3月になりましたね。3月と聞くとみなさんはどんなイメージを描かれますか?私は、「春3月」との言葉もあるように、明るい陽の光をイメージします。希望、光、恵み、芽生え、などを感じさせられます。
さあ、今朝はまた聖書の中から更に<大きな希望の光>を見て行きましょう。今朝、与えられた聖書箇所はルカの福音書3章21節~38節です。救い主を待ち望んでいた民衆は、当然、「荒野で叫ぶ声」として、神のみことばを語るバプテスマのヨハネを救い主キリストではないかと期待しました。しかし彼は答えました。「私は、その方の履き物のひもを解く値打ちもありません。(ルカ3:16)」と。履き物の紐を解く人とは、奴隷のことです。彼はその奴隷以下であるというのです。バプテスマのヨハネの謙遜さに驚きます。しかし、彼は良く知っていたのです。自分が授ける、水のバプテスマ、すなわち「悔い改めのバプテスマ」は、救いに向かわせますが、救いそのものではないということを。しかも「悔い改めのバプテスマ」を受けた者達が、また罪を犯すことも。どうすることもできない罪性を持つのが、人間であり、自分もその一人にすぎないのであり、ただ、主イエス・キリストのみが「救い」を与えることのできるお方であることを知っていたのです。
バプテスマのヨハネについて、主イエスは言われました。マタイの福音書11章11節「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。」と。しかしそれは、彼の業の故ではなく、自分の「荒野を知る者」、ここは前回、詳しく見て行った所でもありますが、すなわち、神の御前にあって、どうすることもできない罪性を持つ自分を見つめることができた者だからであり、その謙遜さ故に、神に用いられたのです。(参照;イザヤ書 6: 5、ルカ18:10~14)
しかしそれならば、ルカの福音書3章16節の「聖霊と火でバプテスマをお授けになる」救い主、すなわち神の御子であり、罪のない主イエスが、何故、悔い改めのバプテスマを受けられたのでしょうか。福音記者ルカは、主イエスが受洗された、その事実だけを記していますが、福音記者マタイは、主イエスが洗礼を受けられた、その時の様子を詳しく記しています。マタイの福音書3章13節~15節に「そのころ、イエスは、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマをを受けるためであった。しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。』しかし、イエスは答えられた。『今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。』そこでヨハネは言われたとおりにした。」とあります。ここで、主イエスが言われた「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」というのは、一言で言うなら、「神の御心に従う」ということです。それで、主イエスは「わたしたちにはふさわしいのです。」と言われたのです。そして、主イエス御自身の「神の御心に従う」ことに関してですが、その神の御心とはどのようなことであったのかを、「へブル人への手紙」の著者が明らかにしています。
ヘブル人への手紙2章17節に「したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たち(人間=罪人)と同じようにならなければなりませんでした。それで民(全ての人間)の罪の宥めがなされたのです。」とあります。この「宥めがなされた」とは、主イエスの十字架の死による、罪の贖いのことです。
主イエスは、マタイ3章15節で「今はそうさせてほしい。」と言われましたが、これは今このときのことだけではなく、主イエスはいつも神の御心に従って生きて来られたのです。
そして、ルカは23節で「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。)」と記しています。このことから、主イエスがそれまでどのように生きてこられたかが理解できます。「(人々から)ヨセフの子と考えられていた 」ように、主イエスは他の人々が経験するのと、全く同じ人生を歩まれたのです。特別な人生ではなく、職業と家庭という誰もがなすべき日常のことを行って来られたのです。ルカは、主イエスが少年時代に、神の御子としての御自分を自覚された後も「両親に仕えられた(ルカ 3:51)」ことを記していますが、その後、父親ヨセフが登場しないことから、父親は若くして召されたのではないか、と思われます。おそらく、母親を助け、弟や妹たちを助けながら一家の大黒柱として過ごされたのでしょう。皆さんの中に長男、長女の方はいらっしゃいますでしょうか?兄弟の中で一番上の者は、多少の差異はあれ、自ずとこのような役割を負うので、想像し易いのではないでしょうか。主イエス御自身が語られたマタイの福音書25章11節~*23節の「良い忠実な僕、わずかな物に忠実な僕」のたとえ話がありますが、実に、主イエス御自身が、わずかな物に忠実な僕として、日常の些細なことにも、神に対し、人に対し、忠実に歩まれたのではないでしょうか。
そして人となられた主イエスは、私達人間が人生で経験するであろう日常の問題で、経験しなかったことは何もないのです。ですから、ヘブル人への手紙の著者は、私達人間の弱さを分かって下さるお方としての主イエスを証言し、この主イエスに遠慮しないで近づくように勧めているのです。ヘブル人への手紙4章15節~16節「私たちの大祭司は、私達の弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と。
さて、次に行ってみましょう。私達にとって最難関の名前の羅列が出て来ます。マタイの福音書の初めと、ルカの福音書のここがありますが、見ただけでうんざりしてしまいますか?でもこれはとても大切な所なのです。では、ルカが記している、主エスの系図を見てみましょう。福音記者マタイの記した、主イエスの系図と、ルカの記している主イエスの系図には違いがあります。第一に、系図の順序が違うことです。マタイは、主イエスの祖先から始めて、主イエスまでを記していますが、ルカは、主イエスから始めてその祖先まで遡っています。第二に、マタイは、ユダヤ人として、アブラハムから始めて、主イエスに至っていますが、ルカは、主イエスの祖先アブラハムを越えて、人類の祖先アダムにまで遡っています。
ここに、福音記者で唯一の異邦人であり、異邦人に向けてこの福音書を記したルカの強調点があります。そしてルカが、主イエスの系図をアダムにまで遡ったのは、主イエスが、ユダヤ人だけではなく、全人類の救い主であることを証言しているのです。すなわち、全人類の祖先アダムを示すことによって、主イエスが全人類の救い主であることを、示しているのです。ルカは38節で「・・・・、アダム、そして神に至る。」と記していますが、パウロは、ローマ人への手紙5章12~14節で、このアダムが罪を犯して、その罪が全人類を支配したと宣べています。そしてルカは、この系図を示すことによって、今ここにおられる主イエスが、「第二のアダム(ローマ 5:12~19)」、「最後のアダム(Ⅰコリント15:45)」として、「真の神の子」として回復されることを示しているのです。
最後にもう一度、主イエスが受けられたバプテスマに注目しましょう。ルカは、民衆と同じように、順番にバプテスマのヨハネから悔い改めのバプテスマを受けられた主イエスの様子を淡々と描写しています。主イエス御自身が、特別の人としてではなく、ただの人として、普通の人として、皆と同じように、受洗されたことを。しかし、それは単に皆と同じではないことは、その洗礼後、「聖霊が鳩のようなかたちをして、イエスの上に御霊が降って来られた(22)」ことによって明らかですが、それでも、主イエス御自身は、その他大勢の中の一人として同じように順番を待ってバプテスマのヨハネから悔い改めのバプテスマを受けられたのです。
そして御霊が降って来られたのを、民衆が目撃したのではないことは明らかです。もし民衆が、それを目撃したのなら、大騒ぎになったはずですから。聖霊降臨を目撃したのは、バプテスマのヨハネだけです。福音記者ヨハネは、バプテスマのヨハネの証言をこう記しています。ヨハネの福音書1章32節~34節「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊がある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」と。ここで子ども礼拝であったなら、このような絵を示すでしょう。「御霊が鳩のように、、、」との場面ですが、ウチの家内が大好きな場面なので、「是非見せてあげて」と言うのでお見せします。しかし大人の皆さんは各々の心の内にその場面を思い描かれている事と思います。何より先週の小野寺伝道師のメッセージの中でも、奇しくも語られましたね。なんと私達は心と霊が繋がっていることでしょう。そして彼が聖霊を体験したと言っておられました。何と素晴らしく、嬉しい事でしょう。私にも同じ体験が、とつい語りたくなってしまいますが、ここはグッと我慢して次にまいりましょう。
では、聖書に戻ります。さて、ルカは、主イエスが受けられた悔い改めのバプテスマに何を見ているのでしょう。主イエスの受洗は、全人類<私達>の罪を背負う決意の受洗なのです。それは十字架に向かう決意、神の使命に生きることの決意表明です。
ですから、主イエスの受洗において、聖霊が下ったことと、天からの父なる神の御声「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。(22)」との祝福があったのです。
そしてルカは、この祝福が、洗礼後の“主イエスの祈り(21)”によってであることを記しています。それは、神の御心を知ろうとする祈り、神の使命を確信する為の祈りです。主イエスはいつも、神の御心を祈りの中で聞いておられるのです。
ルカは、この主イエスの受洗によって、主イエスが手の届かない遠い存在ではなく、御自身から私達に近づいて下さり、私達のただ中(ルカ17:21)にいて下さるお方であることを示しています。そして、それだけではなく私達の罪の底の底にまで、共にいて下さるお方であることを示しています。今日のメッセージの表題を「私<罪人>を背負うために」としましたが、ここで一つの場面を想像してみていただきたいのです。「背負う」という言葉に着目して、、背負われた経験というものは、どなたも一度はあるのではないでしょうか?それは幼い子どもの頃、母親に、父親に、兄弟に、またそれに代わる人達に背負われた経験があるのではないでしょうか?子どもの頃、親におんぶされている時は、その背中に全幅の信頼を置いていますよね。安心しきって、背中の温かさを感じ、時々語りかけられる声を聞きながら、ウトウトしたり、おしっこをしたくなったら安心しておむつの中にして、前から車が来たら避けてもらい、遠い道のりも楽々背中で揺られながら、やがて我が家にたどり着く。これはさながら、主イエスに背負われて人生を過ごし、やがて天の御国に帰っていくイメージそのものです。預言者イザヤは主のことばをこう告げています。イザヤ書46章3~4節「ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」と。(参照;イザヤ63:7~9 )
主イエスの背中に背負われていたら安心です。自分の力で力む必要はありません。自分のありのままを出していられます。主イエスと語らう事もできます。そしてあらゆる危険から守られ、天の御国へ行くことができる素晴らしい背中です。主イエスが「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われた(ピリピ 2: 8)」その道を歩まれたのは、私達を最期まで<極みまで(文語訳)>愛する(ヨハネ13:13)が故なのです。そして、主イエスは、御自身を知ろうとしない、御自身から離れている私達に、御自身から近づいて下さるお方です。
それでは私達は、日常において、いったいどれほど、主イエスを信じているのでしょうか。日々、どれほど心から信頼して歩んでいるでしょうか。先ほどの例えではありませんが、その背中から降りて、勝手に歩んではいないでしょうか。脇道に逸れ、自ら危険な道に進んだりしていないでしょうか、、、。でも安心して戻ればよいのです。その温かい背中に。こんなにも私達を極みまで愛してくださった、十字架の死にまで従ってくださった、この主イエスの背中に戻り、もう一度背負っていただきつつ、この一週間を過ごしましょう。
