2026/3/1(日) 『主イエスにつまずかない者は幸いです』ルカの福音書7章18〜23節:村松 登志雄 牧師

本日の箇所は、主イエスのある特徴をよく表している箇所です。質問されたことに対して直接答えられないで、相手に考えさせようとする主イエスの姿勢です。

さて、獄中(ルカ 3:20)のバプテスマのヨハネは、彼の弟子達を主イエスの許に送り、尋ねました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私達は他の方を待つべきでしょうか。(19)」と。
主イエスは「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。(23)」と言われています。質問の直接的答えにはなってはいませんね。それどころか、「つまずかない者は幸い」という新たな課題を出されています。
では、この「つまずく」という言葉に注目して行きましょう。
バプテスマのヨハネは主イエスにつまずいたのでしょうか。つまずいたから、そう質問されたのでしょうか。そうとは考えにくいのです。

何故なら、彼は、その誕生において、祭司である彼の父親ザカリヤは聖霊に満たされ、わが子バプテスマのヨハネについて預言しています。
「幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者として呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。(ルカ1:76~77)」と。
その預言の後、「幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた。(ルカ1:80)」のです。

そして、主イエスの公生涯の初めに、彼は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』(ルカ 3:4)」と言われたその人として、多くのイスラエルの民に「水のバプテスマ(ルカ 3:16)」すなわち、主イエスの十字架の贖いによる救いを得るための心備えとしての悔い改めのバプテスマを授けます。
そして、主イエスが彼の所に来られたときには、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊(ヨハネ1:29)」と、人々に主イエスを紹介し、ヨハネからバプテスマを受けようとされた主イエスの御前で「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。(マタイ3:14)」と恐れ、遜っています。

さらに彼は、主イエスについてこう証言しています。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊がある方の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。(ヨハネ1:32~34)」と言っているのです。

しかしそれでも、主イエスは「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と明らかにバプテスマのヨハネをも含めて言っています。
しかし、次回に学びますが、主イエスが「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と言われたのは、バプテスマのヨハネを含みますが、真につまづいたのは、群衆であり、特に、パリサイ人、律法学者達(30)でした。そしてバプテスマのヨハネと彼らのつまずきとは、比較にはなりませんでした。

ですから、バプテスマのヨハネのつまずき<その質問(誤解)>とは、主イエスが救い主であることを否定したのではなく、彼の救い主のイメージと実際の主イエスご自身とがあまりにも違った為その「ずれ」によって生じた疑問を解決したかったのではないでしょうか。

つまり、彼は、主イエスを「その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。また手に箕を持って、脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。(ルカ 3:16~17)」と紹介しています。

この救い主イエスの紹介は、「さばき主」としてのイメージが強いことは明らかです。
ですから、彼のこの世の罪を滅ぼすという期待に反した、主イエスの行動に彼は焦燥を覚えていたのではないかという解釈が成り立ちます。
バプテスマのヨハネの主イエスへの質問に関して、聖書学者達の多くの解釈があるのですが、私はこの解釈が一番自然ではないか、と思います。

しかし、私の関心事は、その解釈そのものよりも、罪ある人間の思い<信仰?>の限界による、神<の御心>との「ずれ」についてです。
また、人間の目から見てどんなに霊的<信仰的>に思える人であっても、所詮人間を神聖化はできない、バプテスマのヨハネがどんなに霊的な人であっても、彼は罪ある人間であることの限界を超えることはできないということを考えさせられます。

では、バプテスマのヨハネは預言者として失格だったのでしょうか。
それは否です。主イエスは、彼を責めるどころか、彼を人々の前で称賛しておられます。
バプテスマのヨハネの弟子達が帰った後、主イエスは群衆に、バプテスマのヨハネについてこう言っておられます。「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。(ルカ7:28)」と。
ですから短絡的に、罪ある人間には限界があり、バプテスマのヨハネでさえ、主イエスにつまずいたのだから、私たち罪ある人間は、安心して、つまずいてもよい、と、安易な、と言いますか、自分を弁護する為の答えを引き出そうとしてはなりません。誰でも罪ある人間の限界性を承知しています。
だからそうではなく、バプテスマのヨハネでさえつまずく事があるなら、私達は尚の事、もっとつまずきやすい者である、と知る者でありたいと思います。

しかし、主イエスは「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」と宣べておられます。ですから、バプテスマのヨハネのつまずきとは何かを考えるべきでしょう。
その為に、彼にそう言わしめた状況をもう一度、考えてみたいと思います。
彼は獄中から、主イエスに質問をしています。何故、彼が牢獄に入れられたのかを、福音記者ルカは「しかし領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤのことと、自分の行った悪事のすべてをヨハネに非難されたので、すべての悪事にもう一つ悪事を加え、ヨハネを牢に閉じ込めた。(ルカ 3:19~20)」と記しています。
彼は、ガリラヤ及びベレヤの国主ヘロデ・ア ンテパス(ヘロデ大王の息子)が、自分の異母兄弟ヘロデ・ピリポの妻ヘロデヤと通じ、結婚したことについて非難した為、ヘロデによって投獄されていたのです。

しかし彼が、弟子達に自分の質問を託したことは、獄中にあっても彼が彼の弟子達と少しは自由に面会できたことが分かります。
彼の最大の関心事は、自分がどうなるかなどということではなく、救い主イエスの活動です。牢獄の中にいながらも、彼の弟子達によって、主イエスの様子を聞いていたのだと思います。
その主イエスの様子は、彼の救い主のイメージとは違い、ユダヤ人が忌み嫌う取税人レビ<マタイ>を弟子とし、そのマタイの仲間である罪人達と飲み食いをしたり(ルカ5:27~30)、ヨハネの弟子達はよく断食をするのに、主イエスの弟子達は断食せずに飲み食いしている(ルカ 5:33)という事を聞く度に、彼の確信が揺らいで行ったとしても不思議ではありません。
牢獄という閉ざされた世界の中で、限られた状報の中で、自分のイメージとどんどん離れて行く主イエスの様子を聞いている彼の現状は、死を待つ状況にあったのです。

堂々と国主ヘロデの間違いを宣べたほどの預言者ヨハネが死を恐れていたとは考えられませんが、彼の置かれている状況は最悪の中にあり、自分の状況にも進展<解放>がないことに失望を感じていたとしても、また、彼の唯一の救いである主イエスが自分のイメージからかけ離れてゆくのに焦燥を覚えるのは、彼が罪ある人間である限り、当然ではなかったかと思われます。

しかし、そのような状況の中で、彼はそれでも、主イエスに対する尊敬を失ったのではなく、確信の揺らぎを隠すことなく、正直に、主イエスご自身に問うたのです。

主イエスは、彼の誤解に対して、決して責めておられず、預言者イザヤによって預言されていた神の国の到来の様子と、主イエスご自身のお姿の一致を示されたのです。(イザヤ35: 5~ 6、61: 1~ 2 の自由引用)
すなわち、預言の成就としての御言葉と、御自身の行いの一致を見よ、と言われたのです。

主イエスは公生涯の初めから、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)」と宣べられ、ご自分の故郷ナザレの会堂で、預言者イザヤの書を渡されたとき、それ(イザヤ61: 1~ 2)を朗読され、ご自分の使命を示されました(ルカ4:16~17)。
「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。(ルカ4:18~19)」と。
そして、主イエスはこう宣べておられます。「今日、この聖書のことばが実現しました。(ルカ4:21)」と。
主イエスは、バプテスマのヨハネの確信<平安>のために、もう一度、預言の成就である御言葉と、ご自分がなしておられる姿との一致を教えられたのです。

主イエスは彼の弟子達に命じられました。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツアラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。(22~23)」と。
「安心しなさい」との主イエスのヨハネに対する愛情を感じます。
おそらく、バプテスマのヨハネは、このお答えを聞いて、もう一度、主イエスこそ、待ち望んでいた救い主であられると、その確信を深めたのではないかと思います。

バプテスマのヨハネの主イエスに対する誤解というのは、彼の期待や思い込みで、自分の救い主像を描いてしまったことにあったと思います。
彼の主イエスを救い主として紹介した御言葉の引用も間違いではありませんが、彼の期待するこの世のさばきを中心にした引用であり(イザヤ61:2の後半「神の復讐の日を告げ」)、それは御言葉の全体ではありませんでした。

そして、私達とこの時のバプテスマのヨハネとの決定的な違いがあります。
その違いとは、彼は、主イエスが救い主であるとは、十字架の死の罪の贖いによる救いであることを知らなかったが故に、救い主である主イエスを誤解したのです。
しかし、私達は、私達の罪の贖いのために血を流された救い主である主イエスを知っており、信じています。
私達は、「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)」という恵みの福音を信じている者です。
私達は今、当時のバプテスマのヨハネよりも、それを良く知っている者であるはずです。
であるならば、私達は、自分の状況、自分の思い、自分の価値観に囚らわれて、主イエスにつまずいてはなりません。

そして、主イエスは「みことばなる神(ヨハネ1:1)」です。
主イエスは、バプテスマのヨハネの質問に対し、御言葉をもってお答えになられたことを見逃してはなりません。

それならば尚の事、私達はいつも、自分の思惑ではなく、御言葉に聞き、御言葉に従う者でありたいと願います。
しかし、十字架の主イエスを見上げているのなら、恵みの福音をしっかりと握っているのなら、主イエスの福音を誤解することは決してありません。
私達は、主イエスにつまずかない者、幸いな者として召されているからです。

ですから今日、私たちはこんなにも全てを備えられ、与えられている者として、安心して大胆に、この福音に生き、この福音を伝える者になりましょう!!