今回で、マルコの福音書講解説教を終わります。そして、初期の写本には、マルコの本文は8節で終わっており、9節以下がないのです。しかし、9節~20節を加える写本も多くあります。(※欄外注を参照)おそらく、マタイ、ルカ、ヨハネの福音書から、主イエス・キリストの復活の顕現と昇天の物語と世界伝道への招きを伝えるために、後代になって、マルコの福音書の末尾部分として、編集、追加されたものと考えられています。しかし、いずれにしても、9節以下の記事によって、より完全なものとなっています。少なくとも、マルコの福音書しか手に入らない場合、必要な記事です。8節で終わっているとすると、8節には、「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコ16:8)」と記されており、これで終わってしまうのも不自然です。そのため8節には[ ]内の補遺(補いの部分)があります。(※欄外注を参照)9節以下は、他の福音書によって、その記事の真実性が証明されていますので、他の福音書の中からの要約的な記事です。
そして、この記事は、4つの部分からなります。第一(16: 9~11)に、マグダラのマリアへの主イエスの顕現(主イエスが彼女に現れてくださったこと)。※参照;ヨハネ20:11~18第二(16:12~13)に、二人の弟子達への主イエスの顕現。(エマオ途上の二人の弟子達に主イエスが現れてくださったこと)※参照;ルカ24:13~35 第三(16:14)に、11人の弟子達への顕現。(主イエスが11人の弟子達に現れてくださ ったこと)※参照;ヨハネ20:19~26 第四(16:15~20)は、主イエスの弟子達への世界宣教命令と主の昇天です。※参照;マタイ28:16~20、ルカ24:44~50、使徒1:3~11
第一のマグダラのマリアについては、「彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追いしてもらった人(9)」です。悪霊に憑かれるという状態がどんなものか、想像がつきませんが、マルコの福音書5章1節から10節に悪霊に憑かれた人の様子が詳しく記されているので、参照してみましょう。汚れた霊(その名はレギオン<もともとはローマン軍隊の呼び名でその数六千人>)に憑かれた人は、墓場に住みつき、鎖で縛られても、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのです。この記事によって、悪霊に憑かれることがものすごい苦しみであることは分かります。ですから、マグダラのマリアが、主イエスによって、七つの悪霊から解放された実体験をもって、主イエスを信じ、感謝に溢れて、主イエスに従ってきた女性であることが分かります。彼女には、復活の信仰はありませんでしたが、主イエスの死体に香油をぬるために来ています。その主イエスに対する愛は、誰よりも勝っていたのだと思えます。空の墓に前で、主イエスを見失った悲しみに泣く、彼女の主イエスへの思いの強さを感じます(ヨハネ20:11)。
しかし、そのマリアが、主イエスに出会い、弟子達に告げますが、彼らは信じなかったのです(10)。
彼らは嘆き悲しいんでいました(10)。復活の希望など全くなかったのです。彼らの心は完全に悲観的でした。福音記者ヨハネは、「弟子達がいたところではユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけられていた(ヨハネ20:19)。」と記しています。
ですから、聞いても信じなかったのです。どんなに素晴らしいことでも、しかも事実であるのに。目撃者、証人(マグダラのマリア)がいるのに、信じなかったのです。他の人ならともかく、主の弟子であるのに!
復活を信じるということは、目撃者の証言も役に立たないのです。私達も、復活が証明されたから、信じたのではありません。実に不思議なことです。もし科学的に証明されたとしても、だから信じることができるということはないのです。
二人の弟子達<エマオ途上の二人の弟子達(ルカ24:13~32)>が、主イエスに出会って、そのことをほかの弟子達に伝えましたが、彼らはその話も信じなかったのです(13)。二人の証人、しかも自分達が信用できる仲間の証言によっても信じなかったのです。
その後、主イエスは11人の弟子達が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになられました。彼らが、復活の主イエスを見た人達、マグダラのマリアと二人の弟子達の証言を信じなかったからです(14)。主イエスはかつて、「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。(マルコ9:19)」と、彼らの不信仰を嘆いておられました。
しかしそれでも、主イエスは、彼らを愛するが故に、彼らのところに現れて下さったのです。福音記者ヨハネによれば、この時、トマスはそこにいなかったので、信頼すべき信仰の友(弟子達)が、主イエスの復活を証言しても信じなかったのです(ヨハネ20:24~25)。しかしその八日後、主イエスは、弟子達と一緒にいたトマスにも現れて下さり、トマスは信じました(ヨハネ20:26~28)。そして主イエスはトマスに、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(ヨハネ20:29)」と仰ったのです。
今日もそうです。復活と聞いただけで、拒否反応を示す人達が多いのです。そして悲しいことに、キリスト者?のなかでも、聖書学者であっても、復活を信じない人がいるのです。と言うより、罪ある人間は、神のことばを素直に信じることは難しいのです。
しかし、私たちはどうでしょうか。私たちは「見ずに信じている者」です。実に不思議なことです。私たちの知恵でもなく、私たちの心が素直だったからでもありません。信じるということも神の賜物、プレゼント(エペソ2:8)なのです。それは、聖霊なる神の愛のプレゼントです。パウロはこう宣べています。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは(復活の)主です』と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)」と。私たちは、はっきりと、この復活の信仰に立っているのです。
教会のシンボルは十字架ですが、私が神学生の時、米国カベナントの聖書学者が来校し、講義がありました。それは、ローマ帝国の迫害下にあった、キリスト者の様子です。彼らはローマの地下墓所「カタコンベ」で礼拝を守りました。そして多くのキリスト者がそこに埋葬されており、そこにはキリスト者であることの「隠れシンボル」が多く描かれており、そのシンボルは「魚」です。ギリシヤ語では「イクスース」です。ギリシヤ語のイクスースは、「イエス(イエスース)」「キリスト(クリストス)」「神の(セウー)」「息子<御子>(フィオス)」「救い主(ソーテル)」の各頭文字を綴り合わせると、ギリシャ語の魚になるからです。ですから、今日では、十字架がキリスト教のシンボルですが、本来のキリスト者のシンボルは、「魚」すなわち「復活」であったというのです。「魚」が「復活」を表すというのは、ヨナ書からのイメージです。預言者ヨナが、大きな魚に呑み込まれ、三日三晩、魚の腹の中にいて後、陸地に吐き出されたから(ヨナ1:17、2:10)であり、主イエス・キリストも三日後によみがえられたからです。しかし私は、キリスト教のシンボルは十字架と復活がセットではないかと思います。
もし、復活の主イエス・キリストを信じていないのなら、私たちの信仰は空しいのです。私たちは、十字架で死んでしまった(それで終わり)主イエス・キリストを信じているのではありません。※参照;Ⅰコリント15:12~20
この復活の主イエス・キリストを信じている者には、この復活の力が与えられています。 何故なら、「人にはできないことが、神にはできる(ルカ18:27)」のであり、「神にとって不可能なことは何もない(ルカ1:37)」からです。
復活の力が与えられているのは何のためでしょうか? 主イエス・キリストを伝える、すなわち「宣教」のためです。私たちが今、生きているのは、自分を喜ばせるためではなく(ローマ15:3)、主イエス・キリストを着て(ローマ13:14)、キリストのために生きるのです。パウロはこう宣べています。「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(ローマ14:8)」と。
キリストのために生きるとは、どんなことでしょうか?神と離れて、自分勝手に生きる罪人であり、滅びに至る運命にあった私たちのために、その罪を、ご自分の身に負われ、十字架に架けられ、死んでくださったことによって、私たちを滅びに至らせる罪の死から解放して下さり、罪への勝利を示す「復活」によって、私たちに「永遠のいのち」を与えて下さったキリストのために生きるということです。
この素晴らしい主イエス・キリストの十字架と復活の事実を、滅びに向かっている人々に伝えてゆく、宣教の使命が、私たちに、教会にあるのです。
そして信じる私たちには、人には信じられない、神の力、復活の主イエス・キリストの力が与えられるのです。その宣教には、病の癒しが与えられ、悪霊を追い出すことができます(17)。確かに、使徒たちは、悪霊を追い出し、多くの病を癒しています(使徒3:6~9、19:12、28:8~9)。
そして「その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず(18)」とは、パウロがまむしに噛まれましたが、害を受けなかった事実があります(使徒28:1~6)。
私たちは、このことを信じているでしょうか?もし、信じられないのなら、復活の主イエス・キリストを信じていないことになります。神は御心によって、私たちに必要な力を与えて下さいます。(ただし、御心とは、神のご意志であって、私たちの思いではありません。)私たちは、中途半端な信仰ではなく、この復活の力、聖霊の力に満たされた信仰者として、復活の宣教に生きる者としていただきましょう。
最後に、ご一緒に、マルコの福音書16章20節を朗読しましょう。「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」
復活を信じている私たちも、主イエス・キリストの弟子です。2025年の今日!復活の主イエスは、今も私たちと共にいてくださり、私たちに、福音宣教の使命を与えて下さっています。私たちは喜んで、主イエスの期待に応えようではありませんか。

