2025/11/30(日) 『成し給え汝が旨』ルカの福音書1章26〜38節:村松 登志雄 牧師

さて、本日の箇所ですが、マリヤの処女懐胎の物語はあまりにも有名です。この事の故にキリスト教が信じられないと言う人もいます。しかし、私はこの事の故に、聖書が真実の書であることを確信しますし、この出来事を文字どおり信じる者です。
また「信じられない」と言う人の神観は、神を自分の思考の範囲において判断出来るものとしていることに気がついていません。
しかし、神とは、自分の思考をはるかに越えた存在ではないでしょうか。

さて、夫婦関係を持っていなかった婚約中の女性が妊娠していたなどと云う事実は、当時は、いいえ、いくら現代の結婚観が乱れていると言っても、夫以外の他の誰かによって妊娠したなどと云うことは大問題です。
聖書は聖霊によって身ごもった(ルカ 1:35、マタイ 1:20)と記していますが、いくら、当事者のマリヤが信仰によって受け入れたといっても、現実は大変な状況であることに変わりないのです。
マリヤは「おめでとう、恵まれた方。(28)」と御使いに告げられましたが、その現実の状況はそう簡単に受け入れられることではありません。
先週お話しした祭司ザカリヤに告げられた<バプテスマのヨハネが子として与えられる>ことは、ザカリヤとエリサベツの恥<子どもが与えられない>を取り除く(ルカ 1:25)ことでしたが、マリヤにとっては、恵みどころか、恐ろしいこと(当時、不倫は死刑!)です。
夫<婚約者>ヨセフに何と言って説明したら良いのでしょう。もし、ヨセフが理解したとしても、世間は決して理解しないでしょう。しかもナザレの町は、人口120人から150人です。噂はあっと言う間に拡がります。
ですから私達は、このような大変な状況にありながら、どうして受胎告知を受け入れることができたのか、このマリヤの信仰について考えてみましょう。

マリヤは御使いガブリエルから妊娠の予告を受けた時、当然、自分が処女であることの事実から、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。(34)」と問いかけます。
この問いかけに対し、御使いは、やさしく「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六ヶ月です。神にとって不可能なことは何もありません。(35~37)」と告げます。
すると、マリヤは、「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。(38)」と言って、彼女の信仰によって受け入れます。

ここで、マリヤの信仰によって、と言いましたが、彼女は訳がわからずやみくもに信じたのではありません。いわゆる盲信ではありません。
何故なら、御使いは実にていねいに、マリヤが信じることのできる事実を、信仰の根拠を提示しているからです。
神は無理矢理ねじふせて、問答無用と私たちを信じさせようとはなさいません。私たちが理解できるように配慮してくださり、御言葉を与えて下さるお方です。

御使いによって、まず第一に、マリヤが妊娠するのは、ヨセフという男性(人間)を通しての通常の人間の性の営みによるのではなく、直接、聖霊、神によって妊娠するという、特別なことであることが伝えられます。

第二に、マリヤの親類の祭司ザカリヤの妻エリサベツの、たとえ通常の男女の営みであっても不可能な妊娠が、神の御わざによってなされた事実が伝えられます。
おそらく、マリヤはエリサベツの神の御わざによる妊娠を通して、イスラエル民族の父アブラハムとサラとに与えられたイサクの事実を思い起こしたのではないでしょうか。(参照;創世記17:15~17、18:10~15、21:1~3)

そして、第三に、主がアブラハムに仰せられた「主にとって不可能なことがあるだろうか。<いや、ない。>(創18:14)」という御言葉が、御使いによって、マリヤにも語られます。「神にとって不可能なことは何もありません。(37)」と。マリヤは、その御言葉によって確信できたのです。

では、何故マリヤは、主の御言葉「神にとって不可能なことは何もありません。」の前に、ただひれ伏し、応答することができたのでしょうか。
それは、彼女が真に神を神として崇める人であったからです。神を人間の基準で信じるのではなく、神の基準で信じることのできる人、「私は主のはしためです。(ルカ1:38)」と、神の御前にある自分を知ることのできる人であったからです。

預言者イザヤは、神の御前にあるイスラエルに神のみことばを告げます。「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。(イザヤ41:14)」と。
しかし、だからと言って、神の御前にある自分を知るとは、卑屈になる事ではありません。
詩篇作者ダビデは、自分という人間が取るに足りない者である事を良く知っていました。ですから彼はこう賛美したのです。
「あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに 人とは、何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。(詩 8: 3~ 4)<p939>」と。
ダビデは神が造られた天体<宇宙>の偉大さに比べ、虫けらよりももっともっと小さな存在でしかない者を、神が心に留めて下さるとは、と驚いているのです。
この驚きは、神の御前に自分が如何に小さい者であるかの自覚によって生じます。少しでも自分に何かがあると思っている者には、この驚きは生じません。

「恵み」を真に「恵み」として受け取ることのできる者は、神の御前にある自分を知っている者だけです。

次に、注意すべき事は、マリヤが処女であることについて、あまりにも神秘的な意味を加えることです。聖書が語っていることの本質から逸脱してしまうことです。
過去においてカトリック教会はこの処女マリヤに無原罪性の教義を生み出し、聖母マリヤとして礼拝の対象にしてしまいました。

マリヤが処女であるということの最も重要なことは、聖霊によってマリヤが身籠もるということ、すなわち、神が、神の御わざによって、神の御子イエスを人間の中に宿らせたということが知らされるためです。

それは、主イエスが聖霊によって生まれた神の御子であることと同時に、マリヤの肉体を通して生まれた真の人間であることの証明でもあります。

この事実は、主イエスが神の御子であるのに、人間の母親の胎内に宿ることによって、神が人間の位置にまで降りて下さったことを意味しています(ピリピ2:6~8<p396>)。

そして、何故神はマリヤを選ばれたのかを考えるならば、彼女がダビデの子ヨセフの婚約者であること、ダビデにナタンによって預言された「あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。(Ⅱサムエル7:12)」 の御言葉の成就としてです。

また、福音記者マタイが引用している「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。<それは、訳すと、「神は私たちとともにおられる」、という意味である>(マタイ1:23)」のイザヤ書7章14節の預言の成就としてマリヤの処女性が考えられます。

しかし、私たちはマリヤの肉体的な処女性よりも、心の処女性、つまり、自分の人生を自分のものとしてではなく、主の前に明け渡す潔さに目を向けるべきでしょう。
ここに、主が求められる信仰があります。
「私は(私自身のものではなく)主のはしため(もの)です。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と従ったマリヤの素直な信仰に驚かされます。

最後にもう一度、繰り返し強調しますが、マリヤが「この身になりますように」と、御使いの受胎告知を受け入れることは、現実には決して「おめでとう、恵まれた方」と言われて喜んでいられる状況ではありませんでした。まかり間違えば死刑なのです!

しかも最愛の人、夫ヨセフに何と言えばよいのでしょう。彼が信じてくれる保証もありません。また、世間の謂れの無い誤解を招くに違いないのです。それでも神に従ったマリヤの信仰に驚きと尊敬を抱かざるを得ません。

マリヤは御言葉を聞く人でした。人を見るのではなく、神を見る人でした。
ですから、彼女は「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となる<ことを、私たちは知っている(ローマ 8:28)」>ことを体験できたのです。

しかし、御使いの受胎告知に対するマリヤの信仰において、最も大切な事は、マリヤの信仰は、神によって与えられた、ということです。
パウロも宣べています。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物<プレゼント>です。(エペソ 2:8)」と。

また神は、マリヤのために、先に聖霊に満たされ、マリヤの処女懐胎を喜び祝福するエリサベツ(ルカ 1:41)を与えておられます。
そして、最愛の人、夫ヨセフにも主の使いによって、マリヤの処女懐胎を理解する信仰が与えられています(マタイ 1:19~25)。マリヤはそのままでヨセフに迎え入れられたのです。
神は、マリヤに最善を配慮して下さっています。
そして何よりも、御使いが彼女に「聖霊があなたの上に臨み、(35)」と告げているように、御霊が彼女を導いているのです。

また私達は、神がマリヤに一方的に受胎告知されたことにも注目しましょう。マリヤがどうあろうと選択の余地がなかったことも知らなければなりません。
私達は私達がどうであろうとも、神は、神御自身の御旨をなさることを忘れてはなりません。
神の恵みはいつも一方的です。そして、人間の側でできることは、ただその事実をその身に受け入れ、神に自分を明け渡すことだけなのです。
そして、マリヤに「おめでとう、恵まれた方」と言う御使いの挨拶には、次のことばが続きます。「主があなたとともにおられます。(28)」と。

神が私たちと共にいて下さるのです。私たちの信じる神はインマヌエル(マタイ 1:23)の神です。
そして私たちもまた、「恵まれた者」なのです。何故なら、主イエスが共にいてくださることを知る者だからです。

マリヤに告げられた「神にとって不可能な事は一つもありません。」の御言葉は、私達にも与えられているのです。
そうです。神にとって、不可能な事は一つもないのです。
ですから、私達は日々の生活の中で、「もう、無理だ」「このような現実はどうしようもない」「どうせ、何も変わらないのだ」と嘆き、諦めて、神から顔を背けてしまうのはやめましょう。神の恵みは、迫っているのです。私にも、あなたにも。

ですから、私達は今日、このアドベントの時に、マリアのように全てを主に明け渡して、「成し給え汝が旨」、「あなたの御心のままになさって下さい。」と信仰を告白しましょう。