2025/1/19(日) 『 あなたのために 』ルカの福音書 1章1~4節:村松 登志雄 牧師

今日から、月1,2回のペースで、ルカの福音書から聴いて行きたいと思います。
「え、また福音書?やっとマルコの福音書が終わったと思ったのに、もう福音書は飽きたよ….」なんて思っている方はいらっしゃいませんか?
でも大人は大変ですよね。そう思ったとしても、そう簡単には口には出せませんからね。
子ども礼拝の時の倖ちゃんたちのように「え?やだよう、飽きた!」なんて決して言えませんからね。まあ、それは冗談としても。
でもみなさん、私がこの福音書をとりあげるのには訳があるのです。そして特に今、このルカの福音書に聴く意味があるのです。
今日はこの序章と言える、短い節の中から、みなさんに届けたい深い神のメッセージを受け取ってほしいと思います。
聖書の中には、主イエス・キリストの生涯を著した福音書が四つありますね。第一番目はマタイの福音書、二番目にマルコの福音書、三番目にルカの福音書、四番目にヨハネの福音書があります。この第一番目のマタイから三番目のルカまでは、共観福音書と呼ばれています。
共観とは、共に同じものを観るという意味です。資料面での類似点が多く、同じ視点から主イエスの生涯が著されているからです。

さて、ここから少し、説明的になりますが、福音書について、キリスト教資料集<ヘンリー・ベッテンソン編のキリスト教文書資料集(p.58)>に、各福音書について、興味深い記事がありますので紹介いたします。
「マタイはヘブル人の中で、ヘブル人の言語で福音書を著した。その頃、ペテロとパウロはローマで福音を伝え、教会の基を据えていた。彼らが去ってからペテロの弟子であり通訳であったマルコもまた、ペテロが説教したことを文書にして残した。また、パウロに従っていたルカは、自分の教師であるパウロの宣べ伝えた福音を、一巻の書物に記した。その後、主の弟子で、主の御胸によりかかったこともあるヨハネは、アジアのエペソに滞在中、自ら福音書を著した。(エウセビウス「教会史」5巻 8章)」とあります。
 
またルカは、パウロの手紙によれば、医者「愛する医者のルカ(コロサイ 4:14)」であり、同労者「私の同労者たち、・・・・ルカがよろしくと言っています。(ピレモン24)」です。
そしてパウロが、ローマの獄中にあるとき、「ルカだけが私とともにいます(Ⅱテモテ 4:11)。」とパウロの手紙に記されているので、ルカはパウロの近くで彼の世話をしていたようです。
また、先ほどのキリスト教文書資料集(p.58)の中に、ルカの福音書についての記事もありまるので紹介します。
「第3の福音書は、ルカによるものである。キリストの昇天後、医師ルカは、彼自身は肉体をとって地上を歩まれた主を見たことはなかったが、パウロが義に熱心な者(もしくは、多分、旅行の同伴者)として一緒に連れて行った時に、教えられた事柄を(順序正しく)自分の名前で書き記した。彼は自分で確かめ得る範囲のいろいろな事件を書き留め、その物語をヨハネの誕生から始めている。(ウェスコット「新約聖書の正典」付録Cにある本文)」とあります。
 
ルカ自身も福音書の序文<他の福音書には、序文はない>で「私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。(3)」と宣べています。しかし、「順序立てて書く」とは、時系列の意味ではありません。福音書の目的にかなう順序のこと、神学的な論理の順序です。
 
そして、「すべてのことを初めから綿密に調べています。」とは、ルカの取材相手には、パウロやペテロだけではなく、多くの主イエスの目撃証人がいたことが分かります。
同じくルカによって記された「使徒の働き」には、主イエスの母マリア他、多くの主イエスの目撃証人がいることも記されています。「彼らはみな、女たちとイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。(使1:14)」とあります。
「女たち」とは、主イエスの復活の最初の証人となった、マグダラのマリアたち(ルカ24:10)のことでしょう。
また、バプテスマのヨハネの誕生物語や、処女マリヤの懐胎物語(懐胎とは、ここでは聖霊によって身ごもったという意味です。)は、主イエスの母マリヤからこのことを直接取材したのではないかと思います。
例えば、こんな感じだったのではないでしょうか?「ねえ、マリアさん。神様が遣わされたみ使いによって、主イエスを身ごもると言われた時、どんなお気持ちでしたか?怖くはなかったですか?すぐに信じられたのですか?」と詳しく聞いたのでしょう。
少し前に、この教会でも、杉本ご夫妻に赤ちゃんが与えられた時、みんな口々に「わーどうだった?大変だった?」などと聴いていましたよね。
 
さて、福音記者ルカが、マタイ、マルコ、ヨハネと決定的に違うのは、彼がユダヤ人ではなく、異邦人であり、人として肉体を持っておられた主イエスを目撃していないことです。
 
マタイもヨハネも主イエスの弟子達ですから、人として肉体を持っておられた主イエスと共に生活をした目撃証人です。
また、マルコはバルナバの従兄弟(コロサイ 4:10)であり、マルコの福音書14章51節から52節に「ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。すると彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。(マルコ14:51~52)」とあり、この「ある青年」が、マルコ自身であったと考えられていますので、彼も主イエスの目撃証人です。
 
しかし、ここで疑問が生じます。
それはパウロが「聖書はすべて、神の霊感によるもの(Ⅱテモテ 3:16a)」であると、証言しているからです。
しかしルカは、この福音書を「綿密な調査」によると、証言しています。
多くの資料<マルコの福音書に関する資料、マタイの福音書に関する資料、他の資料)>と、パウロ、ペテロ、主イエスの母マリヤ、マグダラのマリヤ等の多くの目撃証人に対する取材等によることは明らかです。
であるなら、それは、神の霊感によるのではなく、人間的努力の結果ではないか、という疑問がわいてしまいます。
 
しかしその疑問は「聖書はすべて、神の霊感によるもの」ということの意味を取り違えているから、起こり得ることです。
パウロが「神の霊感」による、と証言しているその意味は、聖霊による、聖霊の導きによる、御霊に導かれた信仰による、という意味です。
「神の霊感」による、とは、聖書記者が夢遊病者のようにされたり、ロボットのように機械的に命じられるままに記したのではない、ということです。
ですから、「綿密な調査」によることは、決して、「神の霊感」を否定するものではないのです。否、事実と真実を記す為に、重要で必要なことです。
 
このことは、御言葉の説き明かし、説教においても、同じ事が言えます。
ジョン・ストット牧師は、説教について、こう語っています。「説教は確かに御霊の業だが、人間の学ぶ努力は精一杯なされなければならないこと、十分勉強され明瞭であると同時に、燃えるパッションがあること」が大切であると。
 
聖霊によって、ルカに与えられた福音書を著す使命、燃えるパッションは、この福音書の序文にある「テオフィロ」という人物に宛てて書かれた経緯の中に表されています。「テオフィロ」と呼ばれる人物は、新改訳2017では「テオフィロ様」と訳されていますが、口語訳では「テオピロ閣下」と訳されているように、ローマの高官であったと考えられています。
ルカに、福音書を著す使命、燃えるパッションが与えられたのは、テオフィロに「それによって、すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによくわかっていただきたいと思います。(4)」というルカの切なる願いから生じたものです。
それは当時、いろいろな異端が起きていたため、そのような情勢の中で、正統的福音信仰の確立のために、主イエスの生涯を著す必要があったのです。
 ルカが「すでにお受けになった教え」と言っているので、テオフィロが、すでに主イエスの福音を聞いていたことが分かります。
 
さらに興味深いのは、口語訳では、ルカが、序文で、「尊敬するテオピロ殿」と呼んでいますが、続編の「使徒の働き」の序文では、親しく「テオピロよ」と呼んでいることです。
これは、テオフィロが、ルカの手紙(福音書)によって、信仰が与えられてキリスト者となったからであり、ルカもテオフィロも、神の家族として兄弟となったが故の親しい関係になったからとだと考えらています。
またそうでなくても、テオフィロにルカが願っていた、正統的な救い主イエス・キリストに対する信仰、異端に惑わされない福音信仰の確立が与えられたことによって、親しい関係が築き上げられたことは間違いありません。
 
他の福音書が、異邦人向けではない、ということではありませんが、ルカ自身が異邦人であることによって、「異邦人の異邦人による異邦人のための福音書」であることが、他の福音書と顕著に違うところです。
すなわち、それはこの福音書が、私達異邦人のために著された福音書であるということです。
ですからルカは、ユダヤ人向けに福音書を著したマタイのように、旧約預言の成就としてのメシヤ<救い主>を証言する旧約聖書からの引用に、あまり関心を払っていませんし、旧約聖書からの引用も極めて稀です。
何故なら、ルカは旧約聖書を知らない人々が、世界の人々の救い主、主イエス・キリストを知ることができるようにとの目的を持って、この福音書を著しているからです。
 
また、ルカの福音書の特徴は、歴史的時点を明らかにしていることです。
主イエス・キリストの誕生については、「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストウスから出た。これは、キリニウスがシリヤの総督であったときの、最初の住民登録であった。(ルカ 2: 1~ 2)」とか、
バプテスマのヨハネが公に出現する日については、「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤ領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニヤがアビレネの領主、アンナスとカヤパが大祭司であったころ(3:1~2)」と記していることからも、
 
ルカが異邦人テオフィロの為に、主イエスの生涯の歴史的事実を知らせようとしている配慮が見えます。
 
また、「聖書はすべて、神の霊感によるもの」ですが、ルカの福音書は、そのことを明確にしています。何故なら、他の福音記者と違って、人として肉体を持っておられた主イエスを目撃していないことこそ、目撃証人としてではなく、聖霊の導きによる信仰によって、霊的に、世界の救い主、主イエス・キリストを表していると言えるからです。
復活の主イエスは弟子トマスに言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(ヨハネ20:29)」と。
そしてパウロは証言しています。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3b)」と。
福音記者ルカは、聖霊の働きによって、私たち異邦人の先輩として、「見ずに信じ」て、「イエスは主です」と証しする者です。
そして、テオフィロも私たちも、聖霊の働きによって、「見ずに信じ」て、「イエスは主です」と証しする者とされています。
ルカの福音書は、間違いなく、テオフィロを初めとして、私たち異邦人に与えられた、神からのプレゼントです。
どうですか、これを聞くとワクワクして来ませんか?
次回からルカの福音書に聴くことに、期待しかないでしょう?
 
最後に、人がある人のために愛情を持ってしたためた手紙、文書というものは、宛てられたその人だけに留まらず、それを読む多くの人に素晴らしい影響を及ぼすという、一つの例を紹介いたします。
 
それは、昨年12月8日に、逗子福音教会で洗礼を受けられ、キリスト者となられた西山浩美姉妹のお証しです。(もちろん、ここにお集まりの兄弟姉妹の多くは、すでにお聞きになっていると思います)
西山姉妹は、教会に来られていても、どうしても神の存在が信じられなかった時に、家内が示されて、一冊の本をプレゼントしました。
その本は、家内が入院中に読んでいたもので、わが団体(日本福音キリスト教会連合<JECA>)の北関東地区の前橋キリスト教会の内田和彦牧師が、教会員の息子さんで、末期癌にかかられ入院している方に、愛を込めて、神の存在、聖霊、キリストについて、実に、41通の手紙を書かれました。
そして、その手紙によって、その方はキリストを信じ、病床洗礼を受け、キリスト者となって、天に召されたという内容で、その手紙をまとめた「※私たちは勇気を失いません」というタイトルの本です。※Ⅱコリント4:16
その本を読まれた西山姉妹は、それまで持っていた、神に対する疑問が、スッとなくなり、神を受け入れる決意をされたということです。
きっと、聖霊が、内田牧師に書かせたに違いありません。
 
それでは、今日は、主イエス物語の序章、プロローグというものでしたが、TO BE CONTINUE ということで、神に期待して終わることにします。
これから、ルカの福音書をじっくりと学んで行って、異邦人すなわち,私たちの、私たちによる、私たちのための宣教を進めて行こうではありませんか。