2025/6/8(日) 『権威ある御言葉』ルカの福音書 4章31〜37節:村松 登志雄 牧師

さて、先週は主イエスがナザレの会堂で、御自分が救い主であると宣言されましたが、ナザレの人々はこれを受け入れず、殺そうとまでし、イエスはナザレを後にされました。ここからカペナウムを拠点とした福音宣教が始まります。この状態が十字架に付く半年前にユダヤに向かって出発するまで続きます。

本日の聖書箇所のアウトラインを示しますと、
①カペナウムでの奉仕(31~32節)
②悪霊との対決(33~35節)
③うわさの拡がり(36~37節)となります。

31節「それからイエスはガリラヤの町カペナウムに下られた。」とあります。このカペナウムという土地について少し説明します。
①ナザレ(標高360m)からカペナウム(標高-200m)までは下りです。
②漁業の町で、ペテロとアンデレのホ-ムタウンです。
③交通の要衝の地(国境の町)であるため、異邦人たちの往来がありました。
④国際都市であるため、新しい教えに対してオ-プンであったようです。
⑤地理的にも、政治的にも、文化的にも伝道の拠点にふさわしい町といえるでしょう。

さて、32節「人々はその教えにおどろいた。」とあります。ここで分かるのは、ナザレの人々とカペナウムの人々の対比は鮮明であるということです。不信仰と信仰の対比です。そこから話は会堂に現れた悪霊に憑かれた人の話へと移って行きます。そこから、悪霊との対決が描かれます。

ルカの福音書には、悪霊追放の記事が四回(4:31~37、8:26~39、9:37~43、11:14)ありますが、今回はその最初の記事です。この悪霊追放は、神の御子、救い主としての主イエスにしかおできにならないことです。福音記者ルカは、主イエス・キリストの天地における一切の権威(マタイ28:18)と圧倒的な力を示しています。

私たちは悪霊と聞くと、映画で見るようなオカルト的なものを連想します。しかし、悪霊は実在します。パウロは、かつての私達がどのような状態にあったのかを宣べています。「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ 2: 1~3)」と。

この悪霊に憑かれた人は、偶然に悪霊憑きの人になったのではなく、何らかの肉の欲望を持っていたが故に、その欲望に付け込んだ悪霊の働きであると思います。「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。(ヤコブ 1:14)」空中の権威を持つ支配者すなわちサタンと呼ばれる悪魔と、その手下である悪霊は、神に敵対する者として、人間の罪、すなわち自己中心の欲望、そして怒りや恨みを増幅させるためにその心に入り込みます。もちろん、私たちキリスト者は、自分の罪性を告白し、自分の罪の贖いの為に十字架で死なれた主イエスを信じているならば、その救いが取り消されることはありません。何故なら「御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめる(Ⅰヨハネ 1:7b)」からです。そして私たちは、この世では、旅人であり寄留者であり(ヘブル11:13)、国籍は、天の御国<神の国>にあります(ピリピ 3:20)。

しかし、私たちが生きているこの世、社会には、神に敵対する者、サタンとその手下である悪霊が満ちています。そして私たちキリスト者を神から何とか引き離そうとして攻撃していることを忘れてはならないのです。その巧妙な攻撃は、その人に罪を犯させることによって、その罪悪感の中に自分を埋没させ、十字架の血潮による罪の贖い、救いの絶対性<神の愛>を疑わせ、悔い改めをさせないようにすることです。(参照;ローマ 8:33~34、Ⅰヨハネ 1: 9)

何度も、サタンに振り回された経験を持つ(マタイ16:23、ルカ22:31)、主イエスの弟子ペテロは警告しています。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(Ⅰペテロ 5: 8)」と。

そしてパウロは何度も警告しています。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ 6:12)」と。そして「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ 4:26~27)」と。

ですから、私たちがキリスト者であるにもかかわらず、御言葉の権威に従わないなら、悪魔と悪霊の影響を受けるのです。現在の日本の状況を見ると、その影響が非常に大きく、テレビは、良くも悪くも人に影響を与えます。雑誌やテレビ番組の占い、スピリチャルと称する人の心を振り回すもの、それらのすべてを包含するSNSが全盛期を迎えています。しかも、それがおどろおどろしいものではなく、人間の心の琴線にふれるような優しさや癒しを与えるが故に、私たちキリスト者まで誤魔化されそうになるほど、悪霊の働きは巧妙になっています。

ですから、私たちキリスト者も油断をしていると付け込まれます。油断は、御言葉の権威を認めず、自分の思いが優先している時に生じます。しかし、私たちには、簡単に見抜くことができる基準があります。それは私たちの欲望、成功願望が基準であるかどうかです。自分の栄光を求めているか、神の栄光を求めているかどうか、です。故に、私たちは、尚一層御言葉に従うことによって、霊の目を養わなければならないのです。

ここで、日常生活の例を話しましょう。私達の日々の生活の中にも、サタンは入り込みます。サタンの好むものは、人々の悪意、怒り、悪口、批判、噂話、落ち込み、などです。ですから、いつまでも怒りの感情を持ち続けていたり、憎しみに満ちているのはサタンに支配されていると見られます。何故かというと、それらは聖霊の性質<御霊の実>に全て反した感情だからです。こういう所には聖霊は住まわれません。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22~23)」

だから、私達夫婦は最近、話をしている内にその会話の中に人への批判めいた言葉が出てきたり、悪口になっていたりすると、どちらともなく、「ああ、止めよう、止めよう、サタンが喜んでいる」と言う事にしています。私などは批判体質の人間ですから、つい、これをやり、自分で「止めよう」と言った後にまた話し始め、家内に「2回目だよ」と笑いながら注意される有様です。これくらい、私達は容易にこの誘惑に陥ってしまうものです。サタンにエサを撒くようなものです。それを思うと、結婚以来、夫婦で『人の悪口を言わない』という決め事をしている方を知っています。とても尊敬しています。では、話を戻しましょう。

本日の聖書箇所の、主イエスの悪霊追放の場面を見ましょう。第一に、悪霊は、御言葉を恐れ、御言葉を聞こうとする民の邪魔をします。会堂で大声でわめく、とは、主イエスの権威ある御言葉による教えを妨害するものです。しかし、それは恐怖にかられてです。何故ならば、彼ら悪霊は、自分を追放するお方を知っているからです。(参照;ルカ 4:41)悪霊でさえ、神の御子、救い主イエスを信じているのです。否、悪霊の方が私たちより、主イエスをよく知っていると言ったほうが良いかもしれません。「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。(ヤコブ 2:19)」ですから、私たちがどれだけ主イエスを信じているか、主イエスの御言葉をどれだけ権威あるものとして受け取っているか、すなわち信仰が問われるのです。

 第二に、主イエスは、悪霊に有無を言わせず、追い出しておられます。悪霊はすがるように言います。「私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。(34)」と。誤解を恐れずに言えば、悪霊は主イエスを信仰していなくても、主イエスが神の子であることを知っている点で、主イエスの故郷であるナザレの人々の「この人はヨセフの子ではないか(ルカ 4:22)」と言ったことに比較するならば、悪霊の方が上です。しかし、その言葉は、自分の身に危険を感じているが故の降伏宣言であり、必死の和解交渉です。つまり、あなたに決して刃向かいません。ですから、ここにいさせて欲しい、という意味です。しかし、主イエスは悪霊を叱って、「黙れ。この人から出て行け(35)」と。主イエスの救いは、中途半端なものではないからです。主イエスの救いは、御自分を犠牲にして、私たちの罪の贖いの為に、十字架で死なれたほどの、愛による、完全な救いだからです。(参照;Ⅰヨハネ 4:10、ヨハネ19:30)

第三に、主イエスは、悪霊に憑かれた人を救い出して、その痕跡を全く残させないのです。医者ルカはその様子を記しています。「すると悪霊は、その人を人々の真ん中に投げ倒し、何の害も与えることなくその人から出て行った。(35)」と。医者ルカは、その様子を「悪霊がその人を投げ倒して出て行った。」と注意深く記しているのは、当然、その後遺症が残ることを暗示しています。しかし彼には、何の後遺症もなかったのです。奇跡でしかありません。主イエスの救いとは、完全であり、何という驚くべき愛、慰めでしょうか。

そして、主イエスが「叱った」とは、人間的な叱責や威嚇を意味しているのではなく、主イエス・キリストの権威、すなわち、神の国の支配宣言です。

主イエスはガリラヤで宣べて言われました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ 1:15)」と。そして、神の国を実現された、すなわち、十字架の死から復活された、主イエスは言われました。「わたしは天においても、地においても、すべての権威が与えられています。(マタイ28:18)」と。私たちの信じる福音、それは、キリストの権威ある愛の御言葉です。カペナウムの人々は、主イエスの権威ある御言葉に驚きました。そして、彼らはその御言葉にある権威と力を見たのです。「このことばは何なのだろうか。権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは。(36)」と。

私たちキリスト者は、今この地上に生きている者です。現実は確かに、サタンと悪霊の攻撃や影響を受けています。現実の世の人々は、「空中の権威を持つ支配者、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んで」います。しかし、私たちキリスト者は、神の支配の中にあるのであって、サタンや悪霊の支配から、解放されているのです。参照;ガラテヤ5:24~25

ですから、私達は誤解されて悔しい時、批判されて悲しい時、報復するのではなく、神の権威に委ねましょう。困ったときの神頼みは、キリスト者でなくても、誰でもできます。しかしその時、御言葉に権威を見て、御言葉に信頼することは、キリスト者だけができることです。それが信仰です。そして、この信仰は、恵みとして、神からの賜物として、今、私たちに与えられているのです(エペソ 2: 8)。ですから、今週も、この恵みの信仰によって、サタンに機会を与える事なく、善意と喜びと、赦しを持って、歩んで行きましょう。