2月に入りましたね。寒いのですが、この寒さを凌ぐと、やがて暖かい春がやって来るという早春の訪れを感じさせる季節です。我が家のきみちゃんロード(私たちが住む牧師館は、故武田きみ子姉妹の家で、その息子故武田順也兄弟の寄贈による)に、白い椿の花と赤い梅のような花を咲かせています。見る度に心が弾みます。
さて今日からまた、ルカの福音書に入って行きます。今日の聖書箇所は、主イエスの「少年時代」のお話しです。そしてこの記述があるのは、ルカの福音書だけです。福音記者ルカが、主イエスの母マリヤから取材した、非常に重要な記述です。
ユダヤ人男子の「成人式」は13歳です。「戒め<律法>の子」と呼ばれ、律法を守るユダヤ教社会に成人として迎えられ、律法を守る義務が課せられます。ですから、父親はその前年中に、必要な準備教育を施すことになっています。それで「イエスが12歳になられたとき(42)」過ぎ越しの祭りのとき、少年イエスはその巡礼に同行し、都エルサレムに上ったのです。
さて、その祭りの期間を過ごしてから、帰路につきました(43)が、少年イエスがエルサレムにとどまっていたなどとは思いもよらず、それに気づきませんでした。しかし、それは不注意によるのではありません。何故なら当時、巡礼旅行団は、女性の足が遅い為、巡礼旅行団の行列の前列に女性、後列に男性が歩み、子ども達は、その前後を自由に駆け巡っていたのです。前方のマリヤも後方のヨセフも、「イエスが一行の中にいるものと思って(44)」、少年イエスがエルサレムにとどまっておられたことに気づかなかったのです。わが子イエスが一行にいないことを知ったヨセフとマリヤの思いはどんなであったでしょう。わが子イエスを見つけたマリヤが「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。(48)」と言った、その思いが、親としてよく分かります。それなのに、少年イエスは両親の心配をよそにこう答えています。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。(49)」と。何と、親の心、子知らずではないでしょうか。
私たちも同じ経験をしたことがあり、子どもが迷子になったときの、胸が張り裂けそうになる親の気持ちがよく分かります。しかし、私たちの息子が迷子になった事件は、何度かお話ししているので、今回は我が妻の子ども時代の迷子事件のエピソードをお話しします。もちろん、神の御子の主イエスの少年時代の記述と並べて、人間の子どものお話をするのは恐れ多いことかも知れませんが、心配する親の気持ちは、古今東西変わらぬものと思いますので紹介します。それにしても、このところ何度も家内を登場させていますが、他の方ですと個人情報など、難しい問題が多いので、家内工業的になりますが、ご容赦下さい。
さて我が妻も子ども時代、ご多分にもれず、迷子というか、家に帰るべき時間に家に戻らず、家族中を心配させた逸話を持っています。7歳か8歳頃だと聞いていますが、夏休みに歯の治療を受けていた家内は、それまで、母親と一緒にバスに乗って町の歯医者さんに通っていましたが、冒険心の強い家内は、その日「今日は私一人で行ってみる、大丈夫、乗るバスも降りるバス停も分かる。お金を下さい」と言って出かけて行った、と言うのです。
両親は心配していたようですが、これも成長の為と思い許したそうです。家内は少しの不安とそれを上回る期待で一人で出かけました。順調にバスに乗り、歯医者さんに着き、「今日は一人で来たの?」「そうです。」という会話をし、無事に治療を済ませ、お金を払い、順調に帰りのバスにも乗ることができました。家内の心は“一人でできた”という満足感でいっぱいでした。さあやがて、家の最寄り駅に着き、後は歩いて家に帰るだけでした。ここまでは良かったのです。まだまだ日も高く、時間はたっぷりありました。歩いて家に向かう道の途中には、通っていた小学校のプールがありました。折しもその日はプールの開放日、子ども達は楽しそうに、声を上げ、水遊びをしたり、泳いだりしていました。家内は大の水泳好き、このチャンスを見逃すことはできません。今家に帰ったら時間がなくなってしまう。この時、家内の心の中では、一瞬のせめぎ合いがありましたが、“よしプールで一泳ぎして行こう”と決めて、プールに入ってしまいました。晴天に恵まれ、気温の高い、絶好のプール日好り、心ゆくまで潜ったり泳いだりしました。その内高かった日も傾き、夕方に近づきました。“ハッとして、さすが帰らないとまずい”と思った家内は家路を急ぎますが、その途中で、バイクを走らせ町の方向に向かう父親にも会ったそうです。家内は手を上げ、「あっ、お父さん!」と呼んでも、父親はそれに気づかず、真剣な顔をして、まっすぐ前を見つめ、ハンドルを握っていたそうです。いざ家に帰り着いて、家のたたきに、そおっと足を踏み入れてみると、この辺りになると、家族も相当マズイと思っていたらしく、居間の方で母親と兄や姉たちが、アルバムを持ち出し何やら口々に言い合いながら重苦しい雰囲気だったそうです。そこに現れた末っ子の家内を見て、家族達は、?!・・・ その後は想像がつくと思います。家族全員安堵したとたん、こっぴどく叱られたのは言うまでもありません。その時、家族がてっきり誘拐されたと思い、警察に届けるための家内の写真をみんなで選んでいた所で、父親はじっとしていられず、バイクで捜しに出ていったということです。
こんなに長々と、おっちょこちょいの家内のエピソードを語った私は何が言いたかったかと言うと、親というものは無条件に子どものことを心配するということなのです。それは主イエスの両親も同じだったのでしょう。ですが違うのは、妻が経験した迷子事件とは全く別次元のことであり、神の側面をお持ちである少年イエスの答えです。 少年イエスが「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは、当然であることを、ご存じなかったのですか。(49)」と言われたことに、この事件の重要なメッセージがあります。少年イエスがいつ「神の御子」であることを意識されたのかは分かりません。しかしこの時、少年イエスは明確にご自分が神の御子であることを宣言されたのです。マリヤが「お父さんも」とヨセフのことを示し、言ったその言葉を返して、ご自分の父は、この神殿で礼拝されている神であり、御自分が神の御子であることを示されたのです。「しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。(50)」のです。
キリスト教神学、教理において、最も重要なことは、キリスト論、すなわち主イエス・キリストが神<の御子>であり、と同時に、正真正銘の人間であられた、ということです。物見の塔<エホバの証人>の人々は、主イエス・キリストが神<の御子>であることを、この歴史的事実<真実>を認めません。しかしそれは、普通の人間であるなら、そう思うのは当然のことだからです。人間には決して理解出来ないことだからです。そして聖書自身が、人間の理解によって、主イエス・キリストが神<の御子>であることを理解出来ない、納得出来ないことであることを証明しています。パウロはこう宣べています。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。(Ⅰコリント 2:14)」と。
さらにパウロはこう宣言しています。「聖霊によるのでなければ、誰も『イエスは主<神>です。』と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3b)」と。
さて私は、この事件において不思議でならないことがあります。それは「両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。」ということです。聖書を読んでいる私に理解できて?、彼らが理解できなかった?、ということです。何故なら、主イエスの父親ヨセフは、主イエスの誕生において、非常に苦しい思いをしました。それは、婚約者であるマリヤが、自分の身に覚えのないことなのに、他の誰かの子を宿している事実を知ったことです(マタイ 1:19)。しかし彼は、夢に現れた御使いによって、マリヤが聖霊によって、すなわち神によって身籠もっていることを知らされます(マタイ 1:20)。そして御使いによって「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」と命じられ、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」。(マタイ 1:21)と、説明を受けています。父ヨセフは、マリヤから生まれた子が、聖霊によって生まれた子、神の御子であることを理解した、否、信じたので、マリヤを自分の妻として迎え入れたのです(マタイ 1:24)。しかしその事実がありながら、父ヨセフは少年イエスの言葉を理解できなかったのです。
さらによく分からないのは、母マリヤです。マリアは、天使(御使い)ガブリエルによる受胎告知に対して、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。(ルカ 1:34)」と答えているのです。その答えは当然です。彼女の身に覚えのないことだからです。しかし、天使はマリヤに告げます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は、聖なる者、神の子と呼ばれます。(ルカ 1:35)」と。さらに天使は、人間的には決して子どもを生むことができないはずの年老いたマリヤの親類のエリサベツの妊娠を告げ、それが神の御業によること、すなわち、「神にとって不可能なことは何もない(ルカ1:38)」ことを告げ、マリヤの信仰を導きます。それでマリヤは「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。(ルカ 1:38)」と応答するほどの信仰が与えられたのです。そして事実、彼女は妊娠し、御言葉が彼女の身に起こったことを体験しているのです。しかも、神の御子である、主イエス・キリストの誕生のときには、天使に告げられた羊飼い達が、幼子の主イエスを捜し当て(ルカ 2:16)、異邦人の東方の博士達が幼子主イエスを礼拝する為に訪れた(マタイ 2: 9~11)のです。そのことの故に、母マリヤを取材した福音記者ルカは「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。(ルカ 2:19)」と記しているのです。マリヤが「思いを巡らしていた」とは、どんな事でしょうか。マリヤのお腹を痛めたわが子が、わが子であってわが子ではない、すなわち神の御子であることの思い以外に何を思い巡らすのでしょうか。しかしそれなのに、マリヤは「イエスの語られたことばが理解できなかった」のです。聖霊によって妊娠し出産したという、この世の歴史において誰も体験することができない特別な体験、そしてその誕生のときに次々に起こった不思議な体験にもかかわらず、何故、マリヤはそのとき「イエスの語られたことばが理解できなかった」のでしょうか。しかし福音記者ルカは、このことを通して、主イエスが「まことの神であり、まことの人である」ことの絶対的な証拠を示しているのです。確かにマリヤは自分の身において神の御子を宿し出産するという体験をしています。しかし現実には、神の御子イエスに、所謂神童としての「神の御子」らしさは全くなかったのです。本当に普通の人間として育てられ、成長したのです。母マリヤは、他の母親と同じように、赤子のわが子イエスに自らの乳を与え、わが子のおしめを替えて育てたのです。母マリヤがわが子イエスを育てる日常は、他の人間の子と全く違わなかったのです。
ですから、母マリヤは、わが子イエスが、神の御子であることを全く忘れていたとは言えないにしても、目の前にいるわが子を、いつも、この子は特別な子、神の御子、と言い聞かせて育てたのではなく、その日常においては、それを忘れてしまうほどに、他の母親と同じように、わが子の面倒を見て育てたのだと思います。それ故に、少年イエスが迷子になったと思い込んだのであり、「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」という普通の母親の感情しか現れなかったのです。しかし、福音記者ルカは「母はこれらのことをみな、心に留めておいた( 2:51b)」と記し、マリヤがこの事件を通して、再び、わが子が神の御子であることを強く再確認したことを暗示しています。ですから、主イエスがおよそ30歳で救い主としての公生涯に入られたとき、カナの婚礼において、母マリヤは、わが子イエスが神の御子であることの認識において、「あの方が言われることは、何でもしてください。(ヨハネ 2: 5)」と、手伝いの者達に命じたのだと思います。そして福音記者ルカは感動的な事実を記しています。「それからイエスは、一緒に下って行き、ナザレに帰って、両親に仕えられた。( 2:51a)」と。神の御子であることの認識を明確にされ、宣言されたにもかかわらず、主イエスは人として、律法の子として、モーセの十戒の第5戒「あなたの父と母を敬え。(出20:12a)」を忠実に守られたのです。否、心から自分の両親を愛されたのです。主イエスと両親との親子関係の立場は変わっていないのです。主イエスの両親も、それまでと変わりなく、神の御子としての主イエスではなく、普通の人としての少年イエス、わが子を育てたのです。
また、主イエスが公生涯に入られたとき、父ヨセフの記述のないことから、ヨセフはすでに天に召されていたではないかと思われます。それならば、長男としての主イエスは母親を助け、弟や妹達の面倒を見なければならなかったのではなかったかと思われます。人間として、親を失うという悲しみを経験し、生活の苦労を共にし、弟達が自立するまで、御自分の使命をも、忍耐して待たれたのではないか、と思います。
「それからイエスは、一緒に下って行かれ、ナザレに帰って両親に仕えられた。(51)」ここに、私達が信じる「まことの人」であられた神がおられます。私達が信じる主イエス・キリストは、遙か彼方の遠いお方でもなく、超自然のお方でもなく、私達と同じように、食事をし、排泄をし、病気にもなり、笑ったり、泣いたり、喜んだり、悲しんだり、興奮したり、落ち込んだり、苦しんだりした、普通の人間の肉体と感情を持っておられたお方です。主イエス・キリストは弟子達に言われました。「わたしはあなたがたを友と呼びました(ヨハネ15:15)」と。主イエス・キリストは私達と友情関係を望んでおられるのです。私達はこのお方を信じているのです。私達が信じているお方は「いつくしみ深き友なるイエス」です。聖書記者は私達の信じる主イエス・キリストがどのようなお方であるかを証言し、私達が主イエス・キリストとの友情関係を育むようにと勧めています。「私達の大祭司<キリスト>は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみをを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル 4:15~16)」と。
このように、神であり、人であるという完璧なご性質を持たれた主イエス、完璧に神様の御心が分かり、完璧に人間の心が分かるお方が、私たちの友となって、いつも側にいて下さるという、この素晴らしい恵みを心新たに感動し、感謝し、今週もまた、社会に、学校に、地域に出て行こうではありませんか。
