3月も半ばになりましたが、暖かかったり、雪が降ったりとめまぐるしい気候の変動の中で過ごす一週間でしたね。でもこうして、守られて今日もまた礼拝に集えたことを、感謝したいと思います。それでは、今朝もまた、ルカの福音書の中から、神様の御業のすばらしさを見て行きましょう。
主イエスは、民衆と共にバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ(ルカ 3:21)、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。(ルカ 3:22)」とのことばによって、父なる神の祝福を受けられました。ところが、その祝福の後、主イエスを待っていたのは「悪魔の誘惑<攻撃>」でした。それは、神の御子であり、同時に人である、救い主としての主イエスに立ちはだかる最初の関門、誘惑でした。
ここで、神様が受けられた誘惑とは違いますが、私達もまた喜びの受洗の後に、試練が待っていた、、、という経験を持たれた方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。でも、今日は主イエスが受けられた試練、誘惑の本質的な意味を見て行きたいと思います。
この誘惑は、人類の始祖アダムとエバを誘惑して勝った悪魔が、第二のアダム(「第二の人」Ⅰコリント15:47、「きたるべき方」ローマ5:14)としての主イエスに仕掛けた誘惑です。かつて、人類の始祖アダムとエバは、悪魔の誘惑に負けて、全ての恵みの自由の中に置かれながら、たった一つの神との約束を破り<警告を無視し>、神から離れる者となりました。(創 2:16~17、 3: 1~15)。パウロは、このとき「ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった(ローマ 5:12)」と宣べています。こういう訳で、第二のアダムとしての主イエスは、もう一度、この罪が入る前、すなわち、神の被造物としての「人間の原点」から始めなければならなかったのです。悪魔の目的は、最初のアダムと同じように、人となられた主イエスに罪を犯させることです。それは、父なる神から御子イエスを引き離し自分の支配下におき、主イエスの救い主として道、すなわち、私たち人類の救済、罪の贖いとしての十字架への道を閉ざすことでした。
「悪魔(2)」とは何者なのでしょう。悪魔は、天使と同じように、からだを持たない霊的存在(Ⅱペテロ2:4、ユダ6、<創6:1~4>)です。悪魔<(ギ)ディアボロス>の語源は「間を行き交う者」の意味で、それが他人の告げ口や非難を言いふらすために行き交う人を指すようになり、さらに「中傷、誹謗する者」の意味に転じ、最後に悪魔を指すようになったのです。この悪魔を、福音記者マタイは「試みる者<(ギ)ペイラゾーン>(マタイ 4:3)」とも呼び、主イエスが「サタン<(ヘ)サタナー>(反対する者、攻撃する者)」と呼んだことを記しています。
また、「試み(2)<ギ>ペイラスモス」と訳された言葉は、「試練」とも「誘惑」とも訳されます。この「試み」は、直接的には悪魔の誘惑です。しかし、「御霊によって<導かれて>(1)」と記されていますので、悪魔の誘惑の背後に、神のご計画があります。
悪魔は罪を犯させることを目的として誘惑しますが、神は、それを逆手にとって、罪に打ち勝つ訓練として与えるのが試練です。神は、決して誘惑はなさいません(ヤコブ1:13)。そして、試練は、神が用いようとされる者に与えられる光栄です。試練は信仰によって希望を生み出す(ローマ5:2~4)からです。
主イエスは悪魔の誘惑に遭う前に、お一人ではなく「聖霊によって(1)」とありますので、聖霊が背後におられるのです。福音記者マルコは「御霊はイエスを荒野に追いやられた。(マルコ1:12)」と記しています。このことは最も重要なことです。主イエスは神の御子ですから、悪魔など恐れる必要はありません。しかし、人となられた主イエスは徹底して聖霊の導きに従っておられるのです。
また主イエスは「四十日間、何も食べず、空腹を覚えて(2)」おられます。「四十日間」とは、かつて、モーセが神から律法「十戒」の石版を授けられるときシナイ山で断食した期間です(出24:18、申9:9)。(また、聖書では「40」という数字は試練の期間を表す。例;イスラエルの民の40年間の荒野の放浪)そしてこの「断食」は、単に食を断つことではなく、神に近づくための徹底的な祈りの時です。しかも福音記者ルカは「四十日間、悪魔の試みを受けられた。(2)」と記しています。主イエスが父なる神に近づく為の祈りの時を妨害しようと、「あらゆる試み(13)」悪魔の攻撃を示しています。私達キリスト者も、祈りの時、それを感じることがあります。神に近づこうとすればするほど、私達にそうさせまいとする存在を、私達は意識しなければなりません。とても、自分の熱心さでは太刀打ち出来ないこと、自分の熱心さ<肉の力>によって祈ることの危険性を知らなければなりません。
それを知るパウロは、エペソ教会の兄弟姉妹達に「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者達、また天上にいる諸々の悪霊に対するもの(エペソ 6:12)」であると警告し、「どんな時にも御霊によって祈りなさい。(エペソ 6:18)」と命じています。
「神であられる方なのに人となられた(ピリピ2: 6~ 7)」、主イエスは徹底して父なる神、聖霊なる神に従っています。その絶対的依存の姿は、人としての性質(ピリピ2: 8)を持たれた方として、私たちに真の人としての模範を示しておられるのです。神の御子である主イエスでさえ、徹底的に、聖霊の導きに従われ、父なる神により頼むことによって、悪魔の誘惑に勝利されたのです。
ではここで、悪魔の誘惑の内容を見て行きましょう。悪魔は、第一に、主イエスが四十日間断食され、空腹を覚えられたとき(2)、「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。(3)」と誘惑します。悪魔は「あなたは神の子なのだから、父なる神にいちいちお伺いを立てなくてもご自分で空腹を満たすことがおできになるではないか」と言って、父なる神と主イエスとの絶対的信頼関係を打ち壊そうと目論んでいるのです。
バプテスマのヨハネは、「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。(ルカ 3: 8)」と証言しています。そして、主イエスはパンの奇蹟を行われたお方です(ルカ 9:12~17)。ですから、この奇蹟を簡単におできになれます
それなのに、主イエスは「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」と言って、申命記の御言葉「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きる。(申 8: 3)」を引用され、奇蹟を行いませんでした。
どうですか?この一連の悪魔とのやり取りに於けるイエス様の切り返しは!見事なパラドックス、機転、英知がちりばめられています。主イエスは神様の御心を知り尽くしておられ、かつ御父に完全に従っておられるので、このようなエスプリの利いた受け答えができるのです。この教会にもこのイエス様に惚れ込んで「私はイエス様の大ファンです。」と仰る方がおられます。今風に言うとイエス様は「私の推しです。」というところでしょうか。
さて、この申命記の御言葉には、イスラエルの民が荒野の旅で、天からのパン、マナによって養われたことが記されてあり、必ず約束を実現して下さる主のみことばに信頼して歩むことが命じられています。この「人はパンだけで生きるのではない。」という御言葉は、キリスト者でない人にも有名な言葉ですが、多くの人々は「生きる為にはパンは必要だが、心を養ってくれる神の言葉も必要である。」という意味に取っています。しかし、伝道者、塚本虎二師の個人訳では「イエスは答えられた“パンが無くとも人は生きられる”と聖書に書いてある。」と訳しています。それは「真に生きる」とはどういうことか、を示しているように思います。
主イエスは言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と。ですから、悪魔の誘惑に対する、主イエスの答えは、主イエスの十字架の死と復活を見なければ、その真の意味を理解することはできません。主イエスは現実の空腹の状況に目を留めるのではなく、主の御心に従って生きること、「主は必ず、わたしに最善をなして下さる。否、自分にとって最善に思えないことでも、もし、わたしを空腹のまま餓死させることが、主の御心ならそれも良し、従おう。」と宣言されたのです。
誘惑に失敗した悪魔は「しばらくの間イエスから離れた(13)」のですが、十字架の死に向かわれる前夜、ゲッセマネの園で祈られたときにも、主イエスを誘惑します(ルカ22:40~42)。しかしこの時も、主イエスはご自分の願いを退け、神の御心に従うことを選び取りました。
パウロは聖霊の導きの中で、主イエスの信仰を受け継いでいます。「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(ローマ14:8)」と。星野富弘さんは、首から下が動かない障害を負いながら、口に筆をくわえて書いた詩画集で有名ですが、その時の苦悩と絶望の中で、主イエスに出会い、その詩画集にこう書いています。「いのちが一番大切だと思っていた時、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあることを知った時、生きるのが嬉しかった」と。「いのちよりも大切なもの」とは、私達を創造し、生かしてくださる神を知ることです。その神の御子、主イエスに出会い、主イエスと共に生きることです。
さて私達は、もう一度、悪魔の誘惑の言葉に注目しましょう。悪魔は「あなたが神の子なら、」と誘惑しています。悪魔は、主イエスが神の御子であることを知っているからこそ、「石をパンに変えろ」と誘惑したのです。
もし、私達が、同じ言葉で誘惑されたとしたら、それは誘惑となるでしょうか。私達にできるわけがないのですから、誘惑にはなりません。また私達は「石をパンに変える」という誘惑に対して、全く私達には誘惑とはならないために、この誘惑は主イエスだけに対するものであって、私達には関係ない、と考えてしまいます。確かに「石をパンに変える」ということは、私達にはできません。しかし、この誘惑の本質を見るならば、私達も同じように、誘惑されているのです。
実例を示しましょう。もし、誰かが健康診断の結果、医者から、あなたは絶対甘いものを食べてはいけないと言われたとして、どこかで目の前に、美味しいケーキが出されたとしても、辛党の人にとって、それは誘惑となりません。しかし甘党の人には、非常に危険な誘惑です。医者の言葉を無視することもできるのです。
悪魔の誘惑の本質は、私達を神から引き離すことです。神への信頼よりも、自分の思いを優先させることです。いつも私達の人生には、二つの選択の道があります。神の御心に従うか、自分の思いを中心にするか、どちらかです。悪魔の誘惑の本質を知るならば、そして真に、自分の自己中心性、すなわち罪性を知る者であるなら、如何に自分がその誘惑に弱いかを知ることができます。
私達は、私達の人生において、いつもそれぞれの荒野があります。そしてその荒野を通されます。その荒野において、神に「石をパンに変えてくれ」と思うような時があります。「神様、あなたはそれがおできなるのに何故、この状況を変えてくださらないのですか」と思います。しかし、私達の弱さに同情出来るために試みに会われ(ヘブル 4:15)、全ての点で私達と同じようになられた(ヘブル 2:17)お方、第二のアダムとしての主イエスは、パンを必要としている私達の苦しみをご存じないわけではありません。その私達の心をご存じであり、その苦しみと共にいて下さるお方が、その苦しみを痛いほど知りつつも、それでも何が本当に生きるのに必要なのかを、この荒野の誘惑に対する答えで示しておられるのです。
私達が、「真に生きる」ということは、私達にいのちを与えられた(創 2:7)神、いのちの源である神を信頼して生きることです。第二のアダムである主イエスは、私達人間の代表として、悪魔の誘惑に対する答えによって、真に生きることの模範を示して下さいました。そう言う訳ですから、私達は何よりも、自分で生きているのではなく「神に生かされている」ことを覚える者でありたいと思います。
「パンが無くとも人は生きられる」と言われた主イエスは、十字架の死という現実を通られましたが、その死から復活され、その死に勝利した現実を私達に見せて下さり、今も生きておられ、私達の為に、とりなしの祈りをして下さる神(ヘブル 7:24~25)です。
私達には日々の生活の中で厳しい現実があります。何故このような事が!?と思えるような出来事が起こる事があります。しかし、私達が、もし、この主イエスを本当に信じているのなら、私たちもまた御霊の導きの中で、日々の荒野の中での悪魔の誘惑にきっと勝利することができるでしょう!
