今日、この箇所を選び、お話しするのは勿論導かれての事ですが、語る私自身も、肉の身に於いては非常に緊張を伴うものです。しかし、聖書が語る主のみことばは、私たちへの愛なのです。ですので、期待して共に見て行きましょう。
まず、37節「さばいてはいけません。」の「さばく(<ギ>クリノー)」という言葉は、良い意味では「選び出す」「判断する」「評価する」という意味ですが、悪い意味では「有罪判決を下す」「批判する」「非難する」「中傷する」という意味です。
詳訳聖書では「さばく」の訳の他に「非難をあびせる」という訳も記していて、リビングバイブルでは「あら捜し」と訳し、次の「不義(罪)に定める(<ギ>カタディカゾー)」を、「悪口を言う」と訳しています。
ですから、主イエスが「さばいてはいけません」と命じておられるのは、この場合、悪い意味での「さばく」であり、しかも、41節から42節では、「兄弟」という言葉が出てきますので、他でもない、キリスト者同士のことです。神の家族、「天に国籍を持つ者同士」の「さばき合い」のことを言っているのです。
ですから、この命令は、主イエスが「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」と命じられたことを、逆から命じておられるのであり、「愛する」という言葉の抽象性を、具体的な行為として示しているのです。要するに「裁かない」とは「愛する」ということなのです。
また、主イエスは「さばいてはいけません」と命じられ、その命令を守るならば「あなたがたもさばかれません(37)」と仰っておられますが、一体誰がさばくのでしょう。私達をさばくお方は「私達を造られた天の父」です。
私達キリスト者は、天地創造の神を信じている者です。
しかし私達の現実はどうでしょうか。私達はその問に対して、神<の戒め>を無視している者である事を認めなければならないのではないでしょうか。少なくとも私はそうです。
しかし、私達の神は、全てをご存じの神であり、いつも私たちの心も行為をも見ておられます。詩篇作者は「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。(詩139:1~2)」と、神の視線から逃れることが不可能であることを告白しています。
ならば、どうして私達は他の人を「さばく」事が出来るのでしょうか。
もし私達が、私達の信じている神を、全てをご存じのお方であると、本当に信じているなら、どうして他の人を「さばく」事が出来るのでしょうか。
それは、私達が他の人を「さばく」時、私達は、神がどの様なお方かを忘れているのであり、私達はいつも神の御前に置かれている事を意識していないからではないでしょうか。
私たちは、その時は必ず、神がおられないかの様に生きています。信じているはずなのに信じていない者の様に生きているのです。
また、私達が他の人を「さばく<批判する>」時というのは、自分が強者の立場にあるか、また、さばいて<批判して>も、自分の身に危険が及ばないときです。
その証拠は、あなたが、その為に殺される危険があっても、その人を批判することができるかどうかを、自分に正直に問いかけるなら明らかになるでしょう。そこまで問わずとも、私達が他の人を批判する時の多くは、陰口のほうが多くなるものです。
しかしまた、他の人の間違いを正す為に、正しいと思う事を言ってはいけないのかという疑問もあると思います。
もちろん「さばいてはいけません」という主イエスの命令は、間違っている人を正す為に、正しいことを言ってはいけないということではありません。
その例として、ここでは、「罪人の頭(Ⅰテモテ 1:15)」と自称しているパウロが、コリントの教会を叱責したではないか、という疑問を考えてみたいと思います。
しかしパウロが、コリントの教会の人々のことを、共に主イエスの十字架によって救われた兄弟として、どれほど愛していたか、又、彼が叱責している内容のほとんどが、神を知らない人でも、正しく見識のある人なら、叱責するに値する内容であった事を知るならば、そして何よりも、彼が自分を「罪人の頭」と自称するほど、本当に心の底から、神の恵み無しには生きる価値がないと、神の御前に徹底的に遜っている姿を知れば、御霊が彼を導いておられた事が分かり、よって、その疑問がどれほど愚かであるかが分かるのではないでしょうか。
しかし、悲しいかな私達が他の人をさばく時の多くは、自分が正しいと思っている時です。
ですからパウロは、私達キリスト者にこう勧告しています。
「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら自分自身を欺いているのです。それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。(ガラテヤ6:1、3~4)」と言っています。
また、パウロはこうも勧告しています。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。・・・他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。・・・・・・それなのに、どうしてあなたは自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。こういうわけで、私たちはもう互いにさばきあわないようにしましょう。(ローマ14:1、・・・・4、・・・・・・10~13)」と。
そして、41節から42節で、主イエスは、他の人をさばく者の愚かな姿を、あまりにも極端で乱暴な譬えで示しておられます。
「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の目にある梁には、気がつかないのですか。あなた自身、自分の目にある梁が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって取り除くことができます。」と。(新共同訳では「塵」を「おが屑」、「梁」を「丸太」と訳している。)これほど私たちの罪性を明確に表している譬えもないでしょう。
これは「自分を棚に上げる罪」です。自分を正しい者とする罪です。主イエスの招かざる客(ルカ 5:32)です。
この譬えを説明しなければ分からない人はいないと思います。まことに私たちの罪性は、自分に対する罪への感性は鈍感ですが、他の人の罪に対する感性は敏感です。ここに私たちの罪性が自己中心であることがわかります。
私達は他の人の欠点はすぐに見つけますが、自分の欠点を素直に見ようとしないのです。私達は、自分には甘く、他の人には厳しいのです。
さて、主イエスは「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきりと見えるようになって、取り除くことができます。」と言っておられます。
しかし、この御言葉の「梁を取り除く」という事を、自分の努力で行おうとするなら、主イエスの譬えの皮肉が分かっていないことになるのです。
何故かというと、自分の目に「梁<丸太>」がある事が分からないという事が不自然なことであり、その不自然さとは、私達のあきれるほどに、鈍い自分の罪性に対する認識のことなのです。要するに自分の力ではどうすることもできない罪性(ローマ7:24)を言っているのです。
そして、この「梁<丸太>=罪」を取り除ける事ができるのは、主イエスご自身だけです。
「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。(ローマ3:24)」これが答えです。ただ、主イエス・キリストの十字架で流された血潮による罪の贖いによってしか「梁<丸太>=罪」は取りのけられないのです。
福音記者ヨハネは、神(主イエス)の愛の約束を宣べています。
「神が御子を遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)」「御子を信じる者はさばかれない(ヨハネ3:18)」と。
主イエス御自身が人をおさばきにならないのに、どうして私達が人をさばくことができるのでしょうか。
私達たちが真に神の御前に歩むなら、神の御前にある自分が何者であるかを知る者であるはずです。
ただ赦されて生かされている者、憐れみ豊かな神の、私達を愛して下さったその大きな愛の故に、ただ恵みによって生きる者(参照エペソ 2: 4~ 5)であることを知るはずです。
その時、同じように、神に愛されている人を、その人に対する主イエスの眼差しを霊の目で見ることができるなら、どうしてその人を平気でさばくことができるのでしょう。
「さばく」ときは、必ず、正しくもない自分を忘れ「正しい者」としている時です。自分を神の座にあると錯覚しているときです。
これでもかと、主イエスの兄弟ヤコブは宣べています。
「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟について悪口を言ったり、さばいたりする者は律法について悪口を言い、律法をさばいているのです。、、、隣人をさばくあなたはいったい何者ですか。(ヤコブ4:10~12)」と。
繰り返し言いますが、しかし、私達の現実は、気がつくと自分を棚に上げて他の人を批判してしまいます。
やっと解決策です。では、どうすれば、その罪の誘惑に打ち勝つ事が出来るのでしょう。
その答えは、主に在って私達が、どれだけ自分を知っているか、です。自分の、本当の貧しさを知る事です。自分が、ただ神の恵みによってのみ、生かされている事を決して忘れない事です。「ただ神の恵み」を知る、という事は、自分が「自分では自分をどうする事も出来ない者(参照ローマ 7:24)」であると、徹底的に認める事です。
その徹底した罪認識が、「神のみこころに添った悲しみ(Ⅱコリント 7:10)」となり、救いに至る悔い改め(Ⅱコリント 7:10、Ⅰヨハネ 1: 9)を生じさせるからです。
その悔い改めから、導かれる祈りは、私達を「絶えず祈る(Ⅰテサロニケ5:17)」者に変えるのです。何故なら、「これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること(Ⅰテサロニケ5:17)」であり、御霊が私達を助けて下さる(ローマ 8:26)からです。
「絶えず祈る」のは、絶えず、自分の力ではどうする事も出来ない事を認めているからであり、絶えず御霊の助けを願うからです。それによって、絶えず神の御前を歩むことができるのです。
私達は、決して、この世の神を知らない人々と、同じであってはならないのです。私達は決して、自分<の思い、判断、不満>によって、人を「さばいてはいけない」のです。
主イエスが、姦淫の女性を主イエスの御前に引きずり出して、断罪しようとしたユダヤ人達に、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と命じられると、彼らは一人残らず、その場を去って行きました。何故なら、彼らは自分にも罪がある事に気づいたからです。(ヨハネ 8: 1~11)
しかし私達は、彼ら以上に自分の罪意識を持つ者でなければなりません。主イエスの御前から逃げ出さずに、主イエスの御側で震えている姦淫の女性と共に、主イエスの御前にひれ伏す者でなければなりません。
私達は、人が人を「さばく」事に恐れを感じる者でありたいと思います。そして、私達がやがて凱旋し、永住する天の御国では「さばき合い」など、決して無いのです。
私達が他の人を批判している時、私達もまた、同じ穴の狢になるのです。
また、求道者の人がその様なキリスト者の言葉を聞いたとき、世の人々と少しも変わらない事にがっかりしないでしょうか。どうしてその人に、キリストの愛を伝える事が出来るのでしょうか。
だからこそ、私達は「絶えず祈る」のです。
絶えず祈り、神の御前に生きるのです。
神の御前に生きる時のみ、互いに「ただ神の恵み」によって、赦された者同士である事の認識を新たにして、自分を棚に上げ人をさばく罪に誘うサタンの誘惑に打ち勝つ事が出来るのです。
この時、心に銘記しなければならない事は、この事は、血肉の戦い<人間関係>ではなく、霊的な戦い(参照エペソ 6:12)であるということです。
主イエスの命令「さばいてはならない」とは「互いに愛し合いなさい」という意味であり、主イエスはこの命令によって、互いの弱さを認め合い、助け合う事、すなわち、愛し合うことの素晴らしさを、私達に経験させようとしておられるのです。
主イエスは私達、キリストの共同体、すなわち教会を通して、「御心が天で行われるように地ででも行われるように」の祈りを成就されようとしているのです。
私達は、主イエス・キリストの十字架の血潮によって罪を赦された者であり、決してさばかれることのない者として生かされている(参照ローマ8:33~39)のです。
共に絶えず祈る者となり、神の御前で生きる者として、この地上に「神の国」を見せる者とならせていただきましょう。
さあ、 聖霊の助けをいただいて、共に祈りましょう(エペソ 6:18)。
