2025/4/6(日) 『 草は枯れ、花はしぼむ、だが…. 』イザヤ書 40章1〜8節:村松 登志雄 牧師

4月の主題メッセ-ジに何を語らせていただこうかと考えていたところ、今回の箇所を与えられましたが、実は先月、私達夫婦はPBA(太平洋放送協会)の奉献式に招かれて、私の職場(埼京放送伝道協力会)もある“お茶の水クリスチャンセンタ-”に行って来ましたが、その式の礼拝で、奇しくも今日の箇所がメッセ-ジで語られていました。放送伝道という地道な働きに携わる身において、今日のようにめまぐるしく変わり、価値観、ツ-ルの変化について行けないような現状を前にすると、つくづくと考えさせられるものです。こうして考えますと、今日のように価値観が移り変わり、新しい考え方、新しい常識、それも昨日まで正しいとされていた事が、今日にはもう古くなるというような時代があったでしょうか。正に、何を信じてよいか分からない、何処に行けばよいか分からないという状況です。

さて、以上のような事を踏まえた上で、本日の箇所が語られたイザヤ書預言の背景を、見て行きましょう。預言者イザヤの属するイスラエルはかつて、ダビデ、ソロモンという王たちによる栄華を極めた広い領土を持つ国家でしたが、その後北王国イスラエルと南王国ユダに分裂し、更に北王国イスラエルはアッシリア帝国によって滅び、南王国ユダは紀元前586年にバビロニア帝国によって滅ぼされて、こうしてこのイスラエルの人々は国土を完全に失いました。  王族、貴族、技術者、労働者、大勢の人々が奴隷として敵の首都バビロンに連れて行かれました。戦いに敗れて国家が滅びるという悲惨な出来事は歴史上無数に繰り返されて来たのであり、この国も繁栄の後に没落がやって来た訳です。しかし、このイスラエルの人々にとって、更に辛い事は自分達は国を失っただけでなく、神から見捨てられたという深い絶望感の中にありました。あれほどアブラハム以来選ばれ、助けられ、守られて来た自分達が、今や捨てられて、無残にも敵国の奴隷として屈辱の中に置かれている。何故、神は私達を見捨てたのか、と悲惨な状況で問い続けたでしょう。そのような時に活躍したのが.大勢の預言者たちであり、その中でもイザヤは当時の状況を正面から見据え、必ず解放され、故郷へ帰ることができるから、と励まし、希望を語り、すなわち、神の言葉を語り続けたのです。

さて、今日の表題の言葉である「草はしおれ、花は散る。、、、」 というみことばはある種、詩的表現であり、日本人のメンタリティ-にも響く表現でもあります。まるで、平家物語の‘諸行無常の響きあり、、、’という世界観です。しかしこれは、単に植物の話ではなく〝栄枯盛衰〟栄えたものはいずれは衰える日が来る。私達の人生も華やかな日々はありますが、いずれはみな老けて、衰えて大地のちりと還って行くということを表しています。

私も先頃、齢80を迎え、優しい皆さんは私のことを「若い、若い」と言って下さいますが、誰よりも自分がよく分かっています。自分がもう若くはないということを。そしてまた、「景気の良い企業も、盛んな団体も、いずれ身動きが取れなくなり、古くなり、新しい取り組みや、活動に取って代わられてしまいます。一つの国家の繁栄であろうと文明も文化も同様に成長し、発展し、多いに繁栄して、そしてやがて終わりが来るわけです。これは万物の法則でもあり、私達の現実世界です。

価値観の変容もそうです。例えば、かつての日本では、親孝行という言葉は当たり前のように実行されて来ました。親世代は 家族のために一生懸命働きます。そして、老いて働けなくなると、子供達が当然のように親の世話をし、一生を看取る。しかし、家族関係も、社会構造もがらっと変わりました。今では親世代が老いたとしても、当たり前のように子どもに面倒を見てもらうという事が当たり前ではなくなりました。子ども世代も子ども世代で大変なのです。給料は上がりませんし、自分達が生きて行くだけで精一杯なのです。

また、物事の考え方も実に様々になって来ました。複雑で、多様で、多岐に亘るようになりました。モラル、ジェンダ-の問題、ジェネレ-ションの捉え方、あまりに多くの考え方があり過ぎて、ついて行くのが大変です。多様性を認める、というのが昨今の謳い文句ですが、果たして認め過ぎてしまってはならない問題もそこには孕んでいるようにも思います。

こうして見ると今の私たちの状況も、イザヤの時代のイスラエルと相通じる所がとても多いように思われます。誰か確実に助けてくれる約束はあるのでしょうか。社会保障も守られません。戦争は一向に終わりません。明日の保証というものはありません。その上、日本は何度かの震災に見舞われています。正に揺れ動くはずがないと思っていた地が、揺れ動き、全てを崩し壊したのです。

このような中で、人間が抱く望みは何でしょう。人々は将来の保証を求めます。これさえあれば安全、安心、一生楽に生きられるとして、求めるものは何でしょう。それは昔も今も`お金 と答えるのが人の常ではないでしょうか。いやいや、私は‘愛’だと思います、‘健康’こそが大切です、と答えられるムキもあるでしょう。そうです。人は常に変わらないもの、裏切らない絶対的なものを求めるのです。今まで、これでもかというくらい今の世の中のはかなさ、無常を語って来ましたが、またここで、聖書に戻りましょう。

イザヤ書40章は「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。―あなたがたの神は仰せられる―エルサレムに優しく語りかけよ。」という言葉で始まっています。それまでの神の民の苦しみの時が終わり「慰めのメッセ-ジ」が主要なテ-マになります。 実は、聖書の文脈から見るならば、その苦しみは背信の民イスラエルに対する神のさばきであったのです。しかし、あわれみ豊かな神は、決してさばき続けるのではなく、必ず、回復への道を備えて下さるのです。あのアダムとエバが、神との約束を破り、罪を犯して滅びるはず(永遠の死)であったにもかかわらず、神はすぐに、神の御子イエス・キリストによる救いの預言(創3:15)をお与え下さったように。それは、心の頑なな私達に対する一方的な罪の赦しの宣言と、それを受け入れるようにという神の招き(永遠のいのち)として受け止めることができます。

その文脈の中で、この「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。(8)」という聖句が登場します。

これは単に世の無常を嘆くという悲観的、厭世的な姿勢からではなく、むしろそれと対比して決して変わらないものへの前向きの信頼が、いつも意識されているのです。「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ<いつまでも変わることがない>」という確固たる信頼です。

この「私たちの神のことばは永遠に立つ」とのみことばの宣言は、旧新約聖書全体を貫いている思想の一つです。旧約聖書も新約聖書も正に神のことばが世界で唯一、いつまでも残り、いつまでも真実であり続けると宣言して止まないのです。

さて、このことばには血の通った人格があります。その人格とは、主イエス・キリストです。「荒野で叫ぶ声(3)」とは、バプテスマのヨハネ(ルカ3:4、マルコ1:3、マタイ3:3、)であり、彼が「見よ、世の罪を取り除く神の子羊(ヨハネ1:29)」と指し示したお方こそ、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1:1)」の神の御子、主イエス・キリストです。そして「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがなく(ヘブル13:8)」「この方に信頼する者は、決して失望させられることがない(1ペテロ2:7)」のです。

いつの時代も人間のやることは変わりません。悩みの本質は同じです。だからこそ、揺れ動くこの時代にあってもう一度、私たちはこの神の言葉に立ち返る必要があります。私は最近「あなたは古い!」と言われて落ち込むことがありましたが、確かに私は古いのです。ですが、神の言葉は決して古くならないのです。

私に与えられている放送伝道、TV伝道もツ-ルとして古いと言われて久しいのですが、神の言葉を伝えている、主イエス・キリストを伝えている点において、やはり古くはないのです。自分ではなく、神なのです。主イエス・キリストなのです。

皆さんは各々に置かれた立場、環境に於いて、どうしてよいか分からない、解決の方法が見つからない、人間関係に苦慮していることがあるでしょう。祈っても 祈っても打開できない固有の悲しみ、苦しみ、疑問を抱えておられる方々もおられるでしょう。しかし、イザヤの時代も、そして今の時代も変わることなく、厳然と立つ神のことば、主イエス・キリストに絶対的信頼を置いて、希望を持って歩んで行きましょう。

新しい年度の始まりです。ここで、本日は特別賛美として、聖歌397番(教会福音賛美歌436)を武田昌子姉に賛美していただきたいと思います。この聖歌397番は1923年関東大震災が起きた時、たまたまそこに居合わせたJ、Vマ-テイン宣教師が、その状況を憂え、しかし神の憐みを信じて祈るという思いで作曲された曲に中田羽後先生が詞を付けてくれたものです。

私達は度重なる震災に遭遇し、これからも遭遇するでしょう。阪神淡路大震災、東北大震災、と続き、直近では能登大地震と。しかし、その揺れ動く地に尚も十字架(主イエス・キリスト)は輝くという力強い慰めの聖歌です。

ゴスペル歌手、森祐理さんは、すでに30年が経過した阪神淡路大震災で、神戸大学で学んでいた弟さんを失いました。その悲しみの中で、彼女は変わらぬ神のみことばにすがり、この聖歌397番の賛美を歌い続け、今も、多くの震災にあった人々を慰め続けています。永遠の慰めである、神の御言葉、主イエス・キリストがおられると。