2025/8/3(日) 『キリストの心』ルカの福音書 5章12〜16節:村松 登志雄 牧師

今朝はまたルカの福音書に戻ります。本日の箇所は短い所ですが、イエス様の癒しについて見て行きましょう。最初にアウトラインを示しておきますと
①ツァラアトに罹った人の懇願(12節)
②イエスの応答(13節)
③癒しの結果(14~16節)となります。

お話に入る前に12節に出て来る「ツァラアト」という言葉について、少し説明しておきましょう。
「ツァラアト」というのは、以前は「らい病」と訳されていたもので、新共同訳では「重い皮膚病」と訳されていますが、いずれにしても現在のハンセン氏病とは違うものです。
これは人間にだけではなく、衣服(レビ13:47~59)、家(レビ14:33~53)にも現れるものもあるからです。
ですから、以前の訳の「らい病」という言葉は適切な訳ではなく、新改訳聖書第三版において、現在のハンセン氏病の方々に配慮し、差別を感じさせる言葉を改訂し、新改訳2017もそのまま引き継ぎ、原語(ヘブル語)表記そのままの「ツァラアト」としたという経緯があります。
しかし、この「ツァラアト」というのは、単に病気ということだけではなく、旧約聖書の規定に従って、神に対する汚れとして定められていました。
レビ記13章には「患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ぶ。その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。(レビ記13:45~46)」と記されています。凄まじい状態です。単なる差別、偏見を超えています。
ここで「汚れている」、「きよい」というのは、宗教上の規定であって、「きよい」とは、神に近づくことができる、神を礼拝できる、また供え物であれば、礼拝に用いられるということであり、「汚れている」とは、神に近づくことのできない礼拝者のことであり、神への供え物として用いられないもののことです。
またこの規定による「汚れている」という言葉によって、「罪」を連想しますが、聖書は彼らが罪人であるからツァラアト、重い皮膚病となったとは宣べていません。聖書は、人はみな罪人であると宣べているのですから(参照;ローマ3:10、5:12)。しかし、当時のラビの中には、明らかに罪との関連を主張する者がいた事も事実です。
しかしながら、補足しておきますと、それは、当時の医学の未発達のためになされた処置であったのではないかとも言えます。当時の律法という決まりによって、感染から防いでいたとも考えられますし、「汚れている」として、人々から隔離されていたということも、当時の公衆衛生の観点からなされた処置であったのかもしれません。

しかし、いずれにしても、現在の私達の感覚では、旧約聖書の律法の規定が人間差別のように感じられます。ですが、よく考えるなら、儀式的な区別よりも、人間の差別する心<罪>のほうが問題ではないかと思います。聖書の時代も、今日も、病気や不幸を、その人達の罪と断定するという傾向があります。
確かに、罪の結果、神の罰としてツァラアトに冒された人達が、旧約聖書には登場しています。モーセに逆らった姉のミリヤムがツァラアトに冒された例(民数12:10)や、ツァラアトを癒されたナアマン将軍の贈り物を受け取らなかったエリシャに仕えるゲハジが、ナアマンに嘘をつき、ナアマンから贈り物を受け取ったため、神の罰を受けて、彼がツァラアトに冒されたという例(Ⅱ列王5章)もあります。
しかし、だからと言って、この事実によって、ツァラアトが、即、罪の結果であるとし、それを普遍的な真理とすることは、非聖書的な考えです。
そしてこのように、病気や不幸を、即、罪の結果とするのは、実は、神の側にあるのではなく、人間の罪性による愛のなさであることを知らなければなりません。
しかし、ここに登場するツァラアトに罹った人は、それまでの価値観によるそのような世間の冷たい視線や仕打ちを受けて苦しんでいたに違いないと思います。

さて、前置きはこれくらいにして、聖書から見て行きましょう。
まず12節、全身ツァラアトに冒されていたこの人は、多くの人々を癒された主イエスのことを聞き知っていたのでしょう。
そして社会から疎外され、日々世間の冷たい目を避けていた彼が、多くの群衆の中に入って行くことは勇気の要ることでした。何故なら、本来は宗教的「汚れ」の規定であった筈なのに、それが、忌み嫌われる罪人としての扱いを受けるようになって、ユダヤ人社会から疎外されていたからです。正に、肉体的、社会的、霊的疎外に遭っていた訳です。凄まじい孤立、孤独を強いられていた訳です。想像するだけで、胸が苦しくなります。
しかし、彼は必死になって、主イエスのもとに来て(マルコ 1:40)、ひれ伏してお願いしました。「主よ。お心一つで、私をきよくすることがおできになります。(12)」と。
主イエスの御前でひれ伏す、というのは、礼拝行為です。彼なりに、この方こそ、誰にも癒せないこの病を癒すことのおできになる神の御子であると確信したのでしょう。
「お心一つで」とは、彼の謙遜さの現れです。「あなたがお望みになるなら」が直訳です。また、「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」と言っているのは、彼が、自分をきよくない者、罪人と認めているからではないでしょうか。

そして13節、主イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われると、すると、すぐにツァラアトが消えたとあります。すなわち、きよめられたのです。
福音記者マルコは「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、(マルコ1:41)」と記しています。
主イエスは、当時のユダヤ人たちが、決して触れることなどない、ツァラアトに冒された人に直接触れられて、癒されたのです。
主イエスのその行為は、主イエスの「わたしの心だ。」と言われた御言葉を具体的に現わされた行為、すなわち「愛」の行為でありました。
主イエスは、ツァラアトに冒されたその人を蔑むことなど全くなく、共にその痛みを感じて下さり、その苦しみを共有して下さるお方なのです。
「わたしの心だ」の直訳は、「わたしの望みだ」です。イエスご自身の望みとして癒して下さったのです。
主イエスは、彼の思いをご存じのお方であり、彼の思いを汲み取って下さったのです。しかも、「すぐに」です。彼はすぐに癒されたのです。

また、「癒す」と同義語である「きよくなれ」とは、単に肉体的な癒しだけでなく、彼が「きよい」と宣言され、疎外されていたユダヤ人社会に復帰することをも含んでいます。
ですから14節、主イエスは彼に言われました。「誰にも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」と命じておられます。

福音記者マルコは「イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。(マルコ1:43)」と記しています。
福音記者ルカは、その後の彼の行動を記していませんが、マルコは「ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。
そのため、イエスはもはや表立って町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられた。しかし、人々はいたるところからイエスのもとにやって来た。(マルコ1:45)」と記しているので、彼は主イエスが命じられたことを守らなかったようです。

確かに、彼は、主イエスの御許に来たときは、必死の信仰があったのです。しかし、癒された後の彼には、喜びのあまりですが、主イエスの命令に従おうとはしなかったのです。
最初の信仰はどこかに行ってしまったようです。彼は自分の体が癒されたことだけで満足し、信仰はなくなってしまったのでしょうか。それ程までに、人間は目に見える物、はっきり確かめられる物だけを得たがる生き物なのだなあと思わされます。
その後、彼について記されていないので、その後の彼の信仰がどうであったかはわかりません。
しかし、何故、主イエスは「だれにも話してはいけない(14)」と、厳しく(マルコ1:43)命じられたのでしょうか。
福音記者ルカは、15節「主イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒してもらうために集まって来た。」と記しているので、そういった混乱を避けるためだったのでしょうか。
また主イエスが「彼を厳しく戒めた」のは、彼のことをよくご存じであったからかもしれません。あなただったら、どうすると思いますか?
それまでの苦痛から解放されたその事実を誰にも喋らず、黙っていられますか?、、、「だって、人間だもの、、」と言う声が聞こえて来そうですね。
しかし、彼が言い広めなくても、その癒しの現場で、「大勢の群衆(マタイ 8:1)」が見ていたので、彼らが言い広めることは明らかです。

では、ここで、主イエスが一番大切に思われたことは何だったのでしょう。それはこの人が「人々への証しのために、行って、自分を祭司に見せる」ことだったのです。
それは祭司に「きよい」と宣言させ(レビ13:13)、神のみわざであるいやしの事実を公にし、彼が社会復帰をするためです。
主イエスは神の御子であられながら、当時の律法の戒めを守られる方であり、彼にもそのように命じられたのです。
しかし、この時、すでに、主イエスは、エルサレムのパリサイ人や祭司達の反感を買っており、律法を守らない者と誤解され、異端視され、命を狙われていたのです。イエスご自身がすでに辛い状況に置かれていたのです。
ですから、この人がすぐに祭司の所に行って、その事実を律法どおりに祭司に公に宣言させることが必要であったのです。それは主イエスが律法を廃棄するために来られたのではなく、成就されるために来られたお方(マタイ5:17)であることの証明を得るためでもあったからです。

しかし、彼は、残念なことに、喜びのあまりとは言え、主イエスの命令に従わなかったのです。また、「モーセの命じたきよめのささげ物をしなさい。(14)」というのは、癒しが神のみわざであることの信仰告白であり、神に感謝をささげる礼拝行為なのです。神の民として礼拝することであり、神を喜ぶことです。
ここで、主イエスの命令に従わなかった彼の行為は、「信仰とは何か」ということを考えさせます。彼の信仰とは、結局、御利益信仰だったのでしょうか。

私たちは幸福を求めます。病気になれば当然その癒しを願います。その求めに、主イエスは応えて下さいます。しかし、主イエスが私たちに与えたいと願っておられるのは、一時的な癒しではなく、真の癒しであり、真の幸福です。罪の贖いであり、永遠のいのちであり、神にある存在の平安<幸福>です。
彼が求めたのは、一時的な癒しだけだったのでしょうか。聖書には、主イエスの癒しの記事が多くありますが、多くの人々が癒された後、主イエスの御許に帰った人は少ないのです。 福音記者ルカは、十人のツァラアトに冒された人が主イエスに癒されたことを記していますが、しかし癒されて、主イエスを礼拝する為に戻ってきた者は、神の民のユダヤ人9人ではなく、異邦人のサマリヤ人一人だけだったのです。(ルカ17:11~18)

翻って私たちの信仰、価値基準はどうでしょうか。自分にとって心地よいものだけを求め、主イエスを、この地上での自分の幸福をかなえる道具にしているということはないでしょうか。
しかし、主イエスは、そのような不信仰で弱い私たちの求めに対しても、深くあわれみ、手を伸ばして、さわってくださり「わたしの心だ。きよくなれ。」と、きよめてくだるのです。十字架で流された尊い血潮によって。
ですから、その恵みを忘れず、主イエスを礼拝し、主イエスに感謝し、主イエスを信頼し続けましょう。真の幸福とは、主イエスにある平安の道です。主イエスの御言葉に従う道です。自分のためにも、人々への証しのためにも、この「主イエスの心」を抱くことです。

嬉しいことに、パウロは、「主イエスの<愛の>心」は、私達にもある、と宣べています。「私たちは、キリストの心持っているのです。(Ⅰコリント 2:16)」と。
何故なら、御霊によって「イエスは主です。(Ⅰコリント 12: 3)」と告白している私達は、すでに御霊を受けているからです(Ⅰコリント 2:12)。
そして具体的には、そのキリストの愛の心の源泉は、祈りの中にあって、祈りによって育まれます。
無理もないとしても、一時的な癒しを求めて、主イエスの御許に押し迫ってくる群衆を、主イエスは決してお責めになりませんでした。

16節「しかし、イエス御自身は、よく寂しいところ(荒野)に退いて祈っておられた。」とあります。ここに主イエスの祈りの本質が見えますね。それはどのような祈りだったのでしょうか。
主イエスの祈りは「交わり」です。「愛の交わり」です。
父なる神と、御霊なる神と、御子なる神・主イエス御自身との、「愛の交わり」です。

主イエスの祈りというのは、その様な愛の交わりの中で成されるのです。愛し合う者が寄り添い、共に食事をする、というような愛の交わりです。
神の御子であられますが、人の弱さをお持ちであり、その弱さを感じられる、正真正銘の人となられた主イエス・キリストは、その祈りによって、父なる神と御霊なる神との交わりの中で、愛を育まれていたのではないか、と思います。

そして、私達もまた、御霊によって、その祈りの中に導かれているのです。神の臨在の中に。そこに私達の「キリストの心」があります。 
私達にはこの地上において、主イエスに押し迫る群衆のように、切に癒しを求める悲しみや苦しみの人生があります。しかし、私達には、すでに主イエス御自身が共にいて下さるのです。
父なる神に絶対的な信頼を置き、いつも傍らにいて支えておられた御霊の助けによって、十字架の道にさえも従われた主イエスの心が、祈りの中で私達にも育まれるのです。どの様な人生においても与えられる「平安の道」、「キリストの心」が。

ですから、さあ、この「キリストの心」をしっかりと抱きしめ、今週もまた、それぞれの戦いの中に、雄々しく踏み出して行こうではありませんか!