今日は「神はいるのか、いないのか?」という表題で、メッセージを致します。さて、みなさんにとって、この「神はいるのか、いないのか?」という質問に、いったいどのような反応を覚えるでしょうか?一般に「神はいるのか、いないのか?」と言う質問に対して、有神論者と無神論者という立場の人がいます。言い替えると、創造論者と進化論者ということになります。そして、それは神の存在の科学的証明ができるかどうか、という論争に発展します。
さて、理学博士の中谷宇吉郎氏の著書「科学の方法」(岩波新書)の中には、このような記述があります。「科学が力強いというのは、ある限界の中での話であって、その限界の外では、案外無力なものであることを、つい忘れがちになっている。いわゆる科学万能的なものの考え方が、この頃の風潮になっているが、それには科学の成果に幻惑されている点が、かなりあるように思われる。・・・・自然現象においても、必ずしもすべての問題が、科学で解決できるとは思わないのである。(p1・9行~p2・2行)」とあります。そして「科学においては再現可能な問題がその対象となっている。もう一度繰り返して、やってみることができるという、そういう問題についてのみ、科学は成り立つものなのである。なぜ、再現可能の問題しか、科学は取り扱え得ないかといえば、科学というものは、あることをいう場合に、それがほんとうか、ほんとうでないかということをいう学問である。・・・・それでは科学で、ほんとうであるというのは、どういうことかということを、まず考えてみる必要がある。ごく簡単な場合についていえば、いろいろな人が同じことを調べてみて、それがいつでも同じ結果になる場合には、それをほんとうというのである。(p3・6行~p4・1行)」とあります。要するに、何回も実験して同じ答えが出れば、ほんとうのこととして、立証されるということになります。言われているように、科学は万能ではなく、新しい発見があり、以前、ほんとうと思われていたことが、本当ではなかったということも多々あります。そして、地球の歴史において、今まで、猿が人間になったということがないことは事実であり、化石の発見においても、ねつ造したものもかなりあることが明らかになっています。また、正しい化石によっても進化の過程がまだ証明されていません。つまり再生可能ではないのですから、進化論は科学では証明されていないのであり、あくまでも一つの仮説でしかないのです。
ところで、この逗子福音教会の小野寺和俊伝道師はロック歌手でもあり、彼のゴスペルソングに「猿は進化しても猿」という名曲があります。「進化しても猿」とは、「進化はない」と言う意味です。
それではひるがえって、創造論はどうかというと、このことも、聖書によれば、世界は一回で完成したのですから、再生可能による科学では証明しようがありません。ですから、神の存在は信じるか、信じないかのどちらかしかないのです。
日本人の多くは、進化論を信じていて、唯一の神(キリスト)は信じていませんが、多くの日本人は無神論者ではなく、曖昧な有神論者です。何故なら、子どもが生まれると神社にお参りに行き、また、何々神社には、御利益があるというので、多くの人々が信じてお参りに行きます。日本人の多くが信じているのは、八百万の神々であり、多神教であり、ほとんどが人間が造り、祭り上げた神です。そして結婚式は、キリスト教式という方々もいらっしゃいます。葬儀は仏教の方が多いようです。その結果、神道、仏教、キリスト教と何でもござれの状態です。
聖書の「使徒の働き」の17章16節から34節に、キリストの大伝道者パウロがアテネの町で、真の神について宣べ伝える様子が記されていますが、聖書時代のアテネは、ギリシャのアカヤ州のうちで最も有名な町の一つで、文化面ですぐれており、学問の都、民主政治のの都、芸術の都として栄えていました。しかし、「町は偶像でいっぱいでした。(使徒17:16)」その様子は、現在の日本の大都会の姿そのものです。
世界中には、実に様々な神がいます。何故そうなるのか、と考えてみますと、こういうことではないかと思うのです。聖書の創世記1章と2章には、はっきりと、神が天地創造の神であり、人間を神のかたちに創造されたと書かれています。ですから人間は、神によって造られた被造物であるが故に、私たちが信じる唯一の神、三位一体の神とまではいかなくても、人間を超越した存在である神への求めがあるからではないか、と思います。
さて先ほど、創造論も神の存在を証明できないと、一旦は言いましたが、実は、聖書ではそうは宣べていないのです。
パウロは、聖書のローマ人への手紙1章19~23節でこう宣べています。「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは空しくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたち(偶像)と替えてしまいました。」とあります。このパウロの宣告は、真の神を信じない人々には厳しいことばです。何故なら、最後の審判の時、創造主の存在を知らなかったと言い訳ができない、と宣べているからです。これは、世界をごらんなさい、それを見れば神はいないとは言えないでしょうと言っているのです。例えば、今は冬枯れの時期ですが、時が来て花が咲き、木々には緑があふれるでしょう。ある兄弟は、先日、このように言っていました。「ベッドから眺める窓の外の風景が、何気ない景色が、風や光の色を感じて、『ああ、幸せだなあ!』」と、この上もない安らかな気持ちになった、と言うのです。みなさんにも、そのような経験があるのではないでしょうか?我妻に至っては、正月から「神様はいらっしゃる」「本当に神様はいらっしゃる」とうれしそうに、浮かれています。
さてここで、少し、私のことを語らせて下さい。私は、神の被造物の代表である人間のからだほど不思議なものはないと思います。その中でその中心は血です。そして、血はいのちです。レビ記17章11節には「実に、肉のいのちは血の中にある。」とあります。私は心筋梗塞の手術を4回(2014年10月、2017年3月、2020年3月、2021年9月)受けました。心筋梗塞とは、冠動脈がコレステロール等で詰まって、心臓に酸素と栄養分を運ぶ血液が流れなくなり、心筋が死んでしまう病気です。そして、私は3年ごとに手術をしていて、同じ心筋梗塞の手術をした人が、ほとんど再手術をしていないので、自分は血管にコレステロールが溜まりやすい身体なのかと思っていました。しかし4回目の手術で、最初に救急で受けた手術で挿入されたステントがずれていたことが分かり、そこにコレステロールが溜まってしまい、三年ごとの手術をしなければならなかったようです。4回目の手術でそのずれが発見され、そのステントの場所にさらにステントが挿入され、その分血管は狭くなりましたが、やっと血管が正常に開通するようになったのです。今週15日に、横浜南共済病院で、その経過の診療を受けますが、それに先だって、先日、かかりつけの病院で血液検査を受けましたが、全く問題がないそうです。感謝です。
そして、すごいと思うのは血液と血管の働きです。ここからは、ある牧師の記述を引用します。(参照;「この日この朝」正木茂著 p81)「私たちの体内の血管は、全部つなぎあわせると、何と地球の周りの2倍半もあるそうです。この長い血管の中を血液は、1分間に5リットル、24時間に7,200リットルの速度で流れており、心臓から頭をまわって心臓までに帰るのに、8秒、つま先をまわって帰るのに、18秒しかかからないそうです。血液は、こんなに早い速度で体内をまわりながら、その間に幾千兆とも知らない体内の細胞に必要な栄養と酸素を送り届け、老廃物と炭酸ガスを運び去っているのです。考えてみれば、血液は驚くべき物質です。血液が肺の中の毛細血管を通るとき、ヘモグロビンは酸素の荷物を取り込み同時に有毒な老廃物、炭酸ガスを放出します。この積み替えに要する時間は、わずか3分の1秒、赤血球は、細胞の近くで100分の1秒ほどのうちに炭酸ガスを炭酸にかえ、これを赤血球の中に貯えているアルカリ性のカリウムイオンで中和し、それを血液中のナトリウムイオンと結合して普通の重曹を作り、それを肺の中でもう一度分解して炭酸ガスとして押し出し、酸素を積み込むのです。赤血球は一瞬のうちに、この複雑な作業をやってのけるのですが、これを例えれば一連のタンク車が、駅を最高速度で通過する間に、中味を降ろして新しいものと積み替えるようなようなもので、しかも、その二つの中味を混合しないでやってのけるのですから、このことを考えてみても、大した芸当です。しかも、血液はこの他に、病気と戦うという大切な役目を果たしています。血液の中にウィルスや細菌のような病原体が入ってきますと、血液は一つの反応を示し、次に同じ病原体が侵入してきますと、これを殺したり、ふえることを止めたりすることができるようになるのです。これが免疫です。・・・・・・しかもこの大切な血液は神の賜物です。医学がどんなに進んでも、人工的にはつくり出すことはできません。この不思議な血液を作ることができるのは神様だけです。」
昔、ミクロの決死園というSF冒険映画の傑作がありましたが、人体の精密さは驚くべきものです。それなのに何故どうして、日本の多くの科学者、医学者は、神の創造に思いが至らないで、進化論を信じているのでしょう。
キリスト者で心臓外科医の今中和人氏はその著書「あなたがどこから来たのかわかる本(いのちのことば社)」で、「日本の医学教育の問題」(p183~p184)で言っていることを要約しますと、医者が人体を取り扱いながら、正常な身体の仕組みを『何故?』と考えることができないのは、次から次へと、異常な身体の症状の対処方法を学び、覚えなければならず、正常な身体の状態の素晴らしさを、見過ごしてしまうそうです。このような医学教育を受けてきた人が、卒業後に正常な身体の素晴らしさに注目するのは、かなり例外的である、と彼は言っています。
しかし、それに比して、米国の遺伝学者(物理化学博士、医学博士)のフランシス・コリンズは、その著者「ゲノムと聖書」に、米国での調査(1916年、1997年)で、科学者を対象に、人と積極的に関係を築き、祈りに答えてくれる神の存在を信じるか、という質問に対して、約4割の科学者が信じると答えた、と記しています。
彼は、かつて米国国立ヒトゲノム研究所の所長(2008年8月退官)であり、国際ヒトゲノム計画のリーダーを勤めた人物であり、彼は、DNAコードを神が生命を形作るのに用いた「言語」と位置づけ、研究活動は礼拝行為であると言う福音派のキリスト者です。
神の存在についての科学的考察について、ルイ・パストウールのことばを紹介します。「科学の道を少し進むと神から離れるが、さらに極めればこれに回帰する。」
最後に、本日与えられた聖書箇所(出3:1~15)をみましょう。「神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。(出3:14)」は、文語訳では「我は有りて在る者なり」、バルバロ訳では「私は、“在(いま)すもの”である」協会訳(口語訳)では「わたしは、有って有る者」です。神ご自身が、自ら「存在」するものであると宣べておられるのです。
私たち人間は、「神がいるのか、いないのか」と論じますが、それ自体が間違っています。何故なら、自分がいて「神はいるのか、いないのか」と論じているのは、自分を中心にして、神の存在を論じているからです。正しくは、神の存在があって、自分の存在があるのです。神がおられるから、自分がいるのです。何故なら、神は天地創造の神であり、私たち人間は、神のかたちに造られた被造物であり、神の息(霊)を吹き込まれて、生きるものとなった存在(創1:26~27、2:7)だからです。神がおられて、私があるのです。「ある」と訳されているヘブル語(ハーヤー)は、過去、現在、未来を含み、継続した状態を表し、「わたしは存在していた」「わたしは存在している」「わたしは存在し続けるであろう」の意味を含み、神の永遠性を表しています。しかも、モーセが神から、エジプトからイスラエルの民を導く者として任命されたとき、モーセはそれを恐れ拒みますが、神は「わたしが、あなたと共にいる(12)」と宣言されます。 その「いる」は、「ある」と同じヘブル語です。つまり、存在する神とは、「インマヌエル<神が私たちとともにおられる>(マタイ1:21)」の神です。
私たちキリスト者は、神の存在をどのように信じているのでしょうか?自分を中心にして神を信じるのではなく、神にある自分を意識しましょう。否、私たちが意識しなくても、「神が私とともにおられる」のです。何と私たちは、幸せな者なのでしょうか?ですから私たちキリスト者は、自分の思いを中心にするのではなく、神が私たちに望んでおられることを、神の呼びかけを聞く者でありましょう。少年サムエルのように「はい、お話しください。しもべは聞いております。(Ⅰサムエル3:10)」と言える者でありましょう。「わたしはある」という、この素晴らしい神が共にいて下さるのですから、喜んで、この一年も、共に歩んで行きましょう。
