない、というわけではありませんが、勉強期間中に読んでいた、参考書や過去の問題集などは、一旦棚の奥にしまいました。
しかし、神様の学び、聖書の学びというものは一生涯続くものです。終わりがない。僕は今ここ(教壇)に立ってお話しをしていますが、皆さんよりも聖書を知っているなんて到底思ってはいません。皆さんと共に聖書を学び、村松先生のメッセージから学び、人々に伝えていきたいと思っています。あの使徒パウロでさえも、「兄弟たちよ、私はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただこの一言に励んでいます。すなわちうしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄光を得るために目標を目指して一心に走っているのです」ピリピ3:14~14と言っています。
私たちは走り続けるのです。人生の成功者、敗北者、、違います。人生に成功も失敗もありません。走り続けるだけです。どんなお金持ちも天国には何も持って行けません。神は悪人にも善人にも同じ雨を降らせるのです。だから僕は永久にバカ田大学神学部を留年し続ける、小野寺和俊デカパン大先生でありたいと思います。
今日はこの聖書箇所から、「聖霊」について神様の御心を学び、味わいたいと思います。
結論から言うと、聖霊の働きがなければ、幾ら聖書読んで、調べ、あらゆる仲介書、神学書を読み、youtubeやSNSを観ても、イエス・キリストのことは分かりません。「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません」と書いてあります。何故今回、聖霊についてのメッセージをしようと思ったのか、示されたのか、それは僕自身、聖霊様の働きを体験したからです。
1月の主日礼拝で行った、メッセージの最中でした。中盤位に差し掛かった時、身体の中が、カーッと熱くなり出したのです。身体の内側が燃えているというか、、言葉でうまく表現できないのですが。メッセージが終わった後も、その状態はしばらく続いていました。熱を計っても、平熱です。あっ!これは聖霊による働きだ。と自分自身の中で気付かされました。確信したのです。どうでしょうか。証拠のない話です。
この様な不思議な体験というものは、他者に話すと同時に真実味が薄れていく感覚があります。以前にもお話ししたことがあると思いますが、奇跡体験というのは、神と自分自身の間に起きる、極めて個人的な体験であるのではないかと感じています。勿論、多くの人の前で起きる奇跡もあります。聖書の中には、その様な場面が幾つも書き記されています。今までした事のない、本当に不思議な体験でした。聖霊様を「体感」したのです。
では、聖霊の働きと言うのは、そういった、何かこう、言ってみればスピリチュアルなもの、超自然的なものなのか、勿論そういった側面もあります。実際に経験しました。皆さんの中にもそういった経験を持っている方がいると思います。
しかし、それだけではないのです。パウロはガラテヤの教会の人たちに向けて「聖霊の実」について手紙を書いています。
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
聖霊の実というのは、これらを実践すれば聖霊様が喜ばれるし、聖霊様が共におられるなら、これらのことを実践できるという神様の言葉、実という言葉を使った、比喩表現であると僕は解釈しています。
これを読むと、9つある聖霊の実は、どれもよく分かる事です。訳のわからないものではありません。全て、この日常を生きている私たちが日々感じるものです。この前の節ではこれと反対のものが書かれています。それらも、よく分かる、日々生きている、日常の中で感じることです。不思議な体験と日常の中で日々感じるものとのバランスが大切なのだと感じます。
これは、イエス様が私たちと同じ、人としてこの世に来られた事が、本当に実感できる箇所です。と同時に僕自身、これらを実践できていないと感じます。ちょっと位できていてもムラがある。残念ながら、大先生はその程度です。特に一番最初に書いてある「愛」については、はっきり言って全人類、本物の愛を持っている人は1人もいないと断言できるのではないでしょうか。神様だけが、イエス・キリストだけが持っているものなのです。
イエス様を知る、受け入れるということは、自分自身の罪を知ることです。しかし、聖霊の働きがなければ、罪に気づくことができない。その罪の為に十字架にかかり死なれたイエス様。贖われた。その意味、いや、愛については聖霊様の働きがなければ分からないのです。多くの人にとって、イエス・キリストの死はただの「おせっかい」でしかないのです。
コリント1:18 十字架のことばは、滅びるものたちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」とパウロは言っています。
その後の20節では、「知恵あるものはどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神はこの世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」
超エリートのパウロがこう言っているのです。先程も言いましたが、幾ら勉強しても聖霊の働きがなければ、「イエスを主ということはできない」のです。罪に気づくことができないのです。
そしてなんと言っても、私たちはその聖霊様を無条件で与えられている。イエス様を受け入れたと同時に聖霊様が住まわれる。自分の体が聖霊の宮とされる。あれ?聖霊様が働かれないとイエス様が分からない、、でも聖霊様はイエス様を受け入れた時に内住される、、どっちが先なの??こう思いませんか?僕は思いました。でも、その事も聖霊様によって分かるのです。神様は不思議なお方です。「ある」というものであるのです。無限なのです。初めであり終わりである。アルファでありオメガであられる、私たちが母親のお腹に宿る前から、私たちの全てをご存知の方なのです。アーメン!
また、イエス様が受けた聖霊と私たちが受ける聖霊は同じものなのです。
ルカ3:22 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
神は必要なものを全て与えてくれるお方です。しかしそれは物質のこと、目に見える物ではないのです。名誉、富、名声、健康ではないのです。
風のように目には見えないけど、確実に存在する。私達人間にとって絶対必要な水、いや!「生ける水」と呼ばれる聖霊様が与えられる。最高潮のプレゼントです。そして聖霊様を通して、永遠の命を与えられている事が分かる。この世での人生は、ほんの瞬きの一瞬です。今この時から天国への道は始まっているのです。
聖霊様と共に、イエス様と共にゴールへ向かって、目標へ向かって、ただひたすら走り続けましょう!
