先週は取税人レビ(マタイ)が主イエスに出会って、「わたしについて来なさい」と言われ、喜んで従い、それまでの生き方を改め、友人たちと共に主イエスを食事に招いて、楽しい宴を開催したのでしたよね。
そして、本日の箇所でもその宴に水を差すパリサイ人達の質問の続きの場面です。見て行きましょう。
このパリサイ人や律法学者達の質問、33節「ヨハネの弟子たちは、よく断食をし、祈りをしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じです。ところが、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」と言っている事に対する主イエスのお答えを通して、私たちの人生、信仰生活の基本を確かめたいと思います。
パリサイ人や律法学者達の質問を分かり易く言うなら、主イエスとその弟子達は宗教的ではない、敬虔には見えない、と言っているのです。
また先週の箇所で彼らは、主イエスが取税人や罪人達と一緒に宴会を楽しんでいるのを見て、それに眉をひそめてとがめました。それに対してもイエス様は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ 5:32)」と答えられたのですが、パリサイ人にはその主イエスの御言葉の意味がわからなかったのです。
では、ここで質問されている「断食」とは何かということを確認しましょう。
主イエスご自身も、四十日四十夜断食をされています(マタイ4:2)。
その断食の目的は、御霊に導かれた、祈りによる父なる神との交わりであって、悪魔との戦いへの備えのためでした。
また、旧約聖書の中に記されている「断食」とは、自分の罪を悲しみ悔いて「身を悩ます」ことでした。
旧約聖書には多くの人々が断食してしている様子が記されています。モーセはイスラエルの民が犯した罪のために、四十日四十夜断食しました(申9:18)。他にも、ダビデの悔い改めの祈り「Ⅱサムエル12:16~17(ダビデはウリヤの妻バテシェバとの不倫の罪と殺人の罪を悔い改めた。)」などがあります。
しかし、本日の聖書箇所のユダヤ人(パリサイ人)達の「断食」というのは、それとは異なりました。それは他の人々に自分の宗教的熱心さを表す行為に堕落していたのです。
「断食」とはあくまでも自発的行為であって、神に近づく者の熱心な祈りと悔い改めを表現したものです(ヨエル1:14)。
そして、この断食の行為に限らず、あらゆる信仰的表現というものは、それが形式化し、また、自分の信仰熱心さを表そうとする時、非常に危険なものになります。
それが証拠に、その断食行為の危険性は、すでに旧約聖書時代に預言者イザヤを通して警告されています。
イザヤ書58章 5節から 7節(p1266)に「わたしの好む断食、人が自らを戒める日とは、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることなのか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの好む断食はこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか」とあります。このようにすでに旧約時代にも、こうした堕落が見られたのです。
そして新約聖書時代には、パリサイ人達が、真実な悔い改めの故に、神の御前にひれ伏したのではなく、先ほども言いましたように、自分の宗教的行為を誇るために断食していたようです。
その例として、ルカ18章11節から12節にある、主イエスのたとえ話に登場するパリサイ人は、祈るために宮に上ったとき、隣にいる取税人を見下して、心の中でこんな祈りをしています。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」とあります。
ですが、主イエスは、このパリサイ人ではなく、自分の罪深さに嘆き、神の憐れみを乞い願う取税人を高められました。
しかし、パリサイ人や律法学者達には、自分たちの真面目さに比べ、不真面目きわまりないと見える主イエスとその弟子達の行為をどうしても受け入れることができなかったのです。
彼らにとって、バプテスマのヨハネの弟子達やパリサイ人達、信仰熱心なユダヤ人達が皆、断食しているというユダヤ人社会の中で、断食をしない、という主イエスとその弟子達の有り様は、驚きでしかなかったのです。
しかし、主イエスはその様な宗教的なものを越えた、真の信仰生活とは何か、信仰生活の基本とは何かを示しているのです。
そこで、主イエスは彼らの質問に対して答えられました。その主のお答えを聞きましょう。
主イエスは言われました。34節「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友達に断食させることがあなたがたにできますか。しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には断食します。」と。
この「花婿」というのは、主イエス・キリストのことです。主イエスこそ、イスラエルの民が待ち望んでいた花婿、救い主です。彼らが待ち望んでいた花婿が来ているのに、どうして嘆き悲しむ行為である断食の必要があるのでしょうと言っているのです。
そして「花婿に付き添う友達」というのは、一般の招待客ではなく、花婿と一緒に祝い酒を酌み交わす親しい友人達のことです。ここでは、パリサイ人達が非難した、主イエスと共に食卓を囲んでいた主イエスの弟子達と救われたばかりの取税人マタイとその仲間の罪人達を指します。
主イエスは、彼らとの食卓を、婚礼の宴会として描いているのです。天の御国の宴会とされているのです。つまり、喜びの宴会の席でどうして悲しむ必要があるのかと言っているのです。
主イエスの弟子達、すなわち私達キリスト者は、待ちに待った花婿、私達の弱さや必要の全てをご存じのお方、救い主が、今私達と共にいて下さるのですから、今さら自分を取り繕う必要はないのです。また、花婿である主イエス・キリストは、花嫁である私達のそのありのままの姿を受け入れて下さるのですから、「こんな私でも、愛して下さるなんて信じられない、嬉しい!」と素直に喜んでいいのです。
また、「しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には断食します。」というのは、主イエス・キリストの十字架の死の預言です。その時、弟子達は悲しみのどん底に突き落とされます。
しかし、私たちの罪の贖いの為に、十字架の死から三日目に、その罪の死から勝利した復活の主イエス・キリストがまた、この宴会の花婿となるのです。ですから、やはり、形式的な規則としての断食の必要はないのです。
それから主イエスは一つのたとえを二つに分けて話されました。まず36節「だれも、新しい衣から布切れを引き裂いて、古い衣に継ぎを当てたりしません。そんなことをすれば、その新しい衣を裂くことになり、新しい衣から取った布切れは古い衣には合いません」と。
この「新しい着物の布切れ」というのは、縮んでいない布切れのことです。その布きれで古い着物を継ぐと、洗濯したとき、新しい布切れは古い着物より大きく縮むので、古い着物を引っ張って、最初にあった裂け目をもっと大きくしてしまうのです。
この「新しい着物<布切れ>」というのは、主イエス・キリストの神の国の福音、すなわち、ただ恵みによる救い(エペソ2:5)のことであり、恵みの信仰のことです。
「神の恵みにより、キリストイエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。(ローマ3:24)」とある通りです。
一方「古い着物」というのは、モーセの律法にさらに多くの命令を付け加えた「口伝律法」と呼ばれている言い伝えや古い宗教的伝統、習慣のことです。週二回の断食等を守ることによって、神の国に行こうとする人間的な努力による生き方、行いによる信仰を表しています。
次に主イエスは言われました。37節「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません」と。
このたとえの「新しい皮袋」というものは、柔軟性があり、伸縮性があります。ですから、発酵を続けている新しいぶどう酒を、新しい皮袋にでなく、固くなった古い皮袋に入れると、発酵による圧力によって、古い皮袋は張り裂けてしまいます。
この「新しい皮袋」が示すものとは、神の賜物として、聖霊によって与えられる信仰のことです。「古い皮袋」とは、初めのたとえと同じ、人間的な努力による<律法を行う>行いの信仰のことです。
主イエスの十字架と復活によって与えられる神の国に生きることとは、パリサイ人達が一生懸命人間の努力によって、神の国に入るためにふさわしくなろうとした生き方、しかも、永久に入ることができない敗北を重ねる生き方ではなく、自分ではどうすることもできない罪性を認め(ローマ7:14~25)、ただ神の恵みにすがり、神の愛によって圧倒的な勝利者(ローマ8:37)となって、神の国の住人となる生き方です。
しかも、神の国の福音、すなわち、主イエス・キリストの十字架と復活は、発酵し続けるぶどう酒のように、いのちを持っており、そのエネルギーは、古い皮袋、律法による行いの信仰を引き裂いてしまう程なのです。
このように、これらのたとえの中心は、主イエス・キリストご自身が、私たちの恵みであり、喜びであるということです。
では、この恵みの信仰をいただいている私たちは、具体的にどのように生きるべきでしょうか。みことばから聞いて行きたいと思います。
ピリピ人への手紙4章4節に「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」とあります。これが、恵みの信仰をいただいた者の生き方です。
恵みの信仰によって、喜びと感謝の中で生きることを神は私たちに望んでおられるのです。そのためにこそ、神はご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されたのです。
そして、「恵み」によって生きるとは、ただ何かして下さるのを待つという消極的な生き方ではありません。それは、すでに与えられている「恵み」にすがってより積極的に「喜び」を持って生きることです。
しかし、私たちの人生には、いつも喜びだけがあるという訳ではありませんね。
では「いつも主にあって喜んでいなさい」とは、どういうことでしょか。
それは、その状況を喜ぶのではなく、どんな悪い状況の中にあっても、そこに主イエス・キリストが共にいて下さることを忘れないことです。
そして、その「喜び」とは、「主にあって」と命じられているように、人間の罪性、自己中心性による、感情的な喜び、のことではなく、「聖霊による喜び(ローマ14:17b)」のことです。
私達キリスト者の喜びとは、「御霊の実である“喜び”(ガラテヤ 5:22)」である筈です。
何故なら、私達キリスト者は、新しいぶどう酒、発酵し続けるいのちの源である主イエス・キリストが、新しい皮袋である私たちの中に住んでいて下さるのですから。
そして私たちは、花婿なる主イエスの友人として、喜びの宴で大いに楽しむ者とされています。
それは、主イエスが「喜び」を贈り物として携えて、私達のところに来て下さったからです。
しかも主イエスは、あなたの為にこんなに苦しい思いをしたなどと恩着せがましいことなど、一つも仰らずにです。
それならば、私達は何をしたら良いでしょうか。
繰り返し言いますが、神が私達キリスト者に望んでおられることは、「主にあって喜ぶ」ことです。それが、伝道であり、キリストを証しすることです。教会もそのようにありたいですね。
がんじがらめに縛りつけられて苦しむ、「ねばならない」という生き方をしている人に、いったい誰が魅力を感じるのでしょうか。
それよりも人間の目から見るならば、苦しみであり、悲しみである現実の中で、それでも「主にあって喜ぶ」人の姿に、人は魅力を感じるのではないでしょうか。
どうですか?皆さんにお聞きします。喜んでいますか?
だって、新しいぶどう酒という主イエス・キリストを頂いたのですよ。
きっと、お一人お一人に聞けば、「私は今こうして喜んでいる」「いやいや、私こそ嬉しいんです」と、みんなここに出て来て語りたくなるでしょう。それで良いんです。
失敗して落ち込んだら、「ごめんなさい」と、悔い改めれば良いんです。そしてすぐ喜びの中に戻ってください。
先週お話した家内もそうでした。その繰り返しで良いんです。
私たちの人生は、主イエス・キリストにある「喜びの人生」です。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ4:4)」ア-メン。
