2025/1/26(日) 『 たとえ、そうでなくても 』ダニエル書 3章1~30節:村松 登志雄 牧師

おはようございます。みなさんどうですか?ついこの間、ここで新年のご挨拶をしたと思っていたら、今日はもう一月の終わり、時の経つのは早いですね。みなさんは、年頭に何か目標を立てたりしましたでしょうか?私などはいつも、最初は元気がいいのですが、そのうち、だんだんと勢いが無くなり、尻すぼみになります。でもそれは私だけではないかも知れませんね。『今年こそは、神様を疑わず、しっかり信じて行こう!そう思っていたのに、いつの間にか、あれ?神様って本当にいらっしゃるのかなあ・・・・いらっしゃるなら、何でこんなに厄介な問題が起こるんだ?それにあれ?最初は嬉しかった気持ちが、この頃はだんだんその気持ちが無くなっている。それに忙しいし、別に教会に行かなくてもいいか・・・・それなりに生活は成り立っているし、』そんな気持ちが芽生えてくる頃ではないでしょうか?

さて、本日は示されて、旧約聖書のダニエル書から、みことばに聞きたいと思います。先週、あれほど、ルカの福音書への期待を予告したのに、今日は『違うのかい』と思った方もいらっしゃるかも知れません。ルカの福音書の講解説教は一ヶ月に1,2回のペースで進め、他は、示された主題説教をさせていただきたいと思っています。

さあ、始めにダニエル書3章全体の物語を見て行きましょう。どう言う情況かと言うと、南王国ユダの滅亡により、ダニエル<ベルテシャツアル>と三人の友人のハナンヤ<シャデラク>、ミシャエル<メシャク>、アザルヤ<アベデ・ネゴ>(<>内は、バビロニア風の名前がつけられたため>)は、バビロン帝国の補囚となりましたが、他の誰よりも優秀なため(ダニエル1:19)、バビロン帝国のネブカドネツァル王に仕えることになりました。

 ある時、ネブカドネツァル王は、自分の権力を示すために、高さが約27メートル、幅が約2.7メートルもある巨大な金の像を建てました。鎌倉の大仏坐像(ブロンズ<青銅>製)が高さ12.4メートルで、奈良の大仏坐像が高さ15メートルですから、もし大仏が立ったとしても、それより巨大です。

像が完成すると、その奉献式に、国中の高官が集められ、こう命令されました。「あなたがたが角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞いたときは、ひれ伏して、ネブカドネツァル王が建てた金の像を拝め、ひれ伏して拝まない者はだれでも、即刻、火の燃える炉に投げ込まれる。(5~6)」と。

ところが、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は拝まなかったので、彼らを苦々しく思っていたカルデヤ人が告げ口をして言いました。「この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、お建てになった金の像を拝みも致しません。(12)」と。それで、ネブカドネツァル王は怒り狂い、三人を連れてくるように命じ、質問します。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴよ、おまえたちは私の神々に仕えず、また私が建てた金の像を拝みもしないというが、本当か。今、もしおまえたちが、角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞いたとき、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよい。しかし、もし拝まないなら、おまえたちは、即刻、火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるだろうか。(14~15)」と。

それに対し、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは王に答えます。「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。あなたの手からでも救い出します。しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。(17~18)」と。

すると、ネブカドネツァル王は怒りに満ち、炉を普通よりも七倍熱くするように命じ、三人を縛って、火の燃える炉に投げ込むように命じました(19~20)。ところが 、王の命令が急であり、炉が非常に熱かったので、その炎は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを持ち上げた者たちを焼き殺したのです(21)。そして三人は、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ちて行きました(23)。

しかし、その直後、驚くべき光景を目の当たりにします。王は驚いて、側近の家来達に尋ねます。「われわれは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。(24)」と。家来達は「王様、そのとおりでございます。」と。すると王は言った。「だが、私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。※第四の者は神々の子のようだ。(25)」と。(※第四の者とは、受肉する前のキリストであるという解釈がある。)

こうして、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ は、火の炉から無事に出てきます。不思議なことに、三人は「火は彼らのからだに及んでおらず、髪の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火の臭いも彼らに移っていなかった。(28)」のです。そして、ネブカドネツァル王は宣言します。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、このしもべたちを救い出された。王の命令に背いて、自分たちのからだを差し出しても神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこの者たちを。それゆえ、私は命令する。諸民族、諸国民、諸言語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神に対して不敬なことを口にする者はだれでも、八つ裂きにされ、その家はゴミの山とされる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。(28~29)」と。

すさまじい情況ですよね。                                                                          この物語で最も重要なことは、神の不思議な力によって、三人が助かったことではありません。この三人が、王を拝むことをせず、自分たちの神が守ってくれる。「しかし、たとえそうでなくても(18)」拝むことはしない、と明言したことです。自分たちの信じる神への絶対的信頼と、それにもかかわらず自分たちの願いを神に押しつけるのではなく、神の御心に従うとの決意を併せもっていたことです。自分たちの利益になるから信じるのではなく、神が神であられるから、信じるということです。この聖書箇所の教えは、この物語の主人公の三人が、強い信仰を持っていたから、私たちも強い信仰を持とうということでしょうか?そうであるなら、それはエリート信仰の勧めではないでしょうか?また、私たちはとてもこんな信仰は持てないという、その意識も正しいのでしょうか?何故なら、どちらも、私、自分が中心の考えだと思うのです。自分はこうありたいと願うことは良いことだと思います。しかし、パウロは「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。(エペソ2:8)」と宣べています。そうです。信仰も、否すべて(いのちも)が上から、神からの賜物なのです。

1月第二主日(1/12)に、「神はいるのか、いないのか」と題して、神の存在について語らせていただきました。それを要約して復習します。神は「わたしは『わたしはある』(出3:14)」というお方であり、リアルに存在するお方であること、天地創造の神の創造によって、私たちの存在があるのであり、「神がいるのか、いないのか」とは、自分を中心にして神の存在を云々することであって、その疑問自体が見当違いであり、神の存在によって、私の存在があるというということ、神がおられるから、私がいる<生かされている>ということに気づかせていただきました。そして、この「ある」と言う言葉は、恐れるモーセに「わたしが、あなたとともにいる(出3:12)」と励ます神のことばの「いる」も、同じヘブル語であり、存在する神とは「インマヌエル<神が私たちとともにおられる>の神(マタイ1:21)」であることです。

ダニエル書に戻りますが、この場面の三人の神への信仰とは、その神意識があったからであり、繰り返し宣べますが、自分たちの利益になるから信じるのではなく、神が神であられるから、信じるということなのです。

さてここで、一人の姉妹のお証しを紹介したいと思います。実は、一人の姉妹とは、我が奥さんの事なのですが、恥ずかしながら少しお話しさせていただきます。それと言うのは、もう皆さんもご承知のように、妻は昨年、病を得ました。私達二人にとって、病気に明け暮れた一年だったと言えるでしょう。

その間、みなさんには、篤いお祈りで支えていただき、温かいお励まし、お心遣いをいただき、そしてこの度、一応の「寛解」という素晴らしいお恵みをいただきました。それは本当に感謝なのですが、先日家内がしきりに私に話すのです。「ねえ、あなた、先日のメッセージで、妻は正月から『神様はいらっしゃる。本当に神様はいらっしゃる。』と、うれしそうに浮かれています。まあ、きっと昨年は病気で大変だったけれど、寛解ということがあったりしたので、それでしょう、と語っていたでしょう。

 でもね、私、病気が癒されたから、神様がいらっしゃると言った訳ではないの。勿論、病気が寛解となったことはことは感謝だよ。神様のお恵みだと思う。でも、『神様がいらっしゃる』と、本当に感じたのは、もっと別の事なんだよ。」と、めずらしく真剣に私に語ってくれたのです。そう言えば、昨年私は、病気という現実の情況ばかり見ていて、家内の内面のことはあまり知らなかったなと思うのです。それ程、私にとっては、家内の病気が大きな出来事だったのです。去年の正月始めに、ひどい重症な帯状疱疹のために入院したかと思ったら、血液検査で白血球の価があまりに低いので、翌日、血液内科のある病院に転院させられ、ほどなくして、悪性リンパ腫であることが分かり、あれよあれよと言う間に事態は進んで行きました。家内の父親も同じ病気で召されている事もあり、気の小さい私は心配でなりませんでした。そして、病院に行く度に、家内はやせ細って行き、苦しそうにベッドの柵に寄りかかって、私を迎えてくれるのでした。その内、身体を拭いて欲しいという家内の身体を見たときは、正直絶句してしまいました。けれども、そんな家内の元にいてやれる時間はあまりありませんでした。仕事は待ってくれませんし、私は年を取っていて、ますます、何かをするのに時間がかかるので、病院に行ってもすぐ、トンボ帰りをするような日々を送って、その帰り路『このまま家内はいなくなってしまうかも』そんな思いが浮かんで来て、そう思うと言いようもない淋しさが胸に襲って来ます。いつもいてくれるのが当たり前、典型的な昭和生まれの男ですから、家内を放っておいても、仕事で家を空けることが日常でした。けれども帰って来れば、いてくれる、そんな日常が無くなってしまうかも知れないと気持ちが暗くなったものでした。

一方、家内は一体どういう気持ちで過ごしていたのだろうか・・・・。病院で祈る時はいつも、教会の事や、私の仕事の事を一緒に祈ってくれていたし、不安や恐れなどの心配事は家内の口からは一切聞いたことがありませんでした。

けれども今回、語ってくれました。病院の夜はとても長いのだそうです。加えて痛みや苦しさの為に、余りよく眠れません。ですから、明け方近くの時間は、いつも『キリストと話していた』と言うのです。これは家内特有の言い方で、実際、肉眼で見える訳ではないのでしょうけれど、それは祈りであり、つぶやきであり、語りかけであるようでした。幸い、個室で誰にも聞かれないので、空間に向かって『イエス様、今そこにらっしゃるのですよねえ、私の今の状態を見てて下さるのですよねえ』と、実際に声に出して話しかけたりしていたそうです。そしてこんな事を言うと、誤解されてしまうかも知れませんが、家内は入院中、最初から最後まで『どんなことをしても治りたい、治して下さい』とは祈らなかったと言うのです。 家内の頭に、繰り返し繰り返し浮かぶのは、「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(ローマ14:8)」というみことばだったそうです。ですから、誤解を恐れず言えば、『癒されても召されてもどちらでも良い。でも神様は治る治らないを超えたもっと良いことを、私にとって最も良いことをして下さる』という確信だけはあったと言うのです。

でも後日談で、私が『あなたがいなくなると思ったら、たまらなく淋しいと思った』ということを話したら、家内は『だったら、癒されて良かった。悲しみでグジグジしているあなたが残されたら、息子たちがさぞかし手を焼くだろうから、良かった。』と言うのです。それはまあ冗談としても、今回家内は、幸いにも癒されたというか、寛解という状態を与えられました。でも、一生懸命祈っても、癒される場合ばかりではない事を、みなさんも各々に経験されていますよね。だからと言って、神様を恨んでいますか?

この教会には、ご主人を天に送られた姉妹方が多くおられます。私は家内の病気を通して、ほんの少し、その姉妹方の悲しみが分かるようになりましたが、姉妹方には各々に、神様からの答えが与えられているのだと思います。皆さん一様に、悲しみの中にも、平安や穏やかさ、一層天国が身近になったというような、崇高な美しさが見られます。

ダニエル書に登場する、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの「たとえ、そうでなくても、主を信じる」という信仰は、姉妹方の中にも生きていることを感謝いたします。

最後に、「たとえ、そうでなくても」の信仰告白と同じ信仰告白のみことばを共に朗読しましょう。

詩篇23篇4節「たとえ、死の影の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。」アーメン。

「ともにおられる」この神を見上げつつ、今週も共に一歩ずつ歩んで行きましょう。