2025/5/4(日) 『 信仰の勝利者』ルカの福音書 4章1〜13節:村松 登志雄 牧師

しばらく間が空きましたが、今日はまた、ルカの福音書から見て行きましょう。前回3月16日「悪魔の誘惑」からの続きです。では、前回のお話を振り返ってみます。主イエスは、民衆と共にバプテスマのヨハネからバプテスマを受けて(ルカ 3:21)、聖霊の満たしと父なる神の祝福によって、王<救い主>としての即位式を受けられました。ところが、その祝福の後に、主イエスには、悪魔の誘惑<攻撃>が待っていたのでした。それは、神の御子であり同時に人である、主イエスに立ちはだかる最初の関門、誘惑でした。

この誘惑は、人類の始祖アダムとエバを誘惑して勝った悪魔が、第二のアダムとしての主イエスを誘惑するものでした。ご存知のようにかつて、人類の始祖アダムとエバは、悪魔の誘惑に負けて、全ての恵みの自由の中に置かれながら、たった一つの神との約束を破り、神から隠れる<神から離れる>者となりました。(創 2:16~17、 3: 1~15)。

そういう訳で、第二のアダムとしての主イエスは、もう一度、この罪が入る前、すなわち、神の被造物としての「人間の原点」から始めなければならなかったのでした。悪魔の目的を覚えていますか?それは、最初のアダムと同じように、人となられた主イエスに罪を犯させることでした。父なる神から御子イエスを引き離して、自分の支配下に置いて、主イエスの救い主として道、すなわち、私たち人類の救済、罪の贖いとしての十字架への道を閉ざすことでした。

これも前回のおさらいですが、悪魔の第一の誘惑は何でしたでしょう。それは、40日間の断食の後のお腹が空いた状態の主イエスに対して、「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。(3)」というものでしたね。しかし、主イエスはこの誘惑の言葉に対して、「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」と言って、申命記8章 3節の御言葉「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きる。」を引用され、悪魔の誘惑を退けられました。人となられた主イエスは、神の御心なら餓死するも良し、生きるも死ぬも神の御手にある<それは、私達人間が「生きている」ことの本質が、自分で生きているのではなく、神によって「生かされている」>のであり、故に決して、御自分の思いで行うことはしない、神はわたしに最善をなして下さる、という信仰によって、その誘惑を退けたのでした。

さて、ここからが本日のメッセ-ジです。今日は悪魔の誘惑が三つある中の二番目と三番目を見て行きます。まず、第二の悪魔の誘惑は、どういうものでしょう。ここから悪魔はかなり露骨になり、神ではなく、自分を礼拝させようとします。悪魔は主イエスに「国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげる(6)」と言って誘惑し、その条件を、「もしあなたが私の前にひれ伏すなら、(7)」としています。

悪魔は、「この世に君臨する俺様(エペソ2:2)と手を組んで、俺を利用すれば、お前の目的とする平和な世界、人類救済も、あっという間にできることではないか。何でも、いちいち神にお伺いをたてて、面倒で、苦労の多い道をわざわざ行くことはないじゃないか。」と、神の御心に反する、てっとり早い成功主義に誘っているのです。しかも、「私が望む人にあげる」と言うのも悪魔の嘘です。何故なら、全世界、及び全てのものは、天地創造の神の被造物であって、全て主に帰するものだからです。

それに対して主イエスは、「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。(8)」と言われました。主イエスが、悪魔の誘惑を退けたこの御言葉も、申命記6章13節の御言葉「あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。(また、御名によって誓いなさい。)」からの引用であって、その後に続く御言葉は「ほかの神々に、すなわち、あなたがたの周りにいる諸国の民の神々に従って行ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主はねたみの神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを大地の面から根絶やしにされることのないようにしなさい。(申6:14~15)」という御言葉でした。

罪人である人間というものは、全てのことにおいて、自分の思い通りになることを常に願う者です。ところが、主イエスは違います。あのペテロが主イエスの十字架の死の預言を聞いた時に、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。(マタイ16:22)」と言って、イエス様を自分の方にに引き寄せて、諫め始めたとき、主イエスは「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(マタイ16:23)」と、ペテロを叱責されましたね。

私達罪人は、神の御言葉に従うよりも、何と自分の思いに従うことが多い者でしょうか。しかし主イエスは、罪人の私達のために、罪に打ち勝つ勝利の道を示して下さったのです。それもただ御言葉に従うことによってです。

さあ次は三つ目の誘惑を見て行きましょう。第三の誘惑においては、悪魔は、これまで主イエスが御言葉によって答えられるのを見て来たので、今度は自分も御言葉を用いて誘惑しました。主イエスを神殿の屋根の端に立たせて、「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。『神は、あなたのために御使いたちに命じて、あなたを守られる。彼らは、その両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする』とも書いてあるから。(10~11)」と言いました。

悪魔が引用したのは、詩篇91篇11~12節の御言葉です。神の御言葉に信頼するというのなら、その通りにして見せろと言うのです。それをしなければならない必要など何もないのに、主イエスに、わざわざ危険な挑戦をさせて、神は守って下さるはずだと言って誘惑しているのです。神を自分の都合の良い道具にさせようとしている訳です。

この悪魔の誘惑は、最後の最後まで続きます。あの十字架上の主イエスを見ていた民衆とユダヤ教の指導者達が「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。(ルカ23:35)」と言ったあの嘲りがそれです。

悪魔は再び、「お前は隣人愛を説きながら、お前の愛する民衆の期待を裏切るのか、」と誘惑するのです。そういう訳ですから、荒野での悪魔の誘惑というのは、何としてでも主イエスが罪の贖いの為に十字架への道を行くことを阻止する為の誘惑なのです。

しかし、ここでも主イエスは、同じく申命記のみことばを引用してお答えになりました。「『あなたの神である主を試みてはならない。(申6:16)』と言われている。(12)」と。

この申命記の御言葉には、「あなたがたがマサで行ったように、」と記されています。「マサで」というのは、イスラエルの民が、荒野で水がなくなった時、モーセに詰め寄って彼を撃ち殺そうとして「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みた(出17:1~7)事件のことを言っています。この第三の誘惑に対しても、主イエスは絶対的な父なる神への信頼と神の御言葉によって、神の御心に従い、悪魔の誘惑をみごとに退けています。

そして主イエスは、悪魔の誘惑に対して、三度も申命記のみことばを引用されました。申命記というのは、出エジプト記と民数記の内容を含んでいます。その内容は、神がイスラエルの民を約束の地に入らせようとして、神の御言葉をもって導かれたにもかかわらず、イスラエルの民は初めから終わりまで、神の御言葉に信頼せずに従わなかったその姿が記されています。しかし神は、繰り返し、繰り返し、神の御言葉こそ真実であり、確かな約束であることを示し、主に信頼することこそ、イスラエルの民の祝福であることを、モーセを通して告げられました。

しかも、主イエスは悪魔の誘惑に対して、神の御子であるのに、神の御子としての不思議な力<奇蹟>をお用いにならずに、ただ神の御言葉だけで悪魔と戦われた事実です。その事実は、私達キリスト者に勇気を与えるものです。それは特別な能力によってではなく、御言葉、すなわち聖書によって、私たちは悪魔に勝利できることが約束されているからです。

しかし、注意すべき点は聖書知識があれば自動的に悪魔に勝利できるわけではありません。また、あらゆる誘惑の場面を想定して、それに対処できる言葉を覚えれば悪魔に勝利できるわけでもありません。もちろん、神のみことばに精通していることは大事なことです。そして、いつも聖書に親しむことが必要です。みことばを食べるとも言いますように、聖書は私たちの霊の糧です。それでも、聖書に精通している人が必ず悪魔に勝利するということにはならないのです。

ではここで、悪魔の誘惑に対して主イエスがどのような心構えと準備で臨まれたかをもう一度思い出して下さい。それは第一に、聖霊に満ちておられました(ルカ4:1)。第二に、四十日間断食して祈られました。神の御子である方が、人としてこれほどの準備をなさって、悪魔と対決しておられるのです。そして、確かに、主イエスは御言葉をもって悪魔を退けましたが、それは、父なる神への絶対的信頼を持っておられたが故のみことばの引用です。そういう訳ですから、私達が御言葉を用いる時は、その自分の中に神の御心以外に全く何もないか、自分の欲望、主張がないか、をいつも自分に問わなければなりません。

さて、いよいよ次は実践編です。悪魔の誘惑の内容は、実は私たちの日常にもいつもあるものです。では、それに対してどのような姿勢で臨めばよいでしょうか。

それにはまず第一に、私たちは神のみこころを確かめて行っているか、と問うことです。どんなことでも祈って待ち、確信を持って行っていきましょう。

第二に、世俗世界の成功主義に振り回されてはいないだろうか、と問うてみることです。現在は、教会の中にさえ世俗の成功主義が入り込んでいると警告されています。

そして第三に、禍、病気、不幸、苦しみに遭う時、他の人に、「あなたは神を信じているのに何故?」と問われたとしても、「神は私に最善をなしてくださる(ローマ8:28)」と、自分に対しても、他の人に対しても、確信を持って答えることができるほど神を信頼しているかを、いつも自分に問うことです。

しかしまた、どんなに熱心であっても自分の力で悪魔の誘惑に勝利することはできません。聖霊に満ち、徹底的に祈られ、父なる神への絶対的信頼を持っておられる救い主イエスのみが、悪魔の誘惑に勝利できるのです。

このように主イエスは、悪魔の誘惑に勝利する模範を見せて下さいました。父なる神への絶対的信頼、それが「信仰」です。主イエスは、この荒野での悪魔の誘惑に対する勝利によって、私達に信仰とは何かを見せて下さったのです。

ですから私達は、悪魔の誘惑に陥らない為に、困難な時、苦しい時、どんな時でも自分や人に向かうのではなく、すぐに「イエス様、助けて下さい。御言葉を教えて下さい。イエス様ならこんな時どうなさいますか?神様の御心はどこにありますか?」と尋ねることが、唯一の方法です。

私たちは、一時でも主イエスから離れるならば、光の御使いに変装し(Ⅱコリント11:14)、御言葉さえ用いる悪魔の誘惑に簡単に打ち負かされることを肝に銘じなければなりません。参照;ヨハネ15:4~6

しかし、私達は悪魔に勝利できるのです。聖書は私達にその保証を与えています。「世<サタン>に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者<私達キリスト者>ではありませんか。(Ⅰヨハネ5:5)」と。主イエスを神の御子と信じるとは、父なる神への絶対的信頼と服従によって、私達の罪の贖いのために十字架に死んで、その罪の死に勝利し、復活された主イエスを信じることです。

この信仰をもって「信仰の創始者であり完成者である主イエスから、目を離さないで(ヘブル12:2)」今週も歩んで行こうではありませんか。