2025/7/6(日) 『福音を信じていますか』ルカの福音書 4章38〜44節:村松 登志雄 牧師

今朝はまた、ルカの福音書に戻りますが、最初に、本日の箇所のアウトラインをお伝えしておきましょう。
第一に、「シモンの姑の癒し」38節から39節
第二に、「多くの病人の癒し」40節
第三に、「悪霊の追い出し」41節
第四に、「宣教の拡がり」42節から44節、です。

前回で、主イエスはカペナウムの会堂で、悪霊を追い出された、ということを見ました。そのことによって、主イエスの御言葉には「神の力と権威」があることを見ました。そしてその噂は周辺の地方の至るところまで広まっていました。
さて、今日はその後です。主イエスは礼拝を終えると、その会堂を出てシモンの家に入られました(38節)。
このシモンという人は、後の5章で、主イエスに弟子として招かれる漁師のシモン・ペテロのことです。シモンはすでに結婚しており、妻の母親と同居していたことが分かります。

このシモンの姑が今ひどい熱で苦しんでいるということです。彼女は人々から愛されている人であり、人々を日頃から愛して仕えていたのではないかと思われます。それは、この時、人々がイエスにお願いして来ていただいたということからも分かります。
ここで興味深いのは、次の39節です。「イエスが枕元に立って熱を叱りつける」とあります。
主イエスは「熱を叱りつける」のです。医者でもある福音記者ルカは、この高熱は、単なる病ではなく、背後に悪霊の働きがあることを暗示しています。
ですから、「熱を叱りつける」とは、姑の中にいた悪霊を叱りつけた、ということであり、主イエスの権威と力ある御言葉を聞いた悪霊は彼女から出て行ったのです。それが、「熱は去り」という言葉の意味です。
さて、高熱とその苦しみから解放されたシモンの姑ですが、39節の後半に「彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなした」とあります。普通なら周りの人も心配して「すぐ動かないで、しばらく休んでいた方が、、、」と思うところでしょうが、彼女はそうしませんでした。
この行動は、強制されてではなく、そうせずにはいられない気持ちに押し出されてのことだったのでしょう。感謝と喜びに溢れてのことだった訳です。
また、主イエスも「まだ、休んでいなさい」とは仰いませんでした。それは主イエスの癒しが人間の手による病気の癒しを超えている完全なものであったからです。
そして、シモンの姑には、癒されたことによって、「ああ、よかった」では終わらない、癒されたことへの心からの感謝と、それに応答する行動が伴っていたのです。
このことから、主イエスに救われた者には救われた者として、それぞれに与えられた使命があることを思わされます。

さて、次の40節「日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。」とあります。「日が沈むと」とありますが、これは安息日が終わったということです。(ユダヤ教徒は日没から日没までを一日と考えます)牧師や教会に仕える人は日曜日の夜にどっと疲れを覚えます。
主イエスもきっとそうではなかったかと思われますが、その主イエスの元へ様々な病を抱える人たちが運び込まれたのです。休む間もありません。
でも、その方々は本当に切実で、切羽詰まっていたことでしょう。病に苦しむ人も然(さ)りながら、それを抱える家族、友人、周りの人の苦しみは大変なものだったでしょう。

長年に渡る肉体的、精神的疲労、経済敵困窮、謂れなき人々の噂、偏見などに疲れ果てていた事でしょう。そしてそこには、誰からも触れられなかった病人もいたことでしょう、道に打ち捨てられた人もいたでしょう。病気であるということだけで人間扱いされなくなったこともあったのです。
その人たちに主イエスは一人一人に手を置いて癒されました。それは決して十把一絡げではなく、一人一人大切な存在として扱ってくださいました。
何故なら、私達は、母の胎にいる内から、主ご自身に懇ろに造られた存在(詩139:13)であるからです。そして、その人たちは、病の癒しと共に主イエスの深い愛情を受け取ったことでしょう。主イエスの手の感触ってどんなだったでしょう。
私達もみな、ある意味で病人です。癒されるべき病人です。欠けたる人格、傷のある過去、痛みのある心、重荷を抱えた人生、、、みんなみんな病んでいます。
しかし、そうした私達一人一人を固有のものとして、手を置き、理解し、深く関わってくださるのが主イエスです。その主イエスが今も生きて、傍にいてくださるのです。何と感謝なことでしょう。

そして、次の41節に「また悪霊どもも、『あなたこそ神の子です』と叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは悪霊どもを叱って、ものを言うのをお許しにならなかった。イエスがキリストであることを、彼らが知っていたからである。」とあります。
何故、主イエスは、悪霊どもを叱ってものを言うことをお許しにならなかったのでしょうか。
皆さんは何故だと思われますか? とても興味深いと思いませんか? これには、二つの理由が考えられます。
一つは、悪霊たちが「あなたこそ神の子です」と叫んでいるのは一見信仰告白のように見えます。そして、イエスがキリスト(メシヤ)であることをよく知っていたとあります。
しかしこれは信仰告白などではなく、ただ知っているだけ、そしてそれなのに、決して信じることはしないという、主イエスに反逆する者たちの口から出た言葉だからです。そんな者の口で尊い神のことを語って欲しくないのです。主イエスが喜ばれるのは、主イエスの救いを心から信じ、仕えようとする者の心からの出た信仰告白を喜ばれるのです。
二つ目は民衆の為です。悪霊は主イエスを邪魔する存在であるからです。もし悪霊に「ものを言うことをお許しになったら」悪霊は主イエスについて人々に間違った情報を与えて、主イエスの宣教の邪魔をするでしょう。
例えば、主イエスには大いなる力があり、イスラエルが待ち望んでいた「王」が来たと言って、主イエスを政治活動のリ-ダ-として担ぎ出そうとする危険性もあり、「神の国について教える」という福音宣教を邪魔する危険性、そしてもっと言えば、主イエスが派遣された、私達の罪の贖いとして十字架にかかって死ぬことを阻止する危険性もあったので、「お許しにならなかった」と考えられます。

さて、安息日の翌朝のことが42節に記されています。「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた」とあります。「寂しい所」という言葉の原語は「荒れ野」と同じです。しかし、何故イエス様はそのような所へ朝早く行かれたのでしょうか。
それは何よりも、祈りの必要を覚えておられたからです。祈りは神との交わりです。神のみこころを知る手段です。
主イエスは神の御子でありましたが、人としての主イエスはいつも、父なる神との交わりを第一にしておられました。
主イエスは真の人として生きるあるべき姿を私達に、その人生において、その生活において示しておられるのです。そして、それは42節の文節にも関係して来ますが、祈りは人間的な思いを排除します。真に祈る時、神のみこころが解り、そして自分のやるべきことが分かって来ます。

42節の次の下りで案の定というか、群衆はイエス様を捜し回ってやって来て、自分達から離れて行かないように引き留めようとしました。群衆には病気を癒す医者が必要だったからです。そういう人が側にいてくれたら安心して暮らせます。勿論主イエスも、彼らの必要をよくご存じでした。
しかし、その必要、要求は尽きることがないのです。彼らの人生には次から次へと問題が、病が多くあり、そして続くのです。
人としての主イエスはその人間の弱さをよくご存じのお方(ヘブル12:17、4:15)でした。
しかし、主イエスはその時、きっぱりと言われました!主イエスは揺さぶられません。決してなびかないのです。どうしてかと言うと、それは神様のみこころを確かめる「祈りの時」があったからです。
そして43節で群衆に言われました。「ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしはそのために遣わされたのですから」と仰ったのです。
ここにも主イエスの祈りの必要のお手本があります。私達も神の御心を.真剣に求めて祈る時、人間的な思いはしだいに排除されて行きます。

 そして望むことの本当の目的が露わになって来ます。それは誘惑であったり、人々の関心が欲しかったり、良い人だと思って欲しいという願望であったり、結局は自分のエゴだったことに気が付いたりします。そしてその結果、簡単に人の言うことに左右されなくなり、簡単になびかなくなります。人間的に引きずられなくなります。人の目より神の目を心するようになります。これが祈らないでいると、人に流されてしまったり、良い事だからいいか、、と簡単にに決断してしまったり、このような経験は私も何度もあります。だから祈る事が大切なのです。祈ることは良いことばかりです。
横道に逸れましたが、大切なことはこの時の主イエスの大目的は、福音宣教「神の国の到来(マルコ1:14~15)」であり、究極的には人々の救済でした。
では福音を宣べ伝えるとは何でしょう。
それは、ヨハネの福音書3章16節の御言葉こそ、その福音の要約です。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世<私たち>を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」
これが全てです。

聖書箇所に戻ります。44節「そして(主イエスは)ユダヤの諸会堂で宣教を続けられた」のです。
このように必死で働かれた主イエスの働きを、弟子である私達も今担っているのです。そして、使命があるのです。ではその使命に生きた先輩の様子を見てみましょう。
それは、本日の聖書箇所の最初に出て来るシモンの姑です。
この頃の女性の地位は低く、会堂礼拝からも閉め出されていたのですが、しかし主イエスの救いを受け、魂も救われ、その後キリストの弟子となった彼女の家は、主イエスの福音宣教の拠点となっています。主イエス・キリストを中心にした、男女差別のない、真の礼拝共同体の姿が、彼女の家にあったのではないかと思われます。
彼女はキリストの復活も経験し、キリストに仕え、多くの人をもてなし、そこで礼拝を始めたことでしょう。また当時の様子を見ると主イエスの御業を見た人が、噂を広め病人を運んで来るという行動を起こにすことによって、その地域を巻き込んで、地域社会に影響を与えています。

この逗子福音教会でも、二回、ジ-ザス・マ-ケットを開催し、多くの人を招き入れました。地域の人に認知されるきっかけになっていると思います。
そして、さらに、その方々に福音を伝えるためには、毎週の礼拝で力を受けることです。
福音を信じ、それを自分のものとすることです。礼拝において、神の言葉の権威、福音のすごさを経験すると、私達は造り変えられます。
礼拝者が造り変えられると、出て行って、家庭で、学校で、職場で、近所で影響を与えます。排他的であったかもしれない会衆が包含的な(様々な人を包み込む)礼拝となり、それによって町の人々も排他的でなくなり、教会に足を運ぶようになってくれるのだと思います。
これが礼拝の本質的特徴です。目指してすぐできるかは分かりませんが、主イエス・キリストの福音が忠実に教会で再現されるならば、私達の礼拝は世の中を動かす力を持っている筈です。
その為にはまず祈りましょう。自分の思いではなく、神のみこころを求めて、そして示されたら迷わず実行しましょう。
先週は小野寺伝道師から、この行いの大切さをみことばから教えていただきました。そして、隣人を愛する事がその鍵であることを、大変示されました。

また家内の話で恐縮なのですが、家内が、今回の病気で一度は死にかけたその時、神から語られた事とは何だったと思いますか?
彼女は自分ではあまり語りたくないようですが、本日のメッセ-ジを用意していてそれを語るように示されました。
家内は神様から、「戻って夫を助けなさい。そして、伝道に共に生きなさい。」と語られたそうです。「だから私はあなたを助ける!」ときっぱり言うのです。
今までも沢山支えられて来たものですから、何だか私は面はゆいような、戸惑うような気持ちでしたが、それからの彼女は一つ一つ具体的に助けることを見つけ、確信を持ってそれを実行してくれています。

私としては老いていくばかりなので、大変有り難いのですが、では私はこのままでよいのでしょうか?  はたと思いました。
思えば私は若い時から、家内を振り回して来ました。自分の生きることへの追求ばかりで、家内を顧みることもせず、揚げ句の果てに病気にまでしてしまうような男です。
そんなどうしようもない私を、主イエスは今日まで見捨てず、愛し、導いていてくださいました。
そんな私に残された仕事は何でしょう。それは、主に愛されている者として、ただ愛することです。家内を、そして皆さんを。こんなに大きく尊い仕事が残ってました。

若い時は、何事かを成し遂げることに目を向けていました。勝つこと、認められることを得たくて。
しかし、勝ち負けなんかどうでもいいじゃありませんか。自分の方が少しでも正しいことを証明しなくたっていいじゃありませんか。仕事ができると思われなくてもいいじゃありませんか。バカで十分じゃありませんか。キリストバカで行きましょう。
だって、こんなにも主に愛されているのですから。神様から最も大切なこととして示された「愛すること」が残っているのですから、ただ愛しましょう!

そのことを示された者として、新たに、礼拝とは何かを問うならば、礼拝とは、主によって、集められ、そして散らされていく所です。
ただ温かくてぬくぬくして、受けるばかりの所ではありません。恵みの福音を携えて、出て行き、散らされ、派遣されるのです。
心が燃えてきませんか?
さあ今週も、この礼拝から派遣され、愛するため、愛を伝える為に出て行きましょう。ア-メン!