本日の箇所は前回からの続きになります。
バプテスマのヨハネの主イエスに対するつまずき<誤解>というのは、彼の期待や思い込みで自分の救い主像を描いてしまったことによって、実際の主イエスとの間に「ずれ」が生じてしまい、それがつまずきの原因になったのではないか、ということを見て来ました。
主イエスを救い主として紹介したバプテスマのヨハネが引用した御言葉は決して間違いではありませんでしたが、それは彼が期待していたこの世のさばきのみを中心にした引用であって、御言葉の全体ではありませんでした。
この事から、私達は、自分の状況、自分の思い、自分の価値観を中心にしないで、主イエスがどのようなお方であるかを、御言葉全体からしっかりと見つめるべきであることを前回学びました。
そして本日は、主イエスが「誰でもわたしにつまずかない者は幸いです。(23)」と言われたその相手とは、本当は誰のことだったのかを見て行きましょう。
さて主イエスは、バプテスマのヨハネからの質問を携えてやって来た弟子達が、主イエスからお答えをいただいて、ヨハネに報告するために帰って行った後、そこにいて一部始終を聞いていた群衆に、バプテスマのヨハネについて言われました。
「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。では、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。きらびやかな服を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。では、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者をです。(24~26)」と。
主イエスは「何を見に行ったのか」と群衆に問われましたが、それは群衆の多くが牢獄にいるバプテスマのヨハネに失望していたからかも知れません。
しかし、主イエスは彼らを叱責されました。「あなたがたはいったい何を見ているのか。」と。
「風に揺れる葦」というのは、風になびいて揺れる様子にたとえた、一貫しない生き方をしている人、優柔不断な人を表します。
しかし、バプテスマのヨハネは、時代の流れに流されたり、人の思惑にそって生きるのではなく、ただ神のみを指し示す人でした。
神を第一にして生きる人であったからこそ、王ヘロデ・アンテパスのご機嫌をとることなどせず、大胆に王の罪を指摘し、王に悔い改めを迫ったが故に、王の怒りを買って、ヘロデ宮殿の牢獄に閉じこめられたのです。
「柔らかな衣、きらびやかな服を着た人」というのは、富と権勢を誇り、贅を尽くした服を着た人のことであり、ここでは宮殿に住む王侯貴族を示しています。
しかし、バプテスマのヨハネは「らくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め(マタイ3:4)」て、荒野で、神を恐れ、神の御前に出て悔い改めよと、人々に叫んだ人です。
ですからこの言葉はおそらく、牢獄に閉じこめられていても、ただ神にあってのみに生きているバプテスマのヨハネと片や宮殿に住み権勢をほしいままにしている、しかしその実は不安の中に生きているヘロデ・アンテパスとを比較したアイロニー<皮肉>であったと思われます。
ヘロデが神ではなく人を恐れる人であったことは次の御言葉で分かります。マタイの福音書14章 5節に「ヘロデはヨハネを殺したいと思ったが、民衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからであった。」と記されています。
また、ヘロデの優柔不断さについてもマルコによる福音書6章19節から20節で「ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、できずにいた。それはヨハネが正しい聖なる人だと知っていたヘロデが、彼を恐れて保護し、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていたからである。」と記されていることから分かります。
主イエスは「あなたがたは、神の預言者を見たのではないのか。それなのに、状況が悪くなれば、ヨハネが神に遣わされた人であることが分からなくなったのか。あなたがたはいったい何を見ているのか」と叱責しておられるのです。
さらに主イエスは、バプテスマのヨハネは預言者よりもすぐれた人、すなわち最大の預言者であると言われました。
「この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える。』<参照;マラキ書3章 1節>と書かれているその人です。(27)」と。
そして主イエスは、群衆の前でヨハネを大賛辞しておられます。「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者は誰もいません。(28)」と。
彼は「女から生まれた者の中で」ということは「人間として、最高の人だ。」と言っておられるのです。
しかし主イエスは、彼が如何に偉大な人物であるかを大賛辞された直後に、今度は「神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」と言っておられるのです。ここで混乱します。主イエスお得意の言い方です。全く反対のことを仰いますから。
では「神の国で一番小さい者」とは、どのような人々なのでしょうか。
先ず、「神の国」について考えてみましょう。それは主イエス・キリストがこの世に来られ、与えられている、今、現在の「神の支配」のことです。
また主イエスが、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた後、荒野で40日間のサタンの誘惑を受けられ、御言葉によってサタンに勝利されました(マルコ1:9~13、マタイ4:1~10)が、その主イエスが、ガリラヤに行かれ、神の福音を宣べて『時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』(マルコ1:14~15)と言われたその神の国のことです。
また、主イエスは、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたパリサイ人達に対しても、こうお答えになりました。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20~21)と言っておられることからも分かるように、「神の国」とは、主イエスご自身のことであり、この主イエス・キリストを信じる者達が、「神の国の人々」であると言っておられます。
では次に「一番小さい者」についてですが、これは人間として最も偉大な人物であったバプテスマのヨハネとの比較を誇張した表現です。ただし、この比較は、人間的な優劣や、能力の比較ではありません。「使命」の違いです。
主なる神は、バプテスマのヨハネに、主イエス・キリストの「神の国」の宣教の道備えの使命を与えられましたが、それは「神の国」そのものではなく、「神の国」の予告の使命を与えられたのであり、彼はそれを伝えたのです。
また「神の国」は主イエスご自身でもありますから、彼は確かに、主イエス・キリストを紹介はしましたが、今回獄中の彼が「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。(20)」と主イエスに質問してしまったのは、彼の人間としての限界であり、彼に与えられた使命の限界故だったのです。
それでは、主イエスが言われる「天の御国で一番小さい者」とは、誰でしょう。それは主イエス・キリストご自身を経験している者のことです。
この主イエス・キリストご自身を経験している者とは、キリストの十字架を受け入れ、その信仰を受肉しているキリスト者のことです。この違いです。しかし、この違いは大きいのです。
バプテスマのヨハネの使信<メッセージ>は、「神のさばき」のみでしたが、主イエス・キリストのメッセージは「神の福音」でした。
すなわち、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」という福音です。
ですから、「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)」訳なのです。
そして「永遠のいのち」とは、「神の国」すなわち「神の支配」の中にのみ与えられるものであり、「永遠のいのち」そのものは、主イエス・キリストご自身のことです。
バプテスマのヨハネと「天の御国の一番小さい者」すなわち、私達キリスト者との決定的な違いは、彼は主イエス・キリストをよく知っていたが、私たちは主イエス・キリストご自身を経験しているということにあります。
旧約聖書と新約聖書の中で、最も偉大な最後の預言者であるバプテスマのヨハネよりも、何と、私達、深く神を経験し、名もない一キリスト者に過ぎない私達、その私達の使命は、この主イエス・キリストをただ紹介するのではなく、主イエス・キリストご自身を、自分の経験として伝えることなのです。
本来「生まれながら御怒りを受けるべき子ら(エペソ2:3)」であった私達の使命とは「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちをキリストと共に生かしてくださいました。、あなたがたが救われたのは、恵みによるのです。(エペソ2:4~5)」といわれるその恵みの福音を伝える使命なのです。
ですから、私たちはこの使命を与えられているが故に、バプテスマのヨハネよりも偉大だと言われているのです。いや、偉大なのです。
それから主イエスは、当時の広場で遊ぶ子供達の様子をたとえて、主イエスの時代の人々、特に群衆の中の中心的な人々、パリサイ人達、すなわち「主イエスにつまずく者(23)」の様子を示しておられます。
「広場に座り、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、泣かなかった。』(32)」と。「笛吹けど踊らず」という言葉は、この御言葉からきています。
広場に座っている子供達が、結婚式ごっこ<主イエスの福音>や、葬式ごっこ<バプテスマのヨハネの悔い改めの勧めと言われています>をして、他の子供達に呼びかけますが、他の子ども達はその仲間に加わらないのです。
続いて主イエスは、その具体的な事実を言われました。「バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。(33~34)」と。
これは、どういうことでしょうか。結局彼らは、自分の思いを中心にして、真剣に神の御前に立とうとしません。それどころか彼らが蔑視していた取税人達さえヨハネの悔い改めのバプテスマを受けました(29)。にもかかわらず、彼らはそれを拒否し(30)、悪霊に憑かれているとまで非難し、真剣に自分の罪を見つめようとしませんでした。
そして、主イエスの神の愛に基づいた行動を、愛のないパリサイ人達には理解できず、主イエスを非難しました。彼らが蔑視する取税人や罪人達と宴会を共にする主イエスの行動(ルカ 5:29~30)を。
最後に、主イエスは言われました。「だが、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。(35)」と。
この「知恵」とは、「神の知恵」のことです。それはバプテスマのヨハネが主イエス・キリストの道備えとして、人々に悔い改めを説くために遣わされたことであり、主イエス・キリストが罪人を救う為に(ルカ 5:32)、この世に来られたことです。
そして、救い主イエス・キリストが私達の罪の贖いのために、十字架で血を流され死なれたこと、その死から勝利して復活されたその事実を指しています。
パウロも「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(Ⅰコリント1:21)」と宣べており、その「宣教のことばの愚かさ」とは、「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われた私たちには神の力です。(Ⅰコリント1:18)」と宣べている通りです。
ですから、主イエスの十字架の贖いを知り受け取っている私たちキリスト者、主イエス・キリストを経験している「神の国で一番小さい私」が「神の知恵」、「神の御業」を証明する者として召されているのです。すごいことです。この使命に、私達は召され、生かされているのです。
私たちは「神の国で一番小さい者の一人」であるのです。そして、主イエスによって、御霊によって、与えられている使命は、キリストを経験した者としての証しです。
その証しとは、品行方正等の類ではなく、どうしようもない者<自分で自分をどうする事も出来ない者(ローマ 7:24)>が、にもかかわらず、主イエス・キリストが十字架の死によって、私の罪を贖って下さったほどに、私を愛して下さっているということの体験、その事実の確信、すなわちその「信仰」です。
さて、ここまでお聞きになった皆様は{そうか、よし!私もこの使命に生きよう!証しして行こう!」と思われたことでしょう。
しかし、ここで一つ、皆さんよりちょっと年老いた老人の私からアドバイスするとすれば、それは人生経験豊富な兄弟姉妹は、その経験が生かされ用いられることを望まれるでしょう。しかし、どんな時にも、その経験を一旦横に置き、「主イエスならどうなさるのか」を第一になさいます様に。
また人生経験豊富な兄弟に比べて、人生の様々をこれから体験する兄弟姉妹も、どんな時にも、人に聞くのではなく「イエス様ならどうなさるのか」を、主イエスに直接、みことばによって聞かれます様に。
くれぐれも、風に揺れる葦の如くに、その状況に左右されることがない様に、いつも御言葉に聞く者として成長なさいます様に願います。
そして、それぞれが、立派な果実を見せるのではなく、悔い改めの実を結ぶ様子を見せることが出来ます様に。
悔い改めの実の意味は、失敗しながらも、いつも神に向き直る姿のことです。その果実は見ばえが良くなくても中身が美味しいのです。
さあ、共に、「笛の音を聞いた時、踊る者」すなわち「御言葉に従う者」として歩みましょう。そして、「神の知恵の正しいことを証明する子ども」として、主イエスの恵みを証しする者とならせていただきましょう。
