2024/12/1(日) 『 十字架の愛 』マルコの福音書15章33~41節:村松 登志雄 牧師

いよいよ最後の時が近づきました。全地が暗くなりました。暗闇は何も見えません。天地創造の時、神は仰せられました。「光、あれ。(創1:3)」と。今、その神が暗闇に戻されました。その暗闇は、死であり、虚無であり、無意味であり、何よりもとらえどころのない恐怖です。イスラエルの星空は美しいと聞いています。しかし、星の見えない夜空はまた恐ろしいほどに暗闇であると聞いています。山登りの経験のある方、また田舎の空を見た方は経験があるかも知れません。光がない暗闇の恐ろしさを。土蔵の戸が閉められて、何も見えなくなった暗闇の世界を経験した方もおられるかと思います。(私の家<山梨>には土蔵がありました。)

暗闇は不安になります。そして人間は、暗闇では生きられません。何とか光が欲しいと願います。盲人の方を思う時、何と不安な世界におられるのかと思います。しかも今、神はご自分のひとり子イエスキリストに対し、暗闇を与えておられるのです。「光、あれ。」と言われた神が。この暗黒は、ただの暗闇ではありません。神のさばきとしての暗闇です。罪人に対する神の審判です。誰をさばいておられるのでしょう。主イエス・キリストをです。しかし、主イエスは何も罪を犯しておられないのです。それなのに何故!ですから主イエスは絶叫されたのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(34)」と。主イエス・キリストの、この時のお気持ちはどんなであったでしょう?

私にとって、忘れられないことがあります。それは、息子が2歳頃のことです。2Kの狭いアパートで、かくれんぼをしたのですが、狭いアパートなので、大人の隠れるところはなく、2歳の息子が隠れることができる場所を作り、私たち夫婦が鬼になり、息子がそこに隠れるのですが、息子はしっかり、その隠れ場所から、首を出して私たちをしっかりと見ているのです。いくら言っても、彼は隠れようとしないのです。仕方がなく、私たちは彼が見えないフリをしたのです。すると彼は泣き出してしまったのです。私たちの迫真の演技によって、彼は私たちが本当に見えないと思い込んでしまったのです。このことで、人間としての限界はありますが、人間として初めて分かったのです。主エイスの十字架の叫び、主イエスのお気持ちが!

私はそれまで、主イエスの十字架の叫びが疑問だったのです。主イエスは、弟子達に、ご自分の十字架の死を預言しておられます。(参照;マルコ8:31)しかも、ゲッセマネの園では、十字架の死から逃れたいと父なる神に訴え、しかし自分の望むことではなく、父の御心がなるように(マルコ14:36)、と祈られ、覚悟を決めて、十字架に望まれたはずです。それなのに何故、今さら、と。

私たち人間は、いつも神を意識しているわけではありません。キリスト者であっても。

しかし、三位一体の神である主イエスは、たとえ一瞬であっても、父なる神をその意識から忘れることなどあり得ず、父なる神から離れることなどあり得ないのです。しかも、一瞬たりとも父なる神と離れたことなどない主イエスが今、父なる神としてではなく、さばきの神として、無実の主イエスに罪を負わせ、死刑にされているのです。父なる神との断絶を経験しておられるのです。こんな理不尽なことがあるでしょうか?

しかしそれでも、この暗闇が終わろうとする時、叫ばれたそのことばは、神への訴えであると同時に、神への全き信頼をも表しているのです。「わが神、わが神、」と、最後まで、父なる神にすがりつくのをやめなかった、父なる神への信頼のことばでもあったのです。私たちは、この主イエスのことばに、底知れない悲痛さと同時に、最後まで、決して、自ら神に依り頼むことをやめない、神への信頼(希望)を見ることができます。

主イエスは、神の御子であられるのに、超自然的な御力をお用いになりませんでした。十字架から降りようとすれば降りることもおできになるお方です。しかし、もしそうであったのならば、私たちには救いはないのです。主イエス・キリストは、無実であるのに、鞭打たれ、嘲られ、唾をかけられ、衣服を剝がされ、辱めを受けられ、ついに十字架の死に至るのです。そのことは、父なる神から見捨てられるという、主イエスにとってあり得ない苦しみなのです。しかしその苦しみは、すべて私たち罪ある人間のためです。否、逆に、それほどまでに、私たち人間は罪深くどうしようもない存在なのです。

盲人(罪人)がどうして盲人(罪人)を導くことができるでしょうか?主イエスは言われました。「盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。(マタイ15:14)」と。しかし、目が見える人(神から離れていない人)なら、盲人(神から離れている人)の良き道案内人となれるのです。そしてさらに、滅びの穴というものがあったとして、誰かが犠牲となって、その穴に落ちてその穴を埋めなければ、誰もその先に渡ることができず、次から次へとその穴に落ちてしまうとしたら、目が見える人がその滅びの穴をふさぐ踏み石となって、盲人に大きな声で、「さあ、わたしを踏み石にしてして、向こうに渡りなさい。」と言って下さるなら、その盲人は目が見えなくとも、その声を頼りに、その人を踏み石として、安全な場所(神の国)に移ることができます。もし人間の世界が滅びに至る道であり、その永遠の滅びの道に待ち構えている滅びの穴があるとしたならば、誰かが犠牲となってその穴の踏み石とならなければ、助かる見込みはないのです。

現実に、この世界は、罪ある人間の世界、自己中心の世界であり、滅びに向かっています。罪ある人間の世界において、各国のエゴによる戦争、企業エゴによる公害等がありますが、それは国からではなく、企業からではなく、私たち一人一人が持っている罪の結集がそこにあるからです。もし人間に罪がないとするならば、この世界に法律など必要ないはずです。法律(律法)とは、人間に罪があることを前提としているから作られるのです。パウロはこう宣べています。「義人はいない。一人もいない。(ローマ3:10)」「人はだれでも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(ローマ3:20)」と。

この世の法律によって、秩序を保っている世界は、人間の罪の社会であることが明らかなのです。そして、この罪による結果は死!なのです。パウロはこう宣べています。「罪の報酬は死です。(ローマ6:23)」と。誰かが、その罪を食い止めて下さらなければ、私たち人間は永遠の滅びの死に向かって行くだけなのです。死には二つの死があります。第一の死は、アダムとエバが犯した罪によって、全人類におよんだ、神から離れていることによって滅びることになった肉体の死です。第二の死は、主イエス・キリストが十字架上で叫ばれるほどの恐ろしい死、完全に神から断絶され、滅びに至る永遠の死、霊的な死です。主イエスは、実に、私たちのために、私たちの身代わりとして、その恐ろしい死を負って下さったのです。

しかし、それで終わったのではありません。その死の三日後に、その大能の御力によって復活され、私たちに永遠のいのちを与えて下さり、天の御国への道となって下さったのです。主イエスは言われました。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これより大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)」と。しかし、主イエスは、その愛をもっておられ、私たちのために、十字架で死なれたのです。そして主イエスは、弟子達に言われました。「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。(ヨハネ15:15)」と。私たちも、今、聖書から、すなわち父なる神から、みことばをいただいています。聞いています。ですから、私たちは、友と呼ばれているのです。友と呼ばれるほど、私たちは愛されているのです。あなたが、それに気づいていようといまいと、あなたは愛されているのです。

主イエスが大声を上げ、息を引き取られたとき(37)、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました(38)。それは何を意味しているのでしょうか?それは聖と俗とを分離するしるしです。汚れたこの世と、聖なる神の臨在の場所との隔てのしるしです。祭司の他に、誰も入ることのできない至聖所を隔離していた幕が裂けたのです。何と、至聖所が、汚れたこの世に姿を現されたのです。それは、主イエス・キリスト(の罪の贖い)を通して、私たちが、直接、神とお会いすることができるようになったことを意味しています。十字架の愛は、神から離れていた私たちの罪のカーテンを引き裂いて下さったのです。ですから、祭司を通してではなく、私たちは共にいて下さる主イエスを通して、直接、神と対話することができるようになったのです。その対話とは、みことばと祈りによってです。

本来、神は、太陽を見つめたら、目がつぶれてしまう以上に、罪汚れた私たちが近づくことができるようなお方でありません。聖なる、聖なる、万軍の主(イザヤ6;3)です。預言者イザヤが、「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから(イザヤ6:5)」と恐れたお方です。

何と、その神に、私たちの友となって下さった主イエス・キリストによって、今、自由にお会いすることができるようになったのです。

この素晴らしい恵みを、私たちは何と言って感謝したら良いのでしょうか?