本日の聖書箇所では「中風の人の癒し」について見て行きます。「中風」とは脳血管障害(脳梗塞や脳出血)の後遺症として起こる体の麻痺を指します。
この麻痺によって体が不自由な状態の人という理解で進めて行きます。いつものようにアウトラインを示しますと
①「メシア運動」の観察の段階(17節)
②中風の人の登場(18~19節)
③イエスの神性宣言(20~21節)
④イエスの権威の証明(22~26節)となりましょうか。
これまで主イエスは「悪霊の追い出し」「熱病の癒し」「ツァラアト患者の癒し」を行って来られました。
そして今回17節、主イエスは、自分の町(マタイ 9: 1)すなわちカペナウム(マルコ 2: 1)の、おそらくペテロの家であったと思われる場所で、多くの人々に福音を伝えておられました。
それを聞いたパリサイ人や律法学者達が、ガリラヤ、ユダヤ、エルサレムから、主イエスの御許に集まって来ました。
しかし彼らは教えを聞く為ではなく、主イエスに対する敵対心を持ち、主イエスと論争して打ち負かし、失脚させようと目論んでいたのです。
そして主イエスは、主の御力をもって、癒しを求める人々の病気を治しておられました。おそらくパリサイ人、律法学者らはそれを見ていたに違いないのですが、主イエスを信じようとしませんでした。癒しを求めて集まった人々の信仰が、一時的な癒しのみの求めであったとしても、それなりに信じていたのですから、パリサイ人、律法学者らが如何に頑なであったのかが分かります。
すると18節、そこに、男達が中風を患っている人を、寝床<ベッド>のままで運んできました。そして彼らは、何とかして家の中に運び込み、主イエスの御前に置こうとしていました。
しかし、大勢の人々がいて、その病人を家の中に運び込む事が出来ず、屋上に上って屋根の瓦をはがし<パレスチナの一般的な家の屋根は、藁と土で造られており、瓦の屋根は珍しいのですが、おそらくルカが異邦人向けに書き換えたのかとも思われます>それはともかく、そこからその病人を寝床のまま、ちょうど人々の真ん中におられた主イエスの前に、吊り降ろしたのです(19)。
確かに仕方がなかったと言えなくもないのですが、それでも彼らは何という非常識か、と思います。
しかしそれにもかかわらず、20節、主イエスは「彼らの信仰を見て、」「友よ。あなたの罪は赦された。」と宣言されたのです。
ところが21節、それを見て、聞いていた、律法学者、パリサイ人達は、「心の中で(22)」つぶやきました。「神への冒瀆を口にするこの人は、一体何者だ。神お一人のほかに、誰が罪を赦すことができるだろうか。」と。
しかし「人はうわべを見るが、主は心を見る(Ⅰサムエル16: 7)」のです。
次に22節~26節を見て行きますが、神の御子、主イエス・キリストは彼らの心の中の呟き、疑い、を見抜かれ、彼らが返答出来ない質問をされました。
「あなたがたは心の中で何を考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。(23)」と。
そしてどちらとも答える事が出来ない彼らの前で、主イエスは24節、「『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために』と言って、中風の人に、『あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい』と言われた。」のです。
25節、「すると彼は、すぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った」のです。
そして、26節、それを見ていた「人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて『私たちは、今日、驚くべきことを見た。』」と言ったのです。
さて、ここでもう一度、彼らが答えることが出来なかった、主イエスの質問について考えてみましょう。
「罪は癒された」と言うのはやさしいことです。何故なら、口先でできるからです。と言っても、人間には実証出来ません。「罪を赦す」ことは、パリサイ人達が言うように、神にしか出来ないことです。
では、肉体の癒しはどうでしょうか。それは現実に見えるかたちを示さなければなりません。それは奇蹟です。
ですから、どちらもやさしいことではありません。いいえ、人間には不可能な事です。
主イエスは、現実的に不可能な肉体の癒し、神の御力による、奇蹟を示され、御自分が神であられる事を実証されたのです。
しかし、多くの人々が驚き、神を崇めたにもかかわらず、それでもパリサイ人、律法学者らは主イエスを信じなかったのです。それが罪です。
聖書が示す罪とは、刑法で言う罪ではありません。(それも含みますが、それは原罪の結果、生じるものです。)神を神として仰ぎ見ないこと、これが罪です。
しかし、律法学者、パリサイ人達は、神の選びの民であるユダヤ人の中でも、抜きん出て、神の律法に通じていました。つまり、彼らは他の誰よりも、神を知る人達であったはずなのです。ところが彼らは、他の人々のように、神を神として仰ぎ見ることが出来ず、主イエスを神として見る事が出来なかったのです。
主イエスの弟子、漁師のペテロのことを思い出して下さい。夜通し漁をして捕れなかったにもかかわらず、主イエスの命令に従ったとき、大漁を経験し、驚いて「主よ。私から離れて下さい。私は罪深い人間ですから(ルカ 5: 8)」と言って、「あなたは、生ける神の子キリストです。(マタイ16:16)」と告白したのとは、実に対照的です。
しかるに何故、彼らは、主イエスを信じる事が出来なかったのでしょうか。
彼らが神を神として崇めず、目の前の主イエスを神として見る事が出来なかったのは、彼らのプライドです。彼らのプライドがそれを許さなかったのです。このプライドが罪なのです。
神の民としてのプライドだけが高く、真の自分の実態を見つめようとしないユダヤ人達に、パウロはこのように宣べています。
ロ-マ人への手紙2章17~23節から見て行きましょう。「あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、どうして他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。
偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。」と言っています。
また、さらにパウロは、ガラテヤ人への手紙6章3~4節で「だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。」と言っています。
そういう訳で、一言でいうなら、パウロは、「自分を正直に見つめるなら、自分で自分をどうする事も出来ない、救いようがない者、誰かに助けていただかなければならない、罪人だ。(ローマ7:14~25)」と告白しているのです。
それを認める事は苦しい事です。しかし、そのことによって、その罪の自覚によって、神を見る事が出来るのです。神を正しく仰ぎ見る為には自分があってはダメなのです。“自分自分”では神は見い出せないのです。
さて、戻って中風の人は、罪を赦され、病を癒されて、神を崇めながら、主イエスの命令に従って、自分の家に帰りました。
彼は、律法学者、パリサイ人達と違って、神を神として崇めたのです。
何故でしょうか。もうお分かりですね。そう、彼には罪の自覚があったからです。何故なら、彼は当時の社会の心ない間違った信仰によって、自分の病気は罪の故である、と自覚させられて<思い込まされて>いたからです。
確かに彼のその罪の自覚は、パウロのような神学的な深い罪の自覚ではなかったでしょう。
しかし、それでも彼なりに自分を罪人として自覚していた彼は、罪の故であると言われる病が直ちに癒され、その罪を赦された、ということがどんなに嬉しかった事でしょう。
「罪が赦された」と言われても、罪の自覚のない者には、喜びも感謝の心も生じません。しかし、彼は喜び、感謝して、神を神として崇めることができたのです。
そして、26節「私達は、今日、驚くべきことを見た」と言った人々は、「神を崇め、恐れに満たされていた」のです。「恐れに満たされた」とは、彼らも彼らなりに罪の自覚があったと考えられます。神を恐れるとは、罪の自覚無しに現れ得ない感情だからです。
神を崇めた中風の人と、それを見て驚き、神を崇め、神を恐れた人々の姿は、律法学者、パリサイ人達と、何と対照的でしょうか。
現代の日本社会では、次々と「偽」事件が生じ、その罪が発覚しています。
しかし、今だかつて、その罪を正直に認めた者<会社>はありません。多くの言い訳があり、ついに言い逃れが出来ないほどに追いつめられ、進退窮まったが故に、謝罪するのです。この様子を見る時、自分も含めて、人間は如何に罪を認める事が困難であるかが分かります。
ですから、罪を自覚させられる事は、幸いな事なのです。
何故なら、「地上で罪を赦す権威」をお持ちであるお方、主イエスにお会い出来るからであり、「永遠の癒し」である「罪の赦し」をいただく事が出来るからです。
その「罪を赦す権威」とは、使徒ヨハネが、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:7b)」と宣べているように、主イエス・キリストが私達の罪の為に流された十字架の血潮によるものです。
ですから、主イエスの宣言「友よ。あなたの罪は赦された。」というのは、口先の宣言ではなく、人間の受けるべき罪のさばき(エペソ 2: 3)を、主イエス御自身が、その身に受けてくださったことによる、愛の権威なのです。
その権威とは、天の権威(マタイ28:18)であると同時に、下からの権威・地上で、私達の為に血を流されたほどの、愛に満ちた権威なのです。
私達もまた、この愛の権威によって「罪赦された」者です。ここをしっかり信じましょう。 そうしたら自分は罪赦されているのか分からない、その実感がない、信じているのに疑ってしまう、行動がちっとも変わっていない、なんて悩むのは止めましょう。勿体ないです。 自分ばかり見つめる目を上に上げ、イエス様を見つめましょう。 私達も神を恐れ、神を崇める者です。
そして、私達は、非常識ではあっても、何とか、病の友人の為に、主イエスの御許に連れて行こうと願い、実行した友のように、そしてまたその「彼らの信仰を見て」くださった、主イエスの眼差しを見ようではありませんか。
主イエスは、その他の人達の迷惑も考えられず、どんな事でもするという身勝手さを容認されたのではなく、その欠けをも引き受けてくださって、「彼らの信仰を見て」くださったのです。
「彼らの信仰」とは、その主イエスの眼差しの故にあるのであり、恵みであり賜物(エペソ 2: 8)なのです。時に、主イエスが喜ばれる信仰とは、この友のように常識外れな、しかしそれは自分が決めた限界に囚われない、自分が作り出した天井を突き破るような信仰を喜んでくださるのです。
それならば、私達もまた、欠けがありながらも、家族や、隣人や、友の為に、永遠の癒し、罪の赦しを、そして病の癒しを、切に願い、祈るならば、主イエスが、「私達の信仰を見て」、最善を成して下さると信じられるのではありませんか?
そしたら、諦めるなんてできないじゃありませんか。あの人にはいくら伝道してもムリだからもう諦めた、この親はムリだ、この子どもはどうしようもない、なんて言って放り出す事なんてできないじゃないですか。
イエス様が赦そう、癒そう、救おうと願っておられるのですよ。それも私達のこの小さな信仰を見て。
ですから自分の小さな考えに頼るのは止めましょう。
このイエス様に絶対信頼して、今週もまた、まっさらな心で 、愛するお一人お一人に、この福音を伝えて行きましょう!
