本日の箇所は、前回12人の使徒の選びを終えたイエス様が、その弟子たちと共に山を下り、そこに待つ夥しい群衆の前に立って話し始められたお話の内容です。
いつもながらイエス様の発想は斬新です。そして人間の常識を覆すような切り口で、神様の御意志を伝えてくれています。ではご一緒に見て行きましょう。
ここで聖書箇所に入る前に、一つ皆さんにお聞きしたいと思います。それは人間の求める「幸福」とはどんなことでしょう?と言う問いです。
皆さんちょっと考えてみてください・・・・皆さんそれぞれに答えは出て来ると思いますが、ある国語辞典によれば「幸福」とは、「満ち足りた状態で心おだやかな事」と記されています。
では主イエス・キリストを信じている私達は、「私は、幸せです。」と心から言えるでしょうか。また、何をもってその様に感じ、確信できるのでしょうか。
昔の広辞苑には「巡り合わせの良い事」とも記されていたようです。「巡り合わせ」とは「運」と言い換えられます。
「運が良い」つまり、良い状況、満ち足りた状態が与えられるなら、幸せである、という事です。そして「満ち足りている」とは、具体的には、富んでいる事、健康である事、望んでいる事が叶えられている事、等です。
ですから、この時、主イエスが宣言された「貧しい事」が「幸福である」というのは、この世の人々の考える幸福の常識に反する事のように感じられます。
しかしまた、哲学者や心理学者あるいは宗教家は言うでしょう。「否、満ち足りているという事は、物質的なことよりも、心の有り様だ。どんな状況でも、自分が幸せであると思えるなら幸福なのだ」と。
それもある意味事実であると思います。他人から見たら不幸に思えることでも、本人がそう思っていなければ不幸ではないのですから。
例えば、誰かを見て「私は、あの様にはなりたくない」と思ったとしても、案外、本人は非常に満足しており、幸福に感じているという事があります。
つまり、心の有り様で、幸福であるか無いかが決まるのであれば、要するに、その人がそう思いこめば幸福であるという事になります。
しかし、主イエスが仰っている「幸福」とは、心理学で言うところの「心の有り様」と、同じ様なものだと理解してはなりません。それとは一線を画しています。
「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。(20)」で始まるこの御言葉は、マタイの福音書に出て来る山上の垂訓<説教>と内容は同じです。(しかし、ここでは山を下り平地で語られたことから「平地の説教」とも呼ばれています。)
そしてこの御言葉は、弟子達(20)だけではなく、大勢の貧しく、苦しみの中にある群衆(17~19)の前で語られています。
ですから、今日においても、私たちキリスト者にだけに与えられている御言葉ではなく、全ての人々に与えられている御言葉であると言えます。
しかし全ての人々がこの御言葉を「本当にそうだ」と、心から信じられるのでしょうか。
いいえ、キリスト者であっても、頭では理解していても、現実の困難な状況の中で、苦しみの中で、幸福だと思えない、という事が多いのが現実ではないでしょうか。
そして、主イエスは大勢の群衆を前にして、「貧しい人たちは幸いです(20)。今飢えている人たちは幸いです(21)。今泣いている人たちは幸いです(21)。人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです(22)」と立て続けに仰ったのです。こんな事を語られる主イエスは、人の気持ちが分からない、いわゆるKYな(空気が読めない)お方なのでしょうか。
と言うのは、主イエスの御前に群がっている群衆の多くは、貧しく、病気を治していただく為に来た人たちであり、汚れた霊に悩まされていたたちであって(18)、それ故に群衆の誰もが何とかして、主イエスに触ろうとしていたのです(19)。
それなのに主イエスは、その人達に向かって「貧しい人たち、今飢えている人たち、今泣いている人たち、そして、人々に憎まれ、辱められる人たち、あなたがたは幸いです。」などと言われたのです。普通に考えれば、そのような辛い状況にある人の心を逆撫でするような言い方ではないかととも取れるからです。
それではまた、主イエスは、『キリスト教は御利益宗教ではない!心の宗教だ、一時的な幸せを求め、永遠の幸せがわからないあなた方は何と愚かな人々か、だから、真の幸せとは何か、を教えよう!』と、思われたのでしょうか。
確かに、一時的な幸せではなく、永遠の幸せを求めるべき事は真実ですが、しかし主イエスは、その様に思われて、この至福の教えを語られたのではありません。
何故なら、主イエスは、この群衆をあわれみ、癒しておられるからです(18~19)。何よりも、主イエスは、律法による安息日の戒め(出20: 8~11)、すなわち主の日にどんな仕事もしてはならない、という戒めを破って、右手の萎えた人を癒され(ルカ 6: 6~10)、律法の本質「神への愛、隣人への愛(マタイ22:37~40)」を示されたお方だからです。
ですから群衆が、一時的な幸福を求めて、主イエスの御許に群がったのは事実だとしても、それを、主イエスは、決して愚かであるなどと思われたのではありません。
しかし、主イエスは、サマリヤの女性に与えられた様に、飲んでも飲んでも又渇く水ではなく、その人の中で泉となり、永遠のいのちの水が湧き出る、生けるいのちの水を与える為に、話されたのです。(ヨハネ 4: 3~15)
主イエスは、誰よりも、人々の悲しみを御自分の悲しみとして、受け取って下さるお方です。私達人間の弱さを、誰よりも良く分かって下さり、同情して下さるお方(ヘブル 4:15)として、人として生まれて下さった(ヘブル 2:17)お方です。
そして何よりも、この至福の御言葉は、主イエス・キリストの十字架の血潮によって裏打ちされた約束された事実である事を忘れてはなりません。
「貧しい人たちは幸いです。」とは、この世の考え方、つまり先にお話しした、状況による「幸福」とは全く逆であり、また心の有り方一つによって、幸福とも不幸ともとれるという曖昧な自分本位の幸福でもありません。
これはたとえ本人が知らなくても現実に幸福の中にいるという客観的事実なのです。実は、文語訳では「幸福(さいわい)なる哉、貧しき者」と訳されており、ギリシャ語原文では、「幸いだ!」という感嘆文で始まっているのです。「あなた方は何と幸せな者でしょう!」と。
主イエスは「あなた方は、神の国の住人(ピリピ3:20)とされているから、幸いです。」と言っておられるのです。
「神の国」とは、「神が支配される世界」です。「神が支配される世界」とは、「神の恵みの中に生きる世界」です。
本当の幸福とは、富み栄え、満ち足りた状態でなければ、幸せではないのではなく、また、心の有り方で変わるというようなものではなく、神が私達を祝福して下さっているかどうかにあるのです。
そしてその祝福の証拠は、主イエス・キリストの十字架の血潮による罪の贖いの事実です。
私達は「神の恵みにより、キリスト・イエスによる<十字架の血潮による罪の>贖いを通して、価なしに義と認められる(ローマ3:24)」事を、「本当にそうだ」と信じています。
10月第二主日礼拝(10/12)で、主イエスの使徒達の選び(ルカ 6:12~16)を学び、主イエスが彼らを使徒として選ばれたのは、彼らに資格があったからではない事を確認しました。
「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。・・・・・・ 神は、・・・・この世の愚かな者を選び、・・・・この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものにするため、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。(Ⅰコリント1:26~28)」と。
私達は、何の資格もないのに、神の義と愛の世界の住人とされているのです。それならばどうして、この驚くばかりの恵みに感謝<感動>しないでいられるでしょうか。
主イエスの「神の国はあなたがたのものだからです(20)」の御言葉は、主イエスの十字架の血潮の罪の贖いの故に、すでに今現在、与えられている事実なのです。
ここで、最初に戻って、「貧しい人」とはどういうことかを確認しましょう。
これはいわゆる日本語的に一般的に使う「こころが狭い」「愛が無い」「度量が小さい」などと言った否定的な意味とは違います。
「貧しい人」とは、主イエスが流してくださった十字架の血潮による罪の贖いを信じた者、ただ神の恵み(エペソ 2: 8)を信じた者のことです。
「貧しい人」とは、「心の貧しい者(マタイ 5: 3)」であり、共同訳<新共同訳の前の訳>には、「ただ神に拠り頼む人々」と訳されています。またこの言葉は、「生活困窮者の人」の様に、自分で稼ぐことができず、人から施しを受けなければ生きて行けず、自分には何もない、ただ<神の>恵みにすがるしかないという存在を意味します。
そして、神に救っていただかなければ、どうすることもできない自分を知っており、神の救いの恵みのみによって生かされ、神に拠りすがらなければ生きていけない現実を知っている、否、知らされている者の事です。
続く21節からの「今飢えている人(21)」も、「今泣いている人(21)」も、「人々に憎まれ、人の子<主イエス>のゆえに排除され、ののしられ、けなされる人(22)」も、本質的には「貧しさ」を自覚する人の事です。
そして、その人は、その状況の中にあっても、満ち足り、笑うのです。
いいえ、ただ笑うだけではありません。23節「その日には躍り上がって喜びなさい!」と言われているのです。
人々に憎まれ、ののしられ、けなされる時、しょぼんと俯いて悲しくなってしまうのではなく、躍り上がって喜べと言うのです。
こんな経験がありますか?こんなの想像するに宝くじにでも当たった時くらいではないですか?しかし、何故なら「見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから」とあるからです。そしてそれは「世に勝つ者とはだれでしょう、イエスを神の御子と信じる者ではありませんか(Ⅰヨハネ5:5)」とのみことば通り、この世では、貧しさ、飢え、悲しみ、という敗北の人生に見えても、神の国の視点に立つなら、逆転勝利しているのを見る事が出来るからです。
それは地上で受け取ってしまえる報酬、喜びではないのです。
そして24節からはその反対の状況が描かれています。永遠に続かない、一時的なこの世の「富んでいる(24)」、「満腹している(25)」、「笑っている(25)」、「人々にほめられる(26)」ことを追い求める者は、哀れな人なのです、と。
何故なら、その報酬を地上でもう受け取ってしまっている、そしてそれらは必ず滅び、消え去るものだからです。
人は富みたいし、美味しい物をいっぱい食べたいし、誉められたいものです。でもそれを求め過ぎると必ず空しさがやって来ます。聖書の真理は真実です。
さて今、あなたは、この御言葉を聞いて、自分を「幸いな人」と自覚する者でしょうか。
今、この御言葉によって、自分の心を、自分の信仰を吟味しましょう。
そして今、この御言葉によって、主イエスの十字架の救いの恵みに喜び踊り、心新たに感謝する者となりましょう。
