受難週を迎えました。私たちはどのような思いで、この時を迎え、過ごしたら良いのでしょうか。受難週の時、ただ感情的に主イエス・キリストの受難を思うことは意味がありません。まして、主イエスのお苦しみを少しでも自分も担わなくてはなどと思うとしたら、それは見当違いです。どうしてかと言うと、私たちがクレネ人シモンのように、ほんの一時でも、突然、主イエスの十字架(重荷)を負わされることになったら、必ず、つぶやくに違いないからです。受難週の時は、主イエスのお苦しみを、ただ思う時ではなく、主イエスの受難は何のため<誰のため>であったかに思いを巡らす時なのです。
17節に“イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴダと呼ばれている。”と記されています。しかし、共観福音書(マタイ27:32、マルコ15:21、ルカ23:26)には、クレネ人シモンが主イエスの十字架を無理矢理背負わされたことが記してあります。使徒である、福音記者ヨハネは、何故、その事を省略したのでしょうか。何よりも彼は主イエスの十字架の目撃者ですのに!
では、福音記者ヨハネが十字架の道行きの事実を省略したのは何故でしょうか。それは、彼は、その事実を否定したのではなく、主イエスの十字架の真実のみを強調しているからです。彼は、主イエスの肉体的な苦しみの事実、ではなく、主イエスご自身の心を表しているのです。どうしてかと言うと、使徒ペテロもこう告白しているからです。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは、癒された。(Ⅰペテロ2:24)」と。
また、預言者イザヤも主イエス・キリストの救いの御業を預言しています。イザヤ書53章10節から11節に、「しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。」とあります。主イエスは「自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」というのです!「満足」とは、「喜び」であり、それは「救い」の完成であり、その激しい苦しみの目的は、私たちへの限りない「愛」なのです。参照;ヨハネ13:1「究極の愛<文語訳>」
使徒ヨハネは、鞭打たれ、傷つき、疲れはてた主イエスの肉体ではなく、主イエスの主権のみを見ているのです。主イエスご自身もこう宣べておられます。「わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。(ヨハネ10:17~18)」と。
その主権は、人間的には嘲笑の目的で書かれた主イエスの罪状書き「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス(19)」に表れています。皮肉にも、、、、です。ここにも主イエスの「アイロニー(皮肉、反語の意)」の世界が表れていますね。そして、20節「多くのユダヤ人達がこの罪状書きを読んだ。」のです。「そこで、ユダヤ人の祭司長達はピラトに「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いて下さい。(21)」と願いましたが、ピラトは「私が書いたものは、書いたままにしておけ。(22)」と、彼らの要求をはねのけています。
主イエスを十字架にかけるか否かの時、ピラトは「私にはこの人(主イエス)に罪を見出せない。(19:6)」と言ったにも関わらず、ユダヤ人達の脅し「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王だとする者はみな、カエサルに背いています。(19:12)」という言葉に屈しました。しかし、この罪状書きの件において、ここには、大きな意味が見出せるのです。ピラトは、神を知らずして、キリストを王と告白しているのですから。
続いて、主イエスの罪状書き「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス(19)」には、神の摂理があります。そして、ユダヤ人達には、自分たちの王を殺したのだ、という事実が残ります。使徒(福音記者)ヨハネは、主イエスの裁判の中心が「イエスはユダヤ人の王であるか、否か?」だと記しています。参照;ヨハネ18:33、37、39、19:3、12、14、15
そして、先ほど述べたように、何とピラトは知らずして、主イエスがユダヤ人の王のみならず、世界の王であることを宣言しているのです。そして、この罪状書きの文が、ヘブル(アラム)語、ラテン語、ギリシャ語で書かれたことに意味があります。神の民<選民>の言葉であるヘブル語、行政用語であるラテン語、世界語としてのギリシャ語の三カ国語で書かれたことによって、当時の世界に、主イエスが王であることを宣言している結果となったのです。すごいことです!何という神の巧みな業でしょう!
そして、詩篇第2篇6節には、「わたしが、わたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山、シオンに。」と歌われています。主に油注がれた者<王>に敵対する人々の空しい反逆を笑う神(詩2:4)が、その敵対の真ん中に王を立てられた(詩2:6)という事実が、十字架上の主イエスの罪状書きに表されているのです。神の御子が王の称号をもって十字架で死ぬという、主なる神のご計画を誰が知り得たでしょうか。後に聖霊に満たされた弟子達は、使徒の働き4章25節~28節でこう告白しています。「あなたは聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ、異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの国民はむなしいことを企むのか。地の王たちは立ち構え、君主たちは相ともに集まるのか、主と、主に油注がれた者に対して。』事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人たちやイスラエルの民とともに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とご計画によって、起こるように前もって定められていたことすべてを行いました。」と。そう言う意味では、ピラトは神に用いられたことになります。ですから、神は、時に全ての人(罪人)を用いると言えますね。
主イエスは預言された王の王としてこの世に来られました。しかし、王としての主イエスは力をもって君臨するためではなく、人々に仕える為、人々の罪の犠牲となる為に、十字架という愛の王座につかれたのです。主イエスは、私たちキリスト者に命じておられます。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるため来たのと、同じようにしなさい。(マタイ20:28)」と。
その主イエスの十字架の下で、兵士達は、主イエスの着物を分け合い、くじ引きを行っている(23~24)のです。何という心ない行為でしょうか。彼らは、十字架の主イエスには無関心です。その意味するところを知ろうともしません。それは、まるでクリスマスを祝いながら、キリストには無関心な現代の人々のようです。それを、福音記者ヨハネは聖書の成就として「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします(詩22:18)」と、詩篇22編18節のみことばを記しています。すべてが、神の主権、ご計画の中にあることを宣べているのです。
しかし、現代の状況も、詩篇第2篇の預言や主イエスの十字架の情景と変わっていないのです。多くの人々が、神に向かってつぶやき、敵対し、また、十字架の下の兵士達のように無関心です。現代の混乱の世において、教会は無力であるかのようです。しかし、私達は目に見える状況に失望してはなりません。何故なら事実、世界は「西暦」すなわち「キリスト誕生」を起点として、歴史が刻まれているからです。主イエス・キリストを知らない人まで、当然のように、このキリスト歴を使用しているとは、なんたる驚きでしょうか。
かの、世界制覇の夢破れたナポレオンが言ったというのです。「アレキサンダー、シーザー、そして自分も含め、武力をもって世界を制覇しようとした人々のために自分のいのちを捧げようとする者はいない。しかし、キリストは愛をもって世界を制覇した。そして、今なお多くの人々が、キリストの為に喜んで自分の命を捧げようとしている。自分は人間というものを多少知っているつもりだが、キリストは人間以上のお方である。」と、このように言わしめているのです。
私達は、主イエスの十字架の事実に、生ける神が働いておられ、今も働いておられることを知っています。栄光の主、王の王であられる主イエスは十字架刑という辱めの中で、王として君臨されたことを、決して忘れてはなりません。
ですから、たとえ教会が、神に敵対するこの世の勢力に押しつぶされようとしているかのように思えたとしても、多くの人々がキリストに無関心で伝道が進展しないように思えたとしても、私達は失望してはならないのです。王として十字架にかけられた主イエスの愛は、すでに世界制覇をなされ、その完成の御業に私達一人一人が召されていることを決して忘れてはなりません。こんなミラクルはないからです。何という光栄でしょう。
そして何よりも私達は、主イエスの十字架の愛を受け取った者、神のご計画を悟った者、主イエスに身を避ける幸いな者(詩2:10~12)とされていることを喜ぼうではありませんか!
