寒い寒い2月ですね。でも、私にとって2月は、ホットな月なんです。何故かというと、2月は我が愛する妻と、愛する孫の誕生日がある月だからです。まあ、その分、私の懐は寒くなりましたが心はとても暖かいです。特に妻のことでは、約一年にわたる6回の悪性リンパ腫の抗癌治療によって、一応、寛解となりましたので感謝です。私はどちらかというと、冷めた心の持ち主で理屈っぽい性格ですが、年を重ねたせいか、最近大分暖かい心を持つことが少しだけ持つことができるようになったようです。と言うのは、最近妻が「あなた、この頃変わったわね、すぐに“ごめんなさい”が言えるようになったものね」と言われたからです。まあ、でもそれ程、私は頑なに“ごめんなさい”が言えない人間だったのです。でももちろん、私を変えて下さったのは、神です。ですから今日も、その神を知る為に、共に聖書に聞きたいと思います。
本日与えられた聖書箇所は、ルカの福音書3章1節から20節です。前回もお話しましたが、ルカの福音書の特徴は、歴史的時点を明らかにしていることです。バプテスマのヨハネが公に出現する日については、1節から2節に「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニヤがアビレネの領主、アンナスとカヤパが大祭司であったころ」と記しています。福音記者ルカが異邦人テオフィロ(ルカ 1:3)の為に、主イエスの生涯の歴史的事実を知らせようとしている配慮が見えます。
皇帝ティベリウスは、ローマ帝国の皇帝アウグストゥスの後継者であって、彼の治世の第15年と言うのは、紀元28年か29年頃です。またローマ帝国の支配下にあることに対して不満を持ち、問題の絶えなかったユダヤを治めていたローマの行政官ポンティオ・ピラトが総督であったのは、紀元26年から36年頃です。
そして、ガリラヤの領主ヘロデとは、主イエスがこの地上に誕生したことを知ったとき、自分の王位が脅かされることに恐れを抱き、二歳以下の幼児虐殺を命じたヘロデ大王(マタイ2:16)の息子のヘロデ・アンティパスのことです。このヘロデ・アンティパスは、異母兄弟ピリポの妻と通じ、その妻ヘロディアを奪い取って結婚したため、彼のその姦淫の罪を問い詰めたバプテスマのヨハネを牢獄に入れ、その後、殺したのです。ルカは、そのことを、20節で、「(彼が)全ての悪事にもう一つこの悪事を加え、ヨハネを牢に閉じ込めた」と記しています。
2節で「アンナスとカヤパが大祭司であったころ」と記していますが、本来は大祭司カヤパの名前のみを記せばよいのですが、アンナスは大祭司職(紀元 6年から15年)を引退していたにもかかわらず、養子<娘婿>カヤパが大祭司在任中(紀元18年から36年)も、かなりの実権を持っていたことが周知の事実であったからです。いわゆる、院政をを敷いていたということですね。福音記者ヨハネは、主イエスが捕らえられたとき、最初に連れて行かれたのは、アンナスの所で、次に大祭司カヤパの所であった(ヨハネ18:13~24)ことを記しています。
この時代の様子はと言うと、ユダヤの領主達の腐敗、宗教界の腐敗が進み、、それに介入するローマの国家権力等に対する、ユダヤの不満分子「熱心党」が生まれており、不穏な世相でもありました。
また、10節で、群衆がバプテスマのヨハネに、悔い改めた者として何をなすべきかを尋ねたときに、群衆のそれぞれに答えた11節から14節のバプテスマのヨハネの答えで明らかになるのは、民衆の隣人愛の欠如(11)、ローマ帝国の国家権力を笠に着て、不当な税金を取り立てる取税人達(13)、力づくで金をゆすったり、無実の者を責めたりする兵士達(14)姿です。
このような時代の中に、バプテスマのヨハネが登場し、改革宣言の声が発せられます。しかし、それは単なる世直しの改革宣言、税制改革、兵役反対の平和運動ではありません。神の御言葉によるすべての人々がなすべき心の方向転換「悔い改め」の命令です。
4節から6節に「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷は埋められ、すべての山と丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。こうして、すべての者が神の救いを見る。』」と記されています。この命令は、イザヤ書40章 3節から5節の引用です。王の王、救い主の到来の前の道備え、すなわち、神をお迎え出来るように、心を整えることです。分かり易く言うなら、心を素直にすることです。
さて、バプテスマのヨハネは「荒野で叫ぶ声」と呼ばれています。では、その「荒野」とは何でしょうか。旧約聖書をお読みになられた方は、すぐに思い出すでしょう。出エジプト記に記されている「荒野の旅」を。神によるイスラエルの民の指導者モーセによって、エジプトの奴隷から救い出されたイスラエルの民がいましたね。何と彼らはその救いの恵みを体験したにもかかわらず、その恵みを忘れ、神の恵みの約束を信じないで、背信の民、神に背く民となります。その背信の罪の故に、40年にわたる荒野の旅を経験させられます。そしてまた、この主イエス時代のユダヤの群衆も、今ローマ帝国に支配されている情況、人心が荒廃した情況が、かつての荒野の旅と同じように、神への背信の罪の結果であることを、本当は悟るべきでした。
彼らは、15節「キリスト<救い主>を待ち望んでいた。」のです。しかし、自分自身の罪性を見つめることをしませんでした。ですから、「荒野で叫ぶ声」を聞かなければならなかったのです。すなわち、自分自身の罪性に対する危機感、自分の心の荒野を知らなければならなかったのです。福音記者マタイは、バプテスマを受けようとやって来た、パリサイ人やサドカイ人、すなわち当時のユダヤ教宗教指導者に対して、バプテスマのヨハネが「まむしの子孫たち(マタイ 3: 7)」と呼んでいることを記しています。しかし、福音記者ルカは、群衆すべてを指しています。それは、異邦人としてのルカが、その背信の罪は、ユダヤ人だけではなく、自分達異邦人も同じなのだ、という認識があったからです。まことに「義人はいない、一人もいない。(ローマ 3:10)」からです。
8節の、バプテスマのヨハネのことば「『われわれの父はアブラハムだ』という考え方をおこしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」とは、ユダヤ人の選民意識による傲慢さを警告しているのです。それは、神に選ばれたユダヤ人の先祖アブラハムに始まった選びの民としての特権意識です。 彼らは、それが彼ら自身にある資格ではなく、「ただ、恵み」であることを知らなければならなかったのです。
反対に、異邦人の私たちにとっては、神に生かされているという認識ではなく、自分で生きているという認識、傲慢さがあるのではないでしょうか。すべてのことにおける自己中心の罪です。
次に、バプテスマのヨハネが叫び、命じている「悔い改め」とは何でしょうか。私たちの多くの「悔い改め」の概念は、ヘロデの事件等から、自分の犯した悪事に対する反省、謝罪と考えます。それも間違っていませんが、単なる反省や謝罪の意味ではないのです。 「悔い改め」の本来の意味は、「神に立ち返る」「神に向き直る」ことです。自分中心の生き方から、神中心の生き方に方向転換するということです。闇の中にいる「すべての人を照らすそのまことの光(ヨハネ 1: 9)である、神<主イエス・キリスト>の御前に出る者は、自らの闇を照らされ、汚れが明るみに出され、荒廃した心の荒野を見つめさせられます。
しかし、罪性を持つ人間は、具体的な罪を犯し、それに気づいているにもかかわらず、ヘロデのように、その罪を直視することを避ける傾向があるのです。その一例として、一つのお話しを紹介いたします。(「心をのぞけば」ヘンリー・ブラント、ケリー・L・スキナー著・ICM出版 P.118~130)
米国の心理学者でキリスト者のある方が、ある夜の集会において「罪を言い表して、悔い改めることについて」熱心に講演をしました。集会の後、彼は妻と共に、次の予定地デトロイトに向けて車を走らせました。しかしフリーウェイにつながる交差点で、間違った方向に曲がってしまいました。妻がその時「あなた、間違った方向に行ってしまっているわよ」と言ったことに、彼はカチンときてしまい、彼は妻に辛辣にこう答えたのです。「デトロイトがどこか、僕が知らないととでも思っているのかい。おい!自分で運転したいのかい。それとも僕に運転して欲しいのかい。」と。妻は黙ってしまいました。彼は心理学博士で、事実に基づいて適切なアドバイスをするために、事実を感情的にならずに正確に判断することを学んでおり、それを教えることで生計を立てているのです。しばらくすると、最初の出口にさしかかりました。その標識の矢印が示す行き先の土地の名前は「シカゴ」でした。シカゴはデトロイトとは反対方向です。彼は、自分が間違っていたのだとわかって、さっと血の気の引く思いがしました。そして何より一層、妻に対して腹が立ってきました。そしてもう一つ、出口を試して見る決心をして、そのまま進んだのです。憤りや頑固さにまかせて、すべての知性が吹き飛び、まぬけな愚か者の行動をとっていました。車内は冷たく、緊張した沈黙が漂っています。二人とも、まっすぐ前を見つめたまま黙っていました。(寒っぶい空気ですよね)次の出口も同じことでした。標識の矢印は「シカゴ」を指していました。彼は何とかUターンをしないでデトロイトに行ける方法はないものかと考える時間をかせぐために、さらに次の出口にまで行ってみることにしたのです。彼は出口を三つ半も通り過ぎてしまいました。彼は手伝おうとした妻に激怒し、彼女が間違っているのだとさえ言ってしまったのです。もちろん方向を間違ったことが罪ではありません。しかし彼は、彼のプライドの故に、間違ったことを素直に認められず、妻の助言を退け、Uターンすることができなかったのです。彼はフリーウェイを運転しながら、自分が間違っていることを認められないほど高慢で<プライドが高く>、頑固な、自分の罪性を認められませんでした。また、このような日常のささいなことを「罪」と呼ぶのはもっと難しいことです。彼はこの事件によって、如何に自分が罪深いか、を知らされたのです。罪性を持つ人間は、自分の罪から目をそらせてしまう傾向があることを。私はこの本を読んで、自分のことかと思いました。全く同じ様な情況によく陥るからです。
でも妻はこれを聞いた時、「私なら黙っていない。戦う。笛をピーピー吹いてでも、“あなた違う、この道じゃない、間違っている!いいから止まって!”」とあくまで、ホットな戦いをするな。」と言うのです。まあ、私はこの妻のおかげで、その後の罪から守られているとも言えます。まあ、これは余談ですが・・・・。
では、聖書に戻りますが「荒野で叫ぶ声」は、私たちに必要なのです。私たちにとっての「荒野」とは、人生のつまづき、病、苦しみの時であるかもしれません。自我と自信に満ちた自分という存在が打ち砕かれるときこそ、「荒野で叫ぶ声」を聞くことができるのです。その時、9節「斧もすでに木の根元に置かれている」危機感を感じることができるからこそ、悔い改め、方向転換、Uターンができるのです。
では、バプテスマのヨハネが群衆に命じている「悔い改めにふさわしい実を結ぶ(8)」とは、どのようなことでしょうか。9節「斧もすでに木の根元に置かれています。だから良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます」と言われて、危機感を持った群衆は、バプテスマのヨハネに尋ねました。10節「それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。」と。驚くべきことは、彼の答えが具体的であり、また特別、立派な善行ではないことです。11節「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」と命じ、これは持っている者に対してであって、持っていない者、あるいは自分の物しか持っていない者に、それをしなさい、とは命じていないのです。
取税人達にも、13節「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」と命じ、「取り立ててはならない」でもなく、当時のローマ帝国権力の笠を着ていたが故に売国奴のように蔑まれていたその職業をやめよ、とも命じていないのです。兵士達には、14節「自分の給料で満足しなさい」と、当然と言えばあまりにも当然のことを命じているのです。
しかし、たとえ持っていても有り余るものでない限り、隣人に分け与えることは簡単ではないのです。また取税人も、役得があるからこそ、蔑まれても、人の嫌がる税の取り立ての仕事をしているのです。さらに兵士は、いざという時には戦地に行き、死も覚悟しなければならない、と言う不安があります。少しくらいの横暴は大目に見て欲しい、そうでなければ誰が好き好んで、命に見合わない給料で雇われる兵士などになるものか、という思いがあります。
しかし、バプテスマのヨハネの言う「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とは、特別、立派な善行を求められているのではなく、それぞれの日常の中で、それぞれに与えられている立場においての、当然の不正や非行の禁止でしかないのです。
神の恵みによって、悔い改めに導かれ、救いを得たキリスト者は、世界の平和のために立ち上がり、自己犠牲に生きる生活をせよ、というような特別なことではなく、今、神によって与えられている自分の立場の中で、自分の身近な隣人に対して、できないことではなく、当然できることをするように求められているのです。それぞれに与えられている日常性の中での具体的な愛が求められているのです。否、愛とは言えないほどの当然のことが求められているのです。一言で言えば、それぞれの日常性の中で「誠実に生きよ」と求められているのです。
それが「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ことなのです。それはそんなに大それた事ではありません。メッセージのエピソードにも関係しますが、私は、皆さんにもう一度、ほんの小さな質問をしたいと思います。皆さんは「ごめんなさい」の一言が言えなかったばかりに損をしたことはありませんか?また、大変な遠回りをして、人間関係を壊し、人生を無駄にしてしまったと後悔している方はおられないでしょうか?でも、損をした?無駄になった?いいえ、そんな事はないのです。いつでも遅いと言うことはないのです。自分の罪、それは小さな罪も大きな罪も、過ちを犯してしまったと思ったら、この荒野で叫ぶバプテスマのヨハネの声を聞いて、悔い改めましょう。主イエスもそれにならって下さった(ルカ3:21)のですから、お友達と、家族と、兄弟と、親と子どもと、教会の兄弟姉妹と、悔い改め合いましょう。「ごめんなさい」が言えることは、素晴らしい事です。「悔いし砕けし魂(詩51:17)」は、御霊が一番住みやすい魂です。今週も心晴れやかに、御霊様に導いていただき、大胆に歩んで行きましょう。
