2024/12/15(日) 『 置き忘れた水がめ 』ヨハネの福音書4章19~30節:小野寺 和俊 伝道師

今日の聖書の箇所は、イエス様と今日のポイントとなる「サマリアの女」との会話の場面です。

このサマリアの女とイエス様のお話しの全編は、四章の一節から始まって、39節まで続くのですが、今回のメッセージでは19節から30節までを選びました。

サマリアの女、、この言葉の響きを聞くと、僕はどうしても、演歌の曲にありそうなタイトルだなぁと思ってしまいます。日本の演歌のテーマによくある、影のある女性、叶わぬ恋、人目をはばかる理由がある男女の関係、その様なイメージと、この女性の素性が重なるのです。何故かは後でお話しします。

この話の始まり、最初の四章の一節から四節までを読んでみたいと思います。

ヨハネ4:1~4 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、ーバプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだがー ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通っていかなければならなかった。

イエス様は、ご自身の地元(ホームタウン)であられるナザレ、ガリラヤ地方で弟子達と出会い、その後カナで行われた婚礼で、水瓶の水をブドウ酒に変える、初めての奇跡(しるし)をおこされます。その後、過越の祭りの時期にエルサレムに行き、神殿で商売をしている人達に対し、怒りを露わにされます。ハッキリ言ってブチ切れます。

ヨハネ2:15「細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、」と書かれています。かなり怒っています。そして、ご自身の体を神殿に例え、「あなた達が建てたこの神殿を私は三日で甦らせる事ができる」と宣言します。数々の奇跡を見た多くの人々がイエス・キリストが真の救い主だという事を信じました。その後、ニコデモというパリサイ人のユダヤ人指導者、教師(ラビ)に天の御国について、聖霊について、ご自身の事についてガッツリと語られるのです。今風に言うと、ガチです。ガチ語りされます。

あの有名な御言葉「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」ヨハネ3:16 この言葉をニコデモに告げるのです。

この人、イエス様の所に「夜、イエスのもとに来て言った」と書かれています。何故でしょう。ニコデモはイエス様のことが気になってしょうがなかった。しかし、パリサイ人のラビという立場上、他のパリサイ人の目を気にして、こっそりと夜に人目を憚りながらイエス様を尋ねたのです。そして話を聞いて、わかったんだか、わからないんだか、、チンプンカンプンな質問をするのですが、その後パリサイ人の前でイエス様をかばう発言をしたり、十字架にかかられ、一度、肉体的に死んだイエス様の身体に塗る、貴重な香料の一種である、没薬を持ってきたと聖書に書かれています。

ヨハネ19:39 以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持って来た。

ここでも「夜イエスのところに来た」と書かれています。聖書において何回も同じ言葉が使われているのは、その言葉の持つ意味、使われている意図に重要性があるからなのです。この事からもニコデモはイエス様を受け入れていたのだと思います。

イエス・キリストと弟子達はユダヤの地で人々に伝道しながら、洗礼を授けていました。そんな中、先程お読みした、4:1~4の内容に繋がっていきます。

ユダヤを去ってガリラヤに向かわれた。何故ユダヤにとどまっていなかったのか。

イエス様の行動、行われた奇跡、語った言葉、弟子達の行動に対して、面白くないと思っていたパリサイ人との争いを避けるために、ユダヤを去って、ガリラヤに再び向かわれたのです。無駄な争いを避けたのです。逃げたわけではない。イエス様は怒るときは怒ります。(神殿の件)この人達には今、何を言っても分からないなと判断されたのです。しかし、ニコデモを含め、伝えるべき人達にはちゃんと奥義を伝えているのです。この事に注目すべきだと感じます。

4:4「しかし、サマリアを通っていかなければならなかった」と書かれています。ユダヤ人がユダヤからガリラヤに行く時、このサマリアを通って行く道が最短距離です。では何故、「サマリアを通っていかなければならなかった」と書いてあるのか。ユダヤ人はサマリアを避けて、東方面へ(エリコ辺りから、ヨルダン川を渡って、サマリヤを避ける)行くのが一般的だったのです。それは、ご存知の方も多くおられると思いますが、サマリア人というのはユダヤ人から嫌われていました。差別も受けていました。犬猿の仲だったのです。

ソロモン王統治後、イスラエルはBC931に北(イスラエル)と南(ユダ王国)に分裂します。BC722、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされる前、サマリアは北イスラエルの首都でした。しかし、アッシリア王シャルマヌエセル5世によって包囲され、彼が急死した後、その子供であるサルゴン2世によって没落させられました。その時、サルゴンはイスラエルの指導者達を自国のハラフ、ハボル、メディアの町々に移住させます。(Ⅱ列王記17:6)これがいわゆる「アッシリア捕囚」です。

そして、Ⅱ列王記17:24にはこう書かれています。アッシリアの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、セファルワイムから人々を連れてきて、イスラエル人の代わりにサマリアの町々に住まわせた。こうして、彼らはサマリアを占領して、その町々に住んだ。

その結果、様々な宗教が入り込んで来て、いままでイスラエルの人々が行なっていた礼拝と偶像礼拝との二重礼拝になってしまったのです。これは、一つの民族が力を持たないようにする、アッシリア王国の策略と言えます。

また、サマリアに残された庶民と移住してきた外国人との間で雑婚が起きて、混血民族となりました。ユダヤ人は血統や系図を大事にします。ユダヤ人からすれば、サマリア人は血の純粋さを失った民族、という見方になってしまっていたのです。だから、ユダヤ人はサマリヤ人を避けていた、サマリア地方を避けていたのです。

しかし!真のアウトサイダー、Mr FREEDOM, 聖なる栄光の反逆者イエス・キリストはわざわざサマリアを通っていかれたのです。それはサマリアの女に会うために。

サマリアのスカルという町に「ヤコブの井戸」という井戸があり(サマリア人の間の伝承では、ヤコブが掘った井戸とされている)、そこに、このサマリアの女は水を汲みに来ました。6節には「第六の時であった」と書かれています。これは、ユダヤの時間の数え方で、昼の12時をさしています。この時間は気温が上がり、大変暑くなるので人々は外出を避けていました。また仕事をしていたりしていて、井戸に水を汲みに来る人がいませんでした。この女性は、わざわざこの時間を狙って、人目を憚りながら水を汲みに来ていた事がわかります。すると井戸の傍らにイエス様が座っていて「私に水を飲ませてください」と言ったのです。これ、ナンパでしょうか、、絶対に違います!

当時、男性が女性に気安く話しかける事はタブーとされていました。今でもユダヤ教はその教えを、守る人は守っていると思います。まず、イエス様はその決まりをぶち破っておられるのです。こういう所から僕はイエス様を「聖なる栄光の反逆者」と呼んでいます。だから、サマリアの女性は「何故、ユダヤ人のあなたがサマリア人である私に声を、水を飲ませて欲しいと言うのですか」と言うわけです。もしかしたらナンパかなぁ、、と思ったかもしれません。この女性はユダヤ教の教えを守らないチャランポランな、ナンパばかりしている男性に、よく声をかけられていたかもしれません。あくまで想像ですが、、。

しかし、当然イエス様は違いました。4:14「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」こう言います。ここでも夜、人目を避けてイエス様を尋ねてきたニコデモに語った様に、女性に対して「奥義」を話されるのです。人目を避けて、昼に水を汲みに来た、サマリアの女に救いの真髄を話されたのです。

前回のメッセージでもお話ししましたが、神様の祝福は上から下へ流れていきます。ここでも、その事を強く感じます。

ユダヤで偉そうにしている多くのパリサイ人には奥義を伝えることをしないで、世間からは冷たい目で見られている人や、後ろめたい思いを持っている、しかし、イエス様を知りたいと思う人にはガッツリと奥義を、本当の事を語ってくださる方なのです。

奥義はミュステーリオン(ギリシャ語)「秘められた」「隠された」という意味があります。隠された事を探そうとする者には必ず、答えてくれるお方なのです。

その後、イエス様はこの女性の罪について語ります。この女性は何人もの男性と結婚し、現在も曖昧な関係を男性と持っていました。「夫を呼んできなさい」と言われたイエス様に女性は「私には夫はいません」と答えます。するとイエス様は「あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから、あなたは本当の事を言いました」(18節)先程言った、演歌「サマリアの女」のイメージに近くなってきました。

驚くべき事に、ズバリ言い当てられてしまったのです。女性は自分の事が全て知られている事がわかったのです。どんな気持ちだったのでしょうか。

そして女性は4:19(今日の聖書箇所の初めの御言葉です)「主よ。あなたは預言者だとお見受けします」と言います。この女性、ここまでの聖書に書いてある事を読むと、良いイメージがあまり湧かないのですが、霊的な洞察力、神様の言葉をキャッチするアンテナが高く立っていた人と言いましょうか、そんな女性だったのではないでしょうか。この人はちょっと普通の人とは違う、と察知したのだと思います。

そしてこう言います。20節「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

よくある聖書解釈ではズバリ自分の言って欲しくないことを言われたので、神学論的な方に話を持っていって、誤魔化そうとしている。みたいな捉え方をよく聞きます。勿論、充分にそれもあると思います。でも、この女性はこの時、胸が高鳴り初めていた、嬉しかったのではないかと思います。

サマリアはアッシリア捕囚によりユダヤの民から差別を受け、エルサレムの神殿再建の手伝いを断られてしまった事から、モーセがかつて「祝福の山」と呼んだゲリジム山という山に神殿を築き、エルサレム神殿に対抗して礼拝を捧げていました。この井戸のあるスカルはゲリジム山に近い場所にありました。ユダヤ人からは、「そんな礼拝は偽物だ」とか、「やはり本家はエルサレムだ」など、そういった扱いを受けていたのだと思います。

女性はこの事にずーっと違和感を感じていたのです。信仰深い女性だったのではないでしょうか。何かがおかしい、この事自体が間違っていると感じていたのだと思いますしかし、今この目の前にいる一人のユダヤ人の預言者は、それについての答えを知っていると瞬時にわかったのではないでしょうか。だから聞いたのだと思います。

勿論、イエス様ははっきりとお答えになります。それは女性が答えを求めたからです。求めれば、必ず答えてくださるのです。

ヨハネ4:21~24 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

ここでイエス様は大事なのは場所ではない、人種、民族ではない、本当に神様を礼拝するとはどういう事か、またイエス様ご自身について女性に語ったのです。

これを聞いた女性はどう思ったのでしょうか。25節「私はキリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その人が私たちに全てを知らせてくれます」こう言います。女性はこの時、この人がキリストだ!!と心のどこかで思っていたのではないでしょうか。何度も言う様に、この女性はそれが分かる人だと僕は思うのです。

するとイエス様は言います。26節「あなたと話しているこのわたしがそれです」

、、、、、。

この時の女性の気持ちを一言で表すなら、「嬉しかった」その一言です。

イエス様は女性のことを知っていた、知られたくないことかもしれません。でも、知っていたのです自分のことを知られる。怖いことでしょうか。いや、全てを知られている。これは嬉しいことです。良い所も悪い所も全て知られているのです。それでいて、イエス・キリストは私たちを”友達”と呼ばれるのです。

ヨハネ15:13 人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

イエス様は私たちを「友」と呼んだのです友達同士の関係とはなんでしょうか。お互いを知ることから始まると思います。しかし、友達は自分の全てを知っているのでしょうか。それはありません。いくら仲の良い友人でも。ましてや、自分の為に命を捨ててくれる友人なんて、、。

この後、このサマリアの女は今まで持っていた水がめを置いて、忘れて、街へ出て行き、29節「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と言ってまわります。

そして39節には”さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。”とあります。

この女性は人目を憚りながら生きていました。その女性の言うことを何故人々が信じたのでしょうか。それは、今までの雰囲気とガラッと変わっていたからだと思います。誰が見てもパーーン!!と変化している。明るいものを発している。

そして、なんといっても、女性から出ている「喜び」が人々をそうさせたのではないでしょうか。嬉しさが溢れていたのです。半端じゃなかった。喜びを人に伝える、というか「伝わる」。これが正しい伝道なのです。僕自身、メッセージを語る上で、そこに喜びがなければいけないと思うし、このことは、実際言葉では言い表せない位嬉しいです。

私たちも、このサマリアの女性と同様にイエス様に全てを知ってもらっているのです。恐れ多くも友達なのです。女性は最初の目的だった、水を汲むための水かめを置いて、人々に、イエス様に出会った喜びを伝えに行きます。生き方が変わったのです。私たちの水かめはなんなのでしょうか。喜びのあまり、忘れてしまったものはあるのでしょうか。

クリスマスが近づき、アドベントの週間に入っています。僕はこの時期になると思います。私たちキリスト者にとっては「毎日がクリスマス」であると!イエス様に出会った日が、その人にとってクリスマスなのだと思います。

今日、今、イエス様は私たちの為にお生まれになったのです。聖書には過去の事も未来の事も書いてあるけど、一貫して神様のみことばは「今」私たちに語りかけているのです。4:23にはまことの礼拝者たちが御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。「今がその時です。」とイエス様はおっしゃいました。明日の事は明日が心配するのです。

神様は聖書の御言葉を通して「今」私たちに生きた言葉を語っておられるのです。過去にとらわれたり、思い出に浸ったり、未来に不安を感じたり、また希望を持つ事も大事な事ですが、今!サマリアの女性の様に水かめを置いて、過去の事はおいて、主の道へ飛び出していきましょう。