2025/6/1(日) 『この人を見よ』ルカの福音書 4章1〜13節:村松 登志雄 牧師

今日から6月に入りましたね。学生の皆さんは衣替えでしょうか?さて、私は先週、とても嬉しい事がありました。神様がいらっしゃる事がリアルに分かる出来事があったのです。また、先週の礼拝も大変恵まれましたね。みことばが残りました。そして、それを受けて行動の変容も見られました。家内は「メッセ-ジを聴いて自分は何をすべきか示されたので、私はそれをして来る。」と言って月曜日に出かけて行きました。何処へ何をしに行ったんでしょう、、、私は特に聞きませんでしたが、きっと家内と神様だけが知る事だったんでしょう。皆さんにも何かがあったのではないでしょうか?

さて、前置きが長くなりましたが、今日はまたルカの福音書に戻ります。それでは前回の所までおさらいをしましょう。荒野で悪魔の誘惑を受けられた主イエスは、ガリラヤ地方で宣教を始められました。主イエスの宣教の働きは、主に福音を宣べ伝える事と、多くの病人を癒す事の二つでした。ある日主イエスはナザレに行きました。ガリラヤ地方にあるこのナザレという土地は主イエスが育ち、大工であった父ヨセフを手伝って働き、ヨセフの死後は未亡人となった母マリアと四人の弟達と数人の妹達を支えた懐かしい故郷でした。そんなある日、主イエスは他のユダヤ人と同じように、安息日にナザレの会堂でユダヤ教の礼拝に出席されました。礼拝が進んで聖書朗読と説教の時が来ると、主イエスは立ち上がり、壇上に立って、渡されたイザヤ書の巻物を開き、イザヤ書61章1節~2節を朗読されました。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。(18~19)」と。ここまでが前回の内容でした。イザヤ書のこのみことばは前回詳しく説明しましたので、ここでは省略しますが、このみことばの内容は、実は、もの凄く大きな事実を含んでいるのです。

21節、主イエスは人々に向かって話し始められた「あなたがたが耳にしたとおり、今日この聖書のことばが実現しました。」と主イエスはみんなの前で高らかに宣言されたのです!! 言ってしまったのです!これは、とりもなおさず、「わたしがそれだ」と。主イエスご自身が「ご自分こそがその救い主キリストである」と宣言された事にほかならないのです。何という大胆な宣言でしょう。ユダヤ人達がずっとずっと待ち望んでいた救い主が、キリストが、今、目の前にいる自分なのだ、と言い切った訳ですから。ユダヤ人にとって、キリストもしくはメシアはユダヤ人待望の救い主であって、自分がキリストであると自称する事は許されない事でした。その宣言を聞いた会堂にいたユダヤ人達の反応が本日の箇所です。22節、「人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、『この人はヨセフの子ではないか』と言った。」とあります。この「ほめ」ということばが紛らわしいのですが、欄外註にもありますように、「ほめ」あるいは「証言し」「確認し」とありますので、主イエスについて、あれこれ検証したとも解釈できます。あるいは、話した内容は「素晴らしい」と、聖書の教師としては認めたけれど、「でも、あれはヨセフの子ではないか」とその出自を問題にしたのです。ユダヤ人達は、非常に血縁、地縁を重んじる人々です。その血統による者でなければ、重要な役を引き継ぐことができないという本当に閉鎖的な社会でした。ですから、小さい時からよく知る、あの大工のヨセフの小倅ではないか、取るに足らない、尊敬にも値しない、という大変侮蔑的な思いがあった訳です。福音記者マルコも、ナザレの人々が「『この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。』こうして彼らはイエスにつまづいた。(マルコ6:3)」と記しています。また、ナザレという地名は、旧約聖書には登場せず、主イエスの時代になって登場するのですが、主イエスに出会って弟子となったピリポが、友人ナタナエルに、救い主イエスがナザレ人であることを伝えた時、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか。(ヨハネ 1:46)」と言っているので、当時は、あまり重要視されていなかったようです。いつの時代もそうですが、人の世は比較社会です。当時のユダヤ教社会における指導者は祭司や律法学者達ですから、何の肩書きもない主イエス<ヨセフの小倅>が、何でそんな宣言ができるのか、という雰囲気ではなかったか、と思います。また主イエスが23節「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」と言っておられるので、おそらく会堂では、そんな雰囲気のつぶやきがあったのでしょう。

では、ナザレの人々のつまづきの原因とは何だったのでしょう。それは第一に、彼らの偏見、先入観、思い込みではないでしょうか。しかし私達は、彼らを笑うことができるでしょうか。その場にいたら私などは一番に批判し始めるのではないかと思います。私達は自分の基準で、自分の知識の範囲で、何かを知っているつもりになっていることがほとんどなのです。 パウロもこう宣べています。「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。(Ⅰコリント 8:2)」と。かのソクラテスも「無知の知」という事を言っていますね主イエスは弟子達に宣べておられます。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国には、入れません。(マタイ18:3)」と。子ども、特に幼児は大人に保護されなければならない無力で弱い存在であり、また無知です。しかし無知なるが故に、大人の言うことをそのまま信じる素直さがあります。この子どもたち自身が意識していない、特に幼児のあらゆる意味での小ささ、を、大人は学ばなければならないのです。それを一言で言うなら、「謙遜」です。そして、謙遜でない者は、決して御言葉<聖書>を真に理解することはできないのです。自分は自分の思考によっては何も理解出来ない者であることを知る者こそ、御言葉を御霊の助けによって、真に理解することができるのです。

さて、彼らのつまづきの第二の原因は何でしょう。それは自分の期待に合うか合わないかの基準で、物事を考え、見ることではないでしょうか。神中心ではなく自己中心の故です。主イエスがカペナウムで行われた数々の奇蹟の噂、それは当然、ナザレの人々が期待していたことです。その期待自体が間違っているということではありません。しかし主イエスは、彼らの期待の中にある自己中心性を見て、奇蹟を行わなかったのです。しかし、厳密には何も行わなかったのではありません。それが証拠に福音記者マルコは、「それで、何人かの病人に手を置いて癒されたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。(マルコ 6: 5~ 6)」と記していますから。しかし自分の期待を中心とした、すなわち神中心ではなく、自己中心による求めは、神の御言葉でさえ自分に都合良く引き寄せてしまい、神の御言葉を神の御言葉として受け入れることができなくなるのです。

私達は、神の御言葉を、本当に「アーメン<その通りです>」として、受け取って、受け入れているでしょうか。自分の期待に合うなら、受け入れ、自分の意に反するなら、拒否する、ということはないでしょうか。ナザレの人々は、自分の期待通りに行わないイエスに対して不満を抱くようになっていたのです。カペナウムで行った奇蹟を、この郷里でこそ行え(23)、それならば信じてやる、という思いで。自己中心によるその奇蹟の求めは、素朴な信仰で、すなわち、主イエスに感動し、熱心に求めることとは、雲泥の差があるのです。

さあ、彼らのつまづきの第三の原因は何でしょう。それは自分の罪を認めない、自分の罪性を見ない、ことではないでしょうか。主イエスを救い主と信じる心の目が開かれなかったのは、彼らが自分達のことを、この朗読されたイザヤ書の「貧しい人」「捕らわれ人」「目の見えない人」「虐げられた人」であることを覚えなかったが為でしょう。自分の真の姿に目を閉ざしていたからでしょう。次に、24節、主イエスが「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。」と言っておられますが、この24節の御言葉は、イスラエルの歴史的事実を示しています。旧約聖書には多くの預言者が登場しますが、彼らのすべてが、神の御言葉を真っ直ぐに語ったが故に、自分の郷里<国>の人々に歓迎されなかった事実があるのです。その具体例として、主イエスは25節から27節で、イスラエルの歴史、聖書の事実を宣べておられます。神が、預言者エリヤを遣わして、神の民イスラエルではなく、異邦人のシドンのツァレファテのやもめの女性だけを助けられたこと(Ⅰ列王17: 1~24)と、また預言者エリシャが、神の民イスラエルのツァラアトに犯された人々ではなく、異邦人のシリヤのナアマン将軍だけが癒された(Ⅱ列王 5: 1~19)ことを。この二つの事件が、歴史的事実にもかかわらず、この時この会堂にいたナザレの人々はこれを聞いて怒り出しました。「憤りに満たされ(28)」とあり、主イエスを殺そうとまでしました。何故、これほどまでに怒ったのでしょう。それは、自分達神の民が侮辱されたと理解したからです。主イエスが、神は御自分の民イスラエルよりも、異邦人を愛しているのだと言っていると、誤解したからです。

しかしナザレの人々は、二つの誤解をしています。一つ目の誤解は、神はイスラエルの民だけを愛しておられる、という誤解です。誤った選民意識です。神の民とされたのは、彼らに、その資格があったわけではありません。一方的な神の選びです。この神の選びは、私達キリスト者も同じです。そして二つ目の誤解は、神が、神の民イスラエルではなく、異邦人の民を助けたのは、神が異邦人の民を愛し、御自分の民イスラエルを嫌ったからだという誤解です。しかし決してそうではなく、そのことによる妬みをイスラエルの民に起こさせる為だったのです。それ程までに神はイスラエルの民を愛しておられるのです。「妬みをイスラエルの民に起こさせる為」というのは、自分達は神の民であるのに、何故神は異邦人に御顔を御向けになったのだろうか、と考えさせる為です(申命記32:21、ローマ11:14)。それを真剣に考えるなら、自分達の神への背信の罪に気づくはずだからです。しかも、主イエスが宣べられたことは、フィクションではなく歴史的事実なのです。何と毎週の安息日に、会堂で御言葉<の朗読>を聞いているナザレの人々は、御言葉を聞いていながら御言葉を聞かず、御言葉を御言葉として受け入れてはいなかったのです。第一のつまづきの原因と第二のつまづきの原因が第三のつまづきの原因に至るのです。自分の偏見、自分の期待、あくまでも「自分」「自分」というその中心性によって、自分の罪を見ようとしないのです。

そして「預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。(24)」という御言葉は、主イエス御自身がその究極者として経験されたのです。あのナザレから十字架への道へと行くことによって。福音記者ヨハネは、主イエス・キリストの生涯と、十字架の罪の贖いによる恵みを証言しています。「この方<主イエス・キリスト>はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。(ヨハネ 1:11~12)」と。そして私達は、決して忘れてはなりません。私達の主イエス・キリストは、御自分を否み、殺そうとまでしたナザレの人々の為にも、十字架で死なれたことを。ですから、今、私達はイスラエルの人々のために祈らなければなりませんね。

そして、最後に主イエスは、怒りに任せて主イエスを崖から突き落そうとした人々のただ中を通り抜けて去って行かれた(30)、とありますよね。何とカッコいいお姿でしょう。汚い思いで、主イエスに摑み掛かろうとした者達の手をするりと通り抜けられて、、、これはまだ重要な仕事を終えてない主イエスにとって、ここで彼らと関わっている暇はないと、神の御子の力を発揮されたのではないかと思います。ここまでが本日の聖書箇所ですが、

さあ今、私達は心新たに、自分に問わなければなりません。私達にはナザレの会堂にいた人達のような「知っているつもり」はないでしょうか。私達は、乱視気味のサングラスをかけて、主イエスを見てはいないでしょうかと。神の御言葉を神の御言葉としてひれ伏して聞いているでしょうか。自分の期待を中心にし、すなわち自己中心によって神の御言葉を自分の都合の良いように解釈し直してはしていないでしょうか。自分にとって喜ばしい御言葉のみを受け入れ、自分にとって厳しい御言葉を受け入れようとしない頑固さはないでしょうか。神の御前で「砕かれた霊、打たれ、砕かれた心(詩51:17)」を持ち続けているでしょうか。

何よりも私達は、本当に、主イエス・キリストを信じているのかと自分に問いましょう。罪の無いお方、神の御子が、私の罪の贖いとして十字架で死なれる為に生まれたという事実を、その測り知れない神の愛を、この愛を心の底から信じて受け取っているのか、と。

もし、その愛を受け取っているなら、私の信仰生活に具体的にどのように現れているでしょうか。『そうだ、あの人に神様の愛を伝えに行こう』と心に迫る思いはありませんか?。直接的な言葉でなくていいんです。『あの人に謝ろう』これも神の愛の表れです。『私は教会をきれいにしよう』これも神の愛の表れです。『私は夫を許そう、妻を許そう』これも大きな愛の表れです。そのようにして、私達は今週もまた主イエス・キリストを見上げ、いただいた愛を周りの人に分かち合って行こうではありませんか。