8月の主題メッセ-ジに何を語らせていただこうかと考えを巡らしていた時に、私の頭の中には、走馬燈のようにこれまでの出来事が思い起こされました。齢80にして思う事は、『破れの多い人生だったなあ、しかし、それにも増して恵まれた人生だったなあ』 ということです。こう言うと何かもう死ぬ人みたいですが、安心してください。ただ振り返っているだけですから。
さて、本日のメッセ-ジの表題に出て来る「破れ口」(ペレツ)という言葉ですが、聖書の中には何カ所か出て来ます。(エゼキエル22:3、詩106:23 ・・)
「破れ口」とは、城壁の一部が崩れたり、穴が空いているところ、すなわち「破損個所」のことです。外敵は何とかして城壁に穴を開け、それを押し広げて、中へ入ろうとするのですから、小さな破れ口でも、すぐに修理をしなければ、町はあっという間に敵の侵入により滅んでしまいます。
しかし、城壁の場合は、破れ口を修復して、塞げば良いわけですが、私たち人間の「破れ口」はどうしたら塞ぐことができるのでしょうか。これが大問題な訳です。
結論から言えば、誰かが命がけでその「破れ口」に立ち続けることなのです。聖書的には、「破れ口に立つ」とは、神と人との間に立って、その裂け目で神に執り成すことを意味します。
それでは、聖書の中から「破れ口に立った」模範的な人物の一人、アブラハムについて、 創世記18章16~33節(p26~27)をご一緒に見てみましょう。
「その人たちは、そこから立ち上がって、ソドムの方を見下ろした。アブラハムは彼らを見送りに、彼らと一緒に行った。
主はこう考えられた。『わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。 わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。』
主は言われた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼の罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい。』
その人たちは、そこからソドムの方へ進んで行った。アブラハムは、まだ主の前に立っていた。
アブラハムは近づいて言った。『あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。
もしかすると、その町の中に正しい者が五十人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにならないのですか。
正しい者を悪い者どもとともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対ありません。そんなことは絶対あり得ないことです。全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。』
主は言われた。『もしソドムで、わたしが正しい者を五十人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう。』
アブラハムは答えた。『ご覧ください。私はちりや灰にすぎませんが、あえて、わが主に申し上げます。
もしかすると、五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町のすべてを滅ぼされるのでしょうか。』主は言われた。『いや、滅ぼしはしない。もし、そこに四十五人を見つけたら、』
彼は再び尋ねて言った。『もしかすると、そこに見つかるのは四十人かもしれません。』すると言われた。『そうはしない。その四十人のゆえに。』
また彼は言った。『わが主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしかすると、そこに見つかるのは三十人かもしれません。』すると言われた。『そうはしない。もし、そこに三十人を見つけたら。』
彼は言った。『あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、そこに見つかるのは二十人かもしれません。』すると言われた。『滅ぼしはしない。その二十人のゆえに。』
また彼は言った。『わが主よ。どうかお怒りにならないで、もう一度だけ私に言わせてください。もしかすると、そこに見つかるのは十人かもしれません。』
すると言われた。『滅ぼしはしない。その十人ゆえに。』
主は、アブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の家に帰って行った。」
16節の「その人たち」とは、「来年の今ごろ、・・・・あなたの妻サラには男の子が生まれています。(創18:10、14)」と告げる、18章2節に登場する「三人の人」であり、そのうちの二人は「御使い(創19:1)」であり、もう一人は、22節「アブラハムは、まだ主の前に立っていた。」とあるように、主なる神であり、受肉される前の主イエス・キリストです。
このように、信仰の父アブラハムは、甥のロト家族が住むソドムとゴモラの人々が、罪ゆえに滅ぼされることを見過ごすことができず、「正しい人が10人でもいれば滅ぼさないで欲しい」と、罪深い民の「破れ口」に立って執り成しました。
子ども礼拝でもよく取り上げた所です。アブラハムが「50人正しい人がいたら、それでも滅ぼしますか?」「では40人だったら?」と神に交渉する場面は、子ども達にも印象深い場面です。
また、出エジプト記32章には、指導者モ-セが、主なる神から十戒を授かるためにシナイ山にいた(出31:18)時、彼が不在の間にイスラエルの民は偶像の神である金の子牛を造り、神の激しい怒りに触れて滅ぼされようとしていました。その時、モ-セは神の前に立ちはだかり、「自分の命と引き替えに民を赦して欲しい(出32:32)と懇願し、執り成したとあります。
このように、偉大なる信仰の先輩方はその業をしてくれました。
では、今の世界、現代の私達に目を転じてみましょう。
21世紀を生きる私達の世界にも、様々な「破れ」を見るのではないでしょうか。
身近なところでは、家庭や学校や職場の破れ、或いは「キリスト教会の破れ」もあるでしょう。世界に目を向ければ、戦争や紛争、飢餓や貧困、地球環境の汚染、今も感染拡大を続ける感染症、、、。目を覆いたくなるような惨状です。
しかし、何と言っても「破れ」の悲惨さは人間本人にあるのではないでしょうか。
皆さんは「人の破れ」というものを見たことがありますか? 私はあります。
それは何と表現したらよいのか分からないのですが、有り体の言葉で言うと、とにかく傷ついて、ボロボロなのです。
それも肉体ではなく 心が、魂が、傷だらけになって、苦しんで、呻いて、のたうち回っているのです。それは簡単に手を出して、助けられるようなものではなく、激しく動揺しながらも、ただ見ているしかなかったです。
私は、このような経験を幾度となく繰り返して、今日まで来ました。牧師という仕事は、このような心を、魂を、相手にするものなのだと、今更ながら教えられます。
かつての私はそんな事とは、露知らず、無謀にも自分を顧みることも無く、ただ「伝道者になりたい」「牧師になりたい」と目をキラキラさせて願いました。
自分なりの夢や、ビジョンがありました。しかし私は挫折するのです。当然です。牧師の仕事の何たるか全く分かっていなかったんですから。それにも関わらず、このような者に尊い主の働きを託し続けてくださった神には感謝する外ありません。
さて、自分のことはさて置き、聖書に戻り、この人間の「破れ」について見て行きましょう。昔も今も人間のやる事は変わりません。
旧約の歴史を見るに、神の守りと祝福を幾度となく経験しても、しばらくすると自分勝手な歩みをしたがりました。自分の知恵と経験に頼り、神を鬱陶しく思うようになります。
旧約の世界では神との契約が全てですから、その契約を破ったとなると神様の怒りを買う事になります。そんな時、先に見たように、神から特別に選ばれた、アブラハムやモ-セは必死に執り為す訳です。
しかし、それでも民の反逆は止むことはなく、しかし、そこまでして神に逆らう人間を、尚も愛する神は完全な犠牲、救いを送ってくださいました。
そうですね、イエス・キリストです。イエス様は完全な神であり、完全な人でありました。
それまでのアブラハムやモ-セは予表に過ぎなかったのですが、イエス・キリストは完全な生贄であり、神と人との分断に立ち、執り為すことができる、正に、人間の「破れ口に立たれる」のに相応しいお方でした。
今朝の聖書箇所にも揚げたⅠペテロ2:24で「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。」と、その尊い業が記されています
この主イエスのして下さったことを、自分の罪のゆえとして信じることによって、私たちは自分のどうしようもない「破れ」「綻び」「破綻」から救われたのです。
傷口から血を流し、七転八倒する苦しみから解放して頂いたのです。正に、キリストはこの「破れ口に立たれて、命を賭して、神との断絶から私たちを贖ってくださったのです。
そしたらもう、私たちはこのキリストに倣いたくはないですか?
勿論、私たち人間にイエス様と同じ事ができる訳はありません。けれども、とてつもない愛を頂いたのです。
これを伝えずにはいられない。私も誰かの、社会の、家庭の、「破れ口に立って」それを支えたいと願うのではないですか?
大それた事でなくて良いんです。会話のない家庭の中で、たった一言、明るくなる話題を発するだけで良いんです。ひとりぼっちの寄る辺ない人にそっと寄り添うだけで良いんです。話し相手のいない人の話にじっと耳を傾けるだけで良いんです。一緒にごはんを食べる、それだけでも良いんです。
よく聞きますよね、自分が最も辛かった時に、何も言わずにただ一緒にいてくれた。黙って横にいてくれた。それが一番嬉しかったと。
先日、ライフラインの放送で、東京基督教大学(TCU)の学長を最年少で引き受けられた篠原基章さんのお話をお聞きしました。学長を引き受けるに当たって、大変悩まれたそうです。自分には任ではないという思いと、あまりの責任の重さに断ったら、どんなに楽になるかとも思われたそうです。
しかし、祈り進めて行くうちに、今の世の中に、この混乱した世界に神学教育がどんなに大切かを思われたそうです。
神の言葉は世界を変える。それを若いうちに学ぶことの重要性を迫られたそうです。
そして、この働きを次世代にバトンタッチして行く使命があることを示され、そしてそれを共に担ってくれる仲間の存在もあり、お引き受けすることにしたと語られていました。「破れ口にキリストの平和を」との思いを掲げて。
このように、時に神様から呼ばれることがあるのです。
この私もおっちょこちょいですから、神様から呼ばれたと思い込んで、今日まで歩んで来ました。失敗の多かった者です。その酷い失敗のエピソ-ドについては、最近メッセ-ジの中でちょくちょく披露しているので、皆さんも大分お分かりの事と思います。
そんな私の事を可哀そうに思ってか、また、励ます意味もあってか、最近家内がこんな話をしてくれました。
それは、家内が見た夢の話です。もう、2,30年も前の話です。私たちが前の教会に仕えていた時の事です。
その時の教会の情勢、取り巻く環境、不穏な社会の動き、私たち自身が抱える問題も相俟って、家内は大変苦しい夢を見たというのです。
戦争というか、ク-デタ-が起き、教会を含むその周辺は焼け野原となり、酷い惨状になっていたというのです。
そのままそこにいるのは大変危険であり、そこに、僅かな人数を乗せることができる乗り合いバスが来て、家内は促されて、そのバスに教会学校の小さな子ども達を誘導して、一緒に乗り込んだそうです。子ども達を抱きかかえながら、これで助かると思ったそうです。
そして、走り去るバスの車窓から、私の姿が見えたそうです。煤で顔を真っ黒にして、焼け跡の片付けをしていたそうです。
そして、、、そこに残った僅か数人の役員の方々に向かって「さあ、皆さん、今こそ神を礼拝しましょう!」と呼びかけ、焼け残った聖書を開いたというのです。
その時家内は『ああ、私は逃げたんだ。でもあの人は、本物だった!』と思ったというのです。
勿論、これは夢の話です。家内は多分に自分に厳しい傾向がありますから、自分の姿を厳しく見つめ、家内自身をそのように描写したのだと思いますし、反対に私の事はそのように過大にイメ-ジしてくれたのかとは思いましたが、家内の目から私はそのように見えたのかと、面映ゆくもありました。
そして、この度、家内が改めてこの時の夢の話を持ち出し、「30年経った今でも、あなたは変わっていなかった。あの時、私の見た夢のままだった。信じてついて来て良かった!」と言ったのでした。
80歳になった私へのプレゼントのつもりだったのか、はたまた、この頃自虐的反省の多い私を励まそうと思ってかは分かりませんが、お世辞など言わない家内の言葉です。私は喜んで、この道を行こうと思いました。
今の私は、年を取ったから、少しのんびりしたいなどとは、全く思いません。この私の為に命を下さった主の為に、この福音を知らせる為に、走り続けたいのです。
皆さんもそうでしょう?
その熱い思いに押し出されているでしょう?
だって、私たちは『キリストばか』連盟の同志でしょう?
笑われたっていいんです。何も持ってなくていいんです。だって、最後は天国です。何の心配も要りません。
さあ、これからも喜んで、人々の、社会の、家庭の、「破れ口」に立って、キリストに倣って生きて行きましょう!!
