2025/6/22(日) 『新しい天と地』黙示録 21章1〜22章7節:村松 登志雄 牧師

6月の主題メッセ-ジに、何を語らせて頂こうかと祈っていた時に、心に迫る思いがありまして、今日は私達が、やがて行く天の御国について聖書から語らせて頂こうと思いました。私達は普段、天国を意識することは、あまりないかと思います。
しかし、中には大きな事故や病気を経験された方は、天国を思う事があるかもしれませんね。牧師の私が天国を意識するのは、やはり愛する信徒さんの死に際した時でしょうか。愛するその方と今は地上で別れますが、やがて天国で会えると信じてメッセ-ジを語ります。
そして、一般的葬儀では、最後のお別れの時「さようなら」と言いますが、キリスト者の葬儀では「また会いましょう」と言います。それは天国の存在を信じているからです。

では、普段の生活ではどうでしょう。思うに、キリスト者は、この世において、二重の誘惑に晒されているように思います。それはどういう事かと言いますと、まず、キリスト者でない場合、天の御国の存在を信じていない人の場合ですと、この世、今、生きている世界だけが全てになる訳です。
しかし、今の世の中、生きて行くのが大変です。生活の苦労、仕事の困難さ、人間関係の悩み、将来の不安に晒されています。

では、私達キリスト者はどうでしょう。この地上に生きている限り、同じ悩みから逃れる訳には行きません。神様を信じてはいるけれど、将来の不安はある。加えて、長生きする時代になって、老後は果たして、お金は足りるのだろうかなどと、不安になる事からは逃れられません。加えて、キリスト者故の悩みといいますか誘惑もある訳です。
それは、果たして聖書の中に書いてある事は本当だろうか?本当であるとして、どう解釈してよいか分からない事も沢山ある訳です。

本日は天の御国について、見て行きますので、それに限定しても、「新天新地」とは、どういう所だろうか、それはいつ来るのだろうか。再臨もいつあるのか、「千年王国」に関する説も沢山あります。
加えて、「携挙」の問題、「携挙」って何??空中に挙げられ、主にまみえる事ですが、歴史的にも何回もこのムーブメントがありました。
「携挙」はすぐ来る。私はそれに間に合うのだろうか?と不安を煽るような動きです。正に今、SNSなどでも、その主張をしている動画などが溢れていますし、それ等のみを主張するグル-プなども見られます。よって、心優しい兄弟姉妹の皆さんの中には、この世が課して来る、将来の備えを煽るこの世からの脅威と、もう一方のクリスチャンの中のこうした偏った説による煽りの二重の脅威に晒されて、もうどうしてよいのか分からないと、右往左往してしまう状況があるというのです。
そういう訳で、今日はしっかりと聖書から、天の御国の事、キリスト者の歩み方を見て行きましょう。

本日の聖書箇所である黙示録は、完成した神の国、すなわち新しい天と地の様子を描いています。
キリスト教会の歴史の中で、多くのクリスチャンが信仰の故に迫害され、殉教しましたが、彼らは天国(神の国)に希望を置いていました。それらの様子を描いた小説や映画も沢山あります。
しかし、迫害は今もあります。同じ今の時代、この地球上で、迫害に遭っているキリスト者が多くおられます。その私達キリスト者にとっての希望は同じです。私達は主の栄光で満ち溢れる新しい天と地において、永遠に主と共に住む希望です。本日の聖書箇所の内容をざっと見て行きます。
ヨハネの黙示録は使徒ヨハネがキリストから与えられた黙示(超自然的な幻による啓示黙示< 1: 1>)です。ヨハネは最後の審判(20:11~15)の黙示を見た後に、新しい天と地の黙示を見ます。
21章 1節「以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない)」とヨハネは語ります。
キリストにある信仰者は、新天新地において、生前の人格(個性)を持ちつつ、全く新しい栄光のからだとされます。また、被造物も神の国の完成を待ち望み、栄光の自由に与る事が約束されている(ローマ8:19,21)とあります。
新天新地の黙示の中で、教会はキリストの花嫁(黙示21: 2)として描かれています。この地上では、いろいろな悲しみや苦しみを経験するキリスト者(教会)でありますが、完成された神の国では、21章 4節には「涙は完全に拭われ、死も悲しみも叫びも苦しみもなくなる」とあります。
それは「信仰の創始者であり、完成者であるイエス(ヘブル12:2)」「アルファであり、オメガ(ギリシャ語のアルファベットの最初の文字と最後の文字)であるイエス(21: 6)」「初めであり、終わり(21: 6)」である主イエス・キリストの確かさです。私達は、この方から、命の水を頂くのです。
しかし、21章8節に列挙される、悔い改めない者たちは、霊的な永遠の死である第二の死を味わうことになります。

また、新天新地における聖なる都エルサレムとは栄光の教会の姿です。この新しい都には神の栄光が満ち溢れています。21章12~14節、都には、大きな高い城壁、12の門、12の土台石があり、門にはイスラエルの12部族の名が刻まれ、土台石には12使徒の名前が刻まれています。
それは、旧約、新約時代の神の民が一つとされ、新しい都を形成することだろうと思われます。
都が数々の宝石で造られていることが描写されていますが、その光景は、私達が今の世界で見るどんな美しいものにも勝るものだと思います。

21章22節、ヨハネは都の中に神殿を見なかったと記しています。
これは全能の神である主と子羊(キリスト)が都の神殿だからです。

神殿は神と人が会う場所ですが、新しい都全体に主の臨在が満ち溢れ、何処にいても、主と出会うことができる為、特定の場所に建てられる神殿は、もはや必要ないのです。
21章23節、更に、都は神の栄光で照らされ、キリストが都の明かりであるため、夜がなく、もはや太陽も月も必要ない訳です。

しかし、主の栄光が満ち溢れるこの都は、誰でも入れる訳ではありません。
21章27節、主イエスを信じ「子羊のいのちの書」に名前が記された者だけが、入ることができるとあります。でも、信じれば名前が記され、天の御国に入ることができるのです。
ここにしっかり書いてあります。信じましょう!
そして、ここから完成された神の国(平たく言えば天国)にあるものとないものがここに記されています。まず、ないものを見て行きましょう。
21章 4節、ないもの、それはまず、涙です。その次は死です。悲しみ、叫び、苦しみもありません。
主イエスは、ルカの福音書6章21節で、「今、泣く者は幸いです。やがて、あなた方は笑うから」(新改訳第3版訳)と言われましたが、「やがて」というのは、この時です。
その理由は「以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」と書いてあります。
つまり、この世にあるものが、新天新地においてはないということです。私達は現在、この世に住んでいます。この世は、罪と死と悪魔が支配しています。
その為、人間が生きて行くうちに、涙、死、悲しみ、叫び、苦しみが必ず伴います。「何故、こんなことが起こるのですか?」と叫んで生きています。
善人であろうと、悪人であろうと、災難が降りかかるのが、この世の常です。しかし、新天新地においては、神様は完全な秩序を与えて下さいます。

また、他に新天新地にないものは何でしょう。黙示録22章 3~ 5節「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。
また、彼らの額には神の御名が記されている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。」とあります。
詳訳聖書には、「のろわれたもの」とは「不潔な、不快な、不純な、憎まれる、いやらしいもの」と訳されています。ですから、そこには神さまが忌み嫌われるものが存在しないということです。
のろわれたものの根源は、サタンすなわち悪魔です。
また、黙示録21,22章には新天新地に入れない人たちのリストがあります。3か所ありますが、それらに共通して出てくるのは、人を殺す者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを行う者、とあります。これらの罪は神様が忌み嫌うものです。
また、新天新地には太陽も月もありません。何故なら、神の栄光が都を照らすからです(黙示21:23)。

そして、いよいよ新天新地にあるものを見てみましょう。
「あるもの」とは何でしょう。
黙示録21章 3節で「見よ、神の幕屋が人々とともにある。・・・・神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」と宣言されています。Ⅰコリント13章12節に「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」とありますように、神様の存在をより身近に見ることができるのです。

次にあるのは、22章 1~ 2節、「いのちの水の川」と「いのちの木」です。ここでの描写は創世記のエデンの園と非常に対照的です。かつて、エデンの園にも、いのちの木がありましたが、アダムとエバが罪を犯したことで、人はそこには近づけなくなりました(創3:24)。
しかし、天国ではアダムの罪によって、失われたものが回復され、キリストと共に豊かな祝福の中で永遠に生きるようになるのです。エゼキエル47章12節にもいのちの川といのちの木のことが預言されています。
そして、天の御国で私達は栄光の体を与えられ、主と共に味わう多くの楽しみがあり、主イエスと共にある世界は、光と喜びと楽しみに満ちているのです。このように完成した神の国において、神と子羊の御座が都の中心にあって、神のしもべたち(キリスト者)が神に仕える(礼拝する)のです。
22章 4節、そして私達の額には神の御名が記されるとあります。刻印されるのです。
これこそ真のタトゥーではないでしょうか。それは神が一人一人を愛し、価値ある大切なものとされている事を意味します。子ども達が自分の大切な物に自分の名前を書くように、神様もまた私達に、ご自身の名を記し、ご自分のものとして下さるのです。
そして、驚くべきことに、私達は天国において、キリストと共に神の国を治める王、共同相続人とされる(Ⅱテモテ 2:12,ローマ 8:17)のです。
どうですか?素晴らしいではないですか。これだけのことが約束されているのです。

ここで、具体的に天国についてのエピソ-ドをいくつか紹介しましょう。
「天国は本当にある」という実話(2003年3月)本があります。そこには、重病で意識を失った4歳の子どもが、目を醒ましてから、語った多くの言葉を、その子の父親である牧師が驚きながら書き留めたものです。それは、その子が絶対知り得ない召された人達(流産した二番目の姉等)のことが語られ、両親はその子の言葉が真実であることを確証したのです。
また、同じく実話であり、その映画「君が還る場所(90MINUTES IN HEAVEN)」を、この教会でも上映したものですが、ある牧師の体験(1989年1月)です。それは、大事故で一度は亡くなり、通りかかった牧師がその牧師のために祈り、その90分後に奇跡的に息を吹き返したその牧師は、最初は誰にも話せなかったのですが、親友に「天国を見た。」と打ち明けます。その親友に「天国を見せた後、生き返らせたのは、それを広く伝えさせる為だったのではないか」と言われ、人々に天国の存在を伝え、神を信じるようにと宣教する使命を与えられた者として、そのことを伝え続けているということです。

また、身近なところでは、私の妻も先の大きな病気で一度は死にかけましたが、病を癒された後、確かに彼女は変わりました。きっと神様との間で何かを経験したのでしょうが、あまり詳しくは語りません。きっと神様と自分の事として大切にしたいのでしょう。でも毎日一緒に生活していると分かります。一つ一つのことを確信を持って、力強く行っています。
そして、生きることにより積極的になりました。内側に何か光り輝く大切なものを頂いたように思います。そして、私のことを一生懸命支えてくれます。だから、私も彼女にインスパイアされ、老いた体ですが、精一杯神様にお仕えしようと力を与えられています。
さて、夫バカはこれくらいにして、話を戻しましょう。

そういう訳で、死は怖いものではありません。天国への希望があります。
地上における不安に慄くことはないのです。そして、今もキリストがこの地上生活において、共にいてくださるのですから。インマヌエルの主が!
そして、キリストの再臨、掲挙、新天新地、その日がいつ来るのかと怯える必要はないのです。
「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:36)とあるのですから。
しかし、22章 7節「わたしはすぐに来る」ともありますから、要するに神様の時間は人間には分からないのです。ですから、備えつつ待ちましょう、信じましょう!
そして、今生かされている地上での生活を大切にしましょう。
あなたには、あなたにしかできないことが必ずあります。
だからもし、明日この世を去るとしても、変わらず、人々に親切にし、目の前にある事に淡々と励みましょう。
そして、今の地上の人生を共に祈り合って、今日一日を感謝して、助け合って歩んで行きましょう。
アーメンですか?ではご一緒にア-メンと言いましょう!。