さあ、2月も3週目となりました。私は月の内の一回は、いつものルカの福音書の講解説教を離れて、主題メッセージをと心がけていますが、今日は旧約聖書のエゼキエル書を示されて、選びました。皆さんは、表題を見て「石の心」?、何それ、と思われたでしょうか?まず皆さんは、石と聞いて、どういうものを想像しますか?石にも色々ありますよね。大きい石、小さい石、形もみな違いますし、用途も様々です。私が思い出すのは、子どもの頃、川辺に行って小石を川面に並行に投げて、2段飛ばし、3段飛ばし、あくことなく遊んだものです。川面がキラキラしてしてそこに飛沫が上がる様はとても美しいものでした。その他は、河原で拾った石を集めたり、そこにペイティングするなどしたものです。他には、歩いていてフイに石につまづいて転びそうになったり、もっと大きな石、岩になったものには、そこに登ってみたり、後、漬け物を作る際、昔は樽に漬け、上に大きな石で重石とした物です。こうして挙げてみると実に沢山ありますが、今までの石に共通する特徴は何でしょう・・・・。それは一様に“堅い”ということです。こんなものが外にあった場合はいいんですが、もし身体の中にあったらどうでしょう?通常“石”と呼んでいますが、身体の中の物質が結晶化した物で、代表的な病気に尿管結石があります。なったら大変!その痛さたるやないそうです。またこれ程大事でなくても、口の中にほんの少し細かい石、砂利など入ってもとても嫌なものです。それがもし、私達の心の中にあったら・・・・というのが本日のテーマです。
本日与えられた聖書箇所・エゼキエル書36章23節から31節を見て行きましよう。 その前に、エゼキエル書が書かれた背景を見て行きますと、エゼキエルとは「神が強めて下さる」という意味です。エゼキエルとは人の名前ですが、時代はイスラエルの民の補囚という困難な時代に、神のことばの代言者、または預言者として立った人です。ご存知のように、イスラエルの民は神に選ばれた民でありながら度重なる困難に遭います。 代表的なものに、出エジプトの出来事がありましたね。でもそのように苦労してカナンの地に導かれて住みついた民も、いつか本当の神を忘れ、異教の教えに感化され、偶像を拝むようになり、神のさばきによって、敵の侵略に遭います。まさにこの時代、バビロン人に攻略され、遠いバビロンの地に補囚として連れて行かれるという憂き目に遭っている最中です。聖都エルサレムはバビロンのネブカドネツァル王によって攻撃され、その町は荒らされ多くの市民がバビロンに補囚として連れて行かれました。まさに何の望みもなく、輝かしかった聖都エルサレムは陥落して見る影もない、人の心も荒れ果ててしまいました。
そしてこの頃の人には、こんなになったのは、過去の人の罪のせいだという考え方が一般的でした。自分のせいじゃない、私の罪じゃない、祖先の罪のせいだ、まさに人に罪をかぶせ、自分は正しいとうそぶく姿でした。
その補囚の民の中に、神に立てられ、神の救いを伝えたのがエゼキエルという預言者です。そして彼は、補囚の原因は、彼ら自身の罪故の神のさばきであると預言しました。こうして神は、背信(神に背く)のイスラエルの民の為に、繰り返し繰り返し、救いの御手を、救いの手立てを与えて下さるのです。
22節に、エゼキエルを通して、神が「わたしが事を行う」と仰っていますが、イスラエルの補囚後の神の民としての回復の事であり、第二の出エジプトとも言うべき、救済的意味のある神の業です。その民を回復させ、救いを体験させられるのです。それは、出エジプトと同じく、神の民の救い(奴隷<補囚>からの解放)であり、やがて主イエスの救いの御業の予表であるとも言える神の御業です。
23節で、神は「わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。」と仰っていますが、それはイスラエルの民の神の裁きの原因が、彼らの背信の故であることを示しています。
しかし、同じく補囚となっていた、ダニエル<ベルテシャツアル>と三人の友人のハナンヤ<シャデラク>、ミシャエル<メシャク>、アザルヤ<アベデ・ネゴ>(<>内は、バビロニア風の名前がつけられたため>)は、背信の彼らと違い、神の御名を王に崇めさせています。(参照;ダニエル3:29、6:26~27)特に、ダニエルは、エゼキエルと同時代の預言者エレミヤの書を読み、先祖の罪であると同時に、自分自身の罪であることを告白しています。(参照;ダニエル9:1~19)ここにダニエルによって、神の御名を崇める者の姿勢を見ることができます。罪を自らのものとし、決して他に責任転嫁しないのです。
そして24、25、26、27節「わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから、石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」
「新しい霊」とは、私は聖霊であると思います。何故なら、神が「わたしの霊を授ける」と宣べておられるからです。また「新しい心」とは、聖霊が内住し、聖霊に導かれ、神の御心に従う心だと思います。そして「きよい水」とは、主イエスの十字架と復活による「救い」ではないかと思います。何故なら、その水を振りかけられたなら、「あなたがたはすべての汚れからきよくなる。」とあるからです。詩篇51篇7節「ヒソプでわたしの罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば 私は雪よりも白くなります。」のダビデの賛美と、教会福音賛美歌324番“イエスよ、この身をきよめて”の「わが心 洗いて 雪よりも白くしたまえ」の賛美を思い出すからです。私は、この聖句(24~27)から、バプテスマのヨハネの民への悔い改めの迫り、聖霊による悔い改めへの導き、主イエスの十字架と復活の救いを連想します。すべてが神の御業であり、神から与えられるのであり、神の恵みだからです。
そして、救われた者の意識は、31節「あなたがたは自分たちの悪しき生き方と、良くなかった行いを思い出し、自分たちの不義と忌み嫌うべきわざを憎むようになる。」のです。
さて、最初にお話ししたように、本日のテーマである、特に26節の「石の心」に注目して見て行きたいと思います。
「石の心」とは、心に石を持つとはどういう事でしょう。前月に賛美した教会福音賛美歌175番「あなたの願いのままに」の一番の歌詞は、「冷たく渇いた心 御霊はあたためたもう 私も切に祈る 『私を去らないで』と あなたの願いのままに 豊かないのち与え 救いを伝えるため つくりかえてください」ですが、堅く、渇いた心、閉ざして、他を拒絶し受け入れない心、決して許さない冷たい心・・・・などでしょうか。
ここで、一つ、分かり易いお証しを紹介したいと思います。昔、日高市武蔵台の教会に仕えさせていただいていた頃の話ですが、婦人の為の聖書の学びをしていた時、一人のご婦人が来られました。70歳位の方でしたが、良い所の奥様という感じがして、清潔でセンスの良い方でした。柔和そうで優しい感じの方でしたが、その方が「私は心の中に石があるのです。それが苦しくて苦しくて」と仰るのです。話を更に聞いて行きますと、どうもその方には、ご身内に、ごく親しい関係にある方に、どうしても許せない人がいるという事でした。でもその許せない人をどうにかしてくれ、というのではなくて、そう思ってしまう自分の心が辛くて苦しいので、この心をどうにかしてほしい、この心の中の石を捨てたい、と仰るのです。石があると気づいていらしたのですね。飜って、私達、自分の心を見つめてみると、この石はないでしょうか。普段何もない時はいいんです。それが一丁事が起こり、責められたり、批判されたり、友と仲違いしたりした時はどうでしょうか?心は波立ち、平静ではなくなります。心の中には自己弁護の気持ちと相手に対する怒りでいっぱいになります。心にバリアを張り、もう何も受け付けなくなり、堅い堅固な籠城のようになってしまいます。そうなると、人の忠言なども聞く耳を持たなくなります。怒ってすねた状態、あのヨナを思い出しますよね。また「ぶっ殺してやる」などと思ったりするから、恐ろしいです。普段明るい家内でさえ「うん、私、殺したい程、人を憎んだこと、あるよ」とサラッと言うので、びっくりしましたが、しかしまあ、驚くに値しないのかもしれません。人間というものを見つめれば・・・・。
では、その反対の「肉の心」とは何でしょう。肉の心を与えられた状態はどういうものか見て行きたいと思います。「肉の心」とは、もちろん、「悪しき肉の思い」などという意味ではなく、神に従順に従う心のことです。そして、「肉の心」とは、「石の心」の対極にあるものですから、まず、柔らかく柔和なのでしょう。いかにもおいしい、人が寄って来る心でしょう。人を許し受け入れる心でしょう。困難な時も希望を失わない柔軟な心というものでしょうか。
この肉の心を持った人を数人御紹介しましょう。映画で、「ショーシャンクの空」という作品がありますが、ご存じのお方はおられるでしょうか。この主人公は無実の罪で監獄に入れられてしまいましたが、監獄の中で良い人間関係を持ち、いつも明るく希望を失いませんでした。ある時、看守の目を盗み、モーツァルトの音楽を監獄内に流しました。音楽は人の心を癒します。みんなを幸せにします。見つかって罰せられるのですが平気でした。心は音楽で満たされ自由だったからです。まさに柔らかい肉の心が与えられていたのでしょう。
また、ナチスドイツのホロコーストで、捕まっていた中での記録「夜と霧」の作者も神にある希望を失わなかったから、あのような過酷な中で生きのびられたのでしょう。この人も肉の心を与えられていたのでしょうね。
そして古くはあのパウロが捕まって、監獄につながれていた時、牢の中で賛美をしていたとありますね(使16:25)。まさに肉の心のなせる業だと思います。
さあ、どうでしょう。私達もこの肉の心をいただきたいと思いませんか?冷たく堅い、人を許せない石の心に支配されたままでは苦しいではありませんか。ではどうしたら、肉の心を得られるのでしょうか?それにはまず、自分の心の中の石を捨てる決心をするのです。もちろん、石は神が取り除いて下さるのですが、人間の側の決心、意志が必要です。石を取り除いていただくには、意志が必要です。(石だけに?)何故なら、神は人間をロボットのように扱わず、その人格を尊重されるからです。
「石の心」とは、すでにお分かりと思いますが、「罪(の心)」のことです。「私はずっと堅い心、許せない心に支配されて、人を憎んだり、仕返しをしたいと思って、自分の心を汚し傷つけてきました。でも今、この石を捨てます。どうぞ神様。私を許し、肉の心を下さい。人を許せる温かい心を下さい。」と祈ることです。
石を捨てるとは、すなわち、悔い改めのことですね。肉の心とは、心の中に、イエス様が住まわって下さるという事です。だから、私達は今日、石を捨て、肉の心、イエス様を着て、喜んで、この一週間を過ごしましょう。
