本当に気持ちの良い季節になりましたね。先週行われたジ-ザスマ-ケットには、溢れるばかりの人を与えていただきました。これがこの地域の伝道の機序となることを願っています。
さて、先週はすさまじい悪魔の誘惑を見て来た訳ですが、その後イエス様はどのような事をなさったのでしょう。本日の箇所に入ります。御霊の力を帯びた主イエスは、荒野での悪魔の誘惑を退けられた後、ガリラヤ地方に帰られました。すると、その評判が周辺一帯に広まり(ルカ 4:14)、彼らの会堂で教えられ、すべての人々に賞讃された(ルカ4:15)、とあります。
主イエスが多くの会堂で教えられた、ということは、イエス様はガリラヤ地方の多くの人々に「ラビ<ユダヤ教の教師>」として認識され、その評判が高かったことが分かります。その評判とは、その教えだけではなく、多くの奇蹟、癒し等も含まれていると思われます。 何故なら、ルカは 4章23節で、ナザレの会衆が「カペナウムで行われたこと」、すなわち、奇蹟を期待している様子を記しているからです。
主イエスは御自分の郷里ナザレに帰られると、いつものとおり安息日<今日の金曜日の夕方から、土曜日の夕方まで>に会堂に入られると、預言者イザヤの書が手渡されたので、イザヤ書61章 1節から 2節の箇所を朗読されました。当時のイザヤ書は巻物<死海写本では 7、 5メートル>ですから、その箇所を開くにもかなりの時間が掛かります。会衆は固唾を飲んで、じっと主イエスのご様子<右から左へ横書きした書を左手に巻物を持って右手で巻き込んでゆく>を見ていたに違いありません。そして主イエスは、その箇所を巻き開くと、山上で説教されたように、遠くまでとどくその声によって朗読されました。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人々に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。(18~19)」と読み上げられました。。
「主の恵みの年」というのは、レビ記25章10節のヨベルの年を意味しています。「あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ家族のもとに帰る。(レビ25:10)」この「ヨベルの年」は、七年に一度、安息の年があり、その年には畑を休ませ、農作物を造らないという主の律法がありました(レビ25: 1~ 5)。それは奴隷や在留異国人の貧しい人達に対する配慮でもありました(レビ25:6~7)。そして、「七」という数字は完全数であり、それに七倍をして四十九、それに一つ足して五十年毎に「ヨベルの年」という解放の年がありました。その時には、奴隷も無償で解放されるのです。貧しさの為、先祖の土地を売り、それでも借金を返せない者は、自分か自分の子供を奴隷に売るのです。本当に悲惨な状態、貧しさです。 しかし、「ヨベルの年」には、その一切の借金が棒引きにされ、この貧しいすべての人々が解放され、それぞれの家族の許に帰ることが赦されるのです。この信じられないような、素晴らしい制度は、何を意味しているのでしょう。それは、世界の救い主、主イエス・キリストの来臨と十字架の罪の贖いを意味しています。この罪の世界に救い主がおいでになり、人間の歴史の中で積み上げられてきた「罪」という、決して自分の力で返済出来ない借金を棒引きにされることです。「罪」という主人から、解放され、もはやその「罪」という主人に支配されない、神の民としての自由人となって、自分の家、すなわち神の家に帰ることができる、という救いの時を意味しています。
主イエス・キリストは、その救いが、今この聖書の言葉を聞いているあなたがたに実現したのだ、と宣言されたのです。ルカが記した引用文、イザヤ書61章 1節から 2節の原文には「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒すため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年、われらの神の復讐<神の敵に対するさばき>の日を告げ、全ての嘆き悲しむ者を慰めるために。」とあります。「油を注ぐ」というのは、神の使命を遂行する為の神から与えられる賜物です。それは、旧約聖書の時代には、主なる神によって、預言者、祭司、王に任命された者に注がれました。そして、その油注がれた究極のお方が、ユダヤ人が待ち望んでいた、やがて来られる救い主、王の王であり、大祭司であり、大預言者、すなわち、主イエスです。そういう訳ですから、主イエスが「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のこのことばが実現しました。(21)」と言われたのは、主イエス御自身が、御自分がその救い主である、と宣言されたことになります。
では、その「主の恵みの年」の宣言、「福音」すなわち「救い」が、どのような人々に与えられるのかに注目しましょう。主の恵みが与えられるのは、「貧しい人」「捕らわれ人」「目のみえない人」「虐げられている人」です。
では「貧しい人」とはどの様な人でしょうか。イザヤ書の「貧しい者(イザヤ61: 1)」とは、直接的には、ヨベルの年に借金が棒引きにされる人々のことでしょう。しかし、この「貧しさ」とは、経済的な貧しさだけの意味ではありません。主イエスは山上で、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。(マタイ 5: 3)」と、「良い知らせ(イザヤ61: 1)<福音>」をお告げになりました。
マザー・テレサ姉がバブルの絶頂期の日本に来日したとき、その繁栄している日本を見て、「貧しい国」と言ったことは、良く知られています。経済的に豊かであっても、その本質は貧しいのです。心の貧しい人々は多いのです。しかし、それに気づいていない人が多いのです。ですから「心の貧しさ」とは、内面的、精神的な貧しさ、霊的な貧しさ、のことです。そして、「捕らわれ人」「目の見えない人」「虐げられている人」も、その悲惨さの本質は、同じです。ですから、最も重要なことは、主イエスの福音を聞いた者が、自分の内面の貧しさ、悲惨さを知ることではないでしょうか。次回に見て行きますが、ナザレの人々は、主イエスの福音を聞いても、自分の内面の貧しさを知ろうとしなかった為に、その恵みを受け取ることができなかったのです。
「目の見えない人」についても、単に目が見えない、という体の不具合、のことだけではないのです。生まれつきの目の見えない人を見た主イエスの弟子達が「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」と、心ない質問をしました。その目の見えない人は、単に、目が見えないという体の不具合だけでなく、虐げられた人であり、心を傷つけられています。(参照;イザヤ61: 1「心の傷ついた者を癒すため」)
それに対して、主イエスは答えて言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」と。そして主イエスは、その目の見えない人の目に、御自身が地面に唾をして作った泥を塗りました。しかし主イエスは、目の見えない彼の手を引いて連れて行くのではなく、独りで「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と言われたのです。そして、その目の見えない人は、「目が見えるようになること」を願って、主イエスの言われた通りにしました。すなわち、主イエス・キリストを信頼して、目が見えるようになり、癒されたのです。しかし、ユダヤ人達、特に神の律法を守ることで熱心なパリサイ人達は、その奇蹟の事実を認めようとしませんでした。主イエスは、その頑ななパリサイ人達に言われました。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」と。するとその皮肉にもとれる主イエスの御言葉に反応したパリサイ人達が質問しました。「私たちも盲目なのですか。」と。主イエスはその質問に答えて言われました。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、あなたがたは『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」と。(ヨハネ 9章)
「貧しさ」「捕らわれ人」「盲人」「虐げられること」とは、私たち人間を高価で尊い最高の存在として造り、私たちに「いのち」を与えて下さった、天地創造の神、愛なるお方から離れてしまった結果なのです。しかし、その惨めさを経験したが故に、主なる神の愛の御許に帰りたいと願うこと、その「餓え渇き」から「救い」を求めるように導いて下さる「主の恵みの年」の実現宣言を聞くことは、何と素晴らしいことでしょうか。それは「貧しい人」の解放、「捕らわれ人<囚人(イザヤ61:2)>の赦免」、「目の見えない人が見えるようになること」などの良い知らせ、福音は、罪からの解放の宣言であり、主イエスが十字架で流される血潮の「罪の贖い」を示しているからです。
そういう訳ですから、主イエスの、この「主の恵みの年」の実現の宣言を、今、私たちはどのように聞いているかが問われます。「主の恵みの年」の宣言が実現したからこそ、今日、私達キリスト者は、この世の繁栄の中での「心の貧しさ」を知り、汚れた世界(エペソ 2:1~3)の中で見えなくなっていた、私たちが帰るべき故郷(ヘブル11:16)、すなわち「天の御国」を見る目が与えられているのです。何と素晴らしいことではありませんか。私達はそれぞれの人生で、悩み、苦しみ、悲しみを経験して来ました。そして今も日々の困難と格闘しています。私達の実際の手足は動いているかもしれません。勿論、中には実際に動かない方もおられます。けれども、何か目に見えないものに縛られ、拘束されているような息苦しさを覚えたり、また目が見えると思っていても大切なことの本質が見えなくなっていたり、実際の貧困も辛いですが、心の貧しさの故に、他人と比較して、羨んだり、蔑んだり、将来のことを考えて不安に押し潰されそうになったりと、正に「心の貧しい」状態です。
しかし、私達は主の恵みの実現を聞いたのです。このことを自分自身に、また自分の家族に、友人知人に知らせたくないですか?私達も家内の友人、この教会の方々にも祈っていただいているALSを発症された友人(その方は今はもう自分の力では歩くことができないようになっています)の為に、魂の救いの為に日々祈り、メ-ルを通し、神の存在を伝えています。
このように、「主の恵みの年」の実現を聞いて受け取った私達キリスト者は、この時こそ「ナザレの人イエス」に目を注ぐように、「主の恵みの年」が実現していることを、多くの方々に伝える者でありたいと願います。
