2025/11/16(日) 『あなたの敵を愛しなさい』ルカの福音書6章27〜36節:村松 登志雄 牧師

本日も先週からの続きの箇所です。ご一緒に見て行きましょう。

主イエスは弟子達<私達キリスト者>に「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。(27)」と命じておられます。
この御言葉は、キリスト者でない人にも有名です。しかし、キリスト者であっても、何か現実離れした美しい理想的な言葉として受け取ってはいないでしょうか。
しかし、主イエスは、私達キリスト者に、私達の現実の社会生活、人間関係での生き方として命じておられるのです。そして「できたら、そうしなさい」とは言っておられません。
ただ誤解しないでいただきたいのは、例えば、虐待等に対して、抵抗してはいけない、抗議してはいけない、という事ではありません。ここで「敵を愛しなさい」というのは、「自分で復讐してはいけない(ローマ12:19)」という事であり、その復讐心の問題は、相手を愛する<赦す>ところまで行かなければ、解決出来ない、という事なのです。

主イエスは、原罪と呼ばれる罪性を持つ人間には不可能な「あなたがたの敵を愛しなさい」という命令を通して、私達に「愛する」という事はどの様な事かを教えて下さっています。
主イエスはこの命令によって、私達が「愛」であると思っているものが、実は、本物の「愛」とは全くかけ離れており、似ても似つかぬ「愛もどき」であることを示しておられます。
主イエスは、その「愛もどき」とはどのようなものかを、次の御言葉で示しておられます。
32節から33節「自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています(32)。自分に良いことをしてくれる者たちに良い事をしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。(33)」と。
この「罪人」というのは、「原罪」の意味も含みますが、直接的には、一般的な意味での罪を犯している人、所謂、「悪い人」の事です。
リビングバイブルでは、「罪人」を「神を知らない人」と訳しています
主イエスは、あなたがたが「愛」だと思っているのは、一般的に悪い人と言われている人達、神を知らない人たちでさえ持っている、愛もどきであって、愛でも何でもないと言っておられるのです。

一般的な人間社会で成り立つ愛の関係というのは、自分を愛してくれる者を愛するということです。このような愛の世界は、どんな世界にもあります。ヤクザの世界にもあります。
実は、人間社会にある「愛」の関係とは、すべて利害によって成り立つ関係です。夫婦関係、親子関係、社会関係、すべてが条件付きの愛の関係です。これを、ギブアンドテイクの愛と呼びます。ですからそれは「愛」ではなく、「愛もどき」であると言っても、言い過ぎではないでしょう。
また、「愛」というと、身近な所で「母の愛」を思い浮かべます。母の愛とは深く、無条件で献身的な物のように思われ勝ちです。しかし、母親の愛とは本能的な愛であるかの様に言われた時代もありましたが、現代は、その母親の愛が本能的なものではない、という証拠を突きつけられる様な、痛ましい事件が次々と起きています。
しかし、自分を正直に見つめる事が出来れば、わが子に対する愛が、純粋なものではなく、自己愛の延長である事に気づくのではないでしょうか。
しかしそうは言っても、それでも多くの母親の、わが子の為ならばどんな犠牲をも惜しまない、というその愛は、人間社会に見られる最も美しいものであるとも言えるでしょう。

しかしそれでも、その愛は、感情による愛、です。可愛いわが子に対する、自然な感情です。どんな母親であっても、自然に湧いてくる感情ではないでしょうか。(但し、自分自身が傷ついている母親の場合は、そうは行かないのもまた事実です。ですから、「私はそのように親から愛されなかった」と悲しく思われる方もおられるでしょう。)

こういう訳で、自分の敵、憎む者、侮辱する者を愛する、という事は、罪性を持つ人間には自然な事ではありません。それは非常に不自然な事です。
私達は、主イエスが私達キリスト者に命じている愛と、罪性を持つ人間の愛とは、似ている様で全く違うものだということを知らなければなりません。
私たち人間社会にある愛の関係というのは、自然な感情の中から出てくるものです。自然な感情というのは「好きだったら愛せる」というものですから、嫌いだったり、憎んでいては、愛の感情は出てきません。

しかし、主イエスは、自然な<罪性の、自己中心性のままの>感情の発露による愛で敵を愛せ、と命じてはおられません。また、道徳的な意味で、敵を愛しなさい、と命じておられるのでもありません。
最愛の者を愛するような感情で、敵を愛することなど不自然であり、そのような愛は、罪ある人間には不可能だからです。

では、主イエスはどうして、このような不可能なことを命じておられるのでしょうか。しかも、できたら、ではなく、当然の事として命じておられるのです。

私達は、ここで、主イエスが、この命令を、どのような人達に命じておられるのかを、確認しましょう。主イエスは、この御言葉を「幸いな、貧しい人(ルカ 6:20)」に宣べておられるのです。
主イエス・キリストの十字架の血潮による罪の贖いによって、罪赦されたキリスト者、ただ神の恵みのみによって生かされていることを知っている者に、「できること」として命じておられるのです。
そして主イエスは、その理由を、35節「いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にも、あわれみ深いからです。(35b)」と言っておられます。
福音記者ヨハネも宣べています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」と。
神は誰一人<悪い人も>滅びる事を望んではおられないのです。全ての人を愛しておられるのです。主イエス・キリストの十字架による救いは、全ての人に与える為に準備されたプレゼントであり、信じるなら誰でも受け取ることのできるものです。

先週主日に私達は、聖餐式で、私達人間の全ての罪を負われて、十字架で死なれた、主イエスを覚えるために、主イエスの肉(パン)と血(ぶどう液)をいただきました。
主イエスは十字架につけられたご自分に、唾を吐き、罵詈雑言を言い、嘲笑う人々のために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのか分かっていないのです。(ルカ23:34)」と祈られたお方です。

そして私達も、かつては主イエスを十字架にかけて殺した人々と同じ様に、神に敵対していた者です。しかし今、私達は、私達の罪の為に、十字架で死んで下さった主イエスの愛を受け取った者として、この愛の中に生かされており、「敵を愛する」ことのできる者として生かされ、この愛の神の子ども(ヨハネ 1:12)とされている事実を自覚しましょう。

殉教者ステパノは、キリストの愛の中に生きる者として、自分を石打ちで殺そうとする者達のために、ひざまづき、神に大声で叫んで祈ったのです。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。(使徒7:60)」と。
そして「敵を愛する」という真の愛に生きるキリスト者達の愛の姿は、今日に至っても続いています。そして世の多くの人々にその愛の姿を見せています。その愛の実話は数限りなくあります。
ナチスの看守に拷問を受けた一人の女性クリスチャンが後に助かって、その看守に出会った時、その看守を赦したという実話。
人食い人種に命がけでキリストの愛を伝えて殺された宣教師の妻達が、その同じ人食い人種に、夫達と同じ様に愛をもって命がけでキリストの愛を伝え、ついに彼らをキリストの愛に導いたという実話。
日本人を愛し、キリストの愛を宣べ伝え続けた米国の宣教師を殺した日本兵の捕虜に対し、その殺された宣教師の娘さん<看護師>が復讐するのではなく、彼らの為に献身的に仕え、その愛の姿に心打たれた日本兵が、キリストの愛に導かれたという実話。

私達キリスト者は、この実話を私達にはほど遠い、関係のない事として、単なる美談として、聞いてはなりません。神は、私達にも、神の子どもとして相応しく、その愛を持って生きる使命を与えておられるのです。
「敵を愛する」とは、感情による愛ではなく、意志をもって行う愛です。「敵を愛する」とは、具体的には、その「敵を赦す」という事です。

しかし、この意志による愛は、人間の努力によってなされるのではありません。それは罪ある人間の持つ感情によってはできないことであり、「御霊による意志」を持つ事によってしかできないことです。
私達キリスト者に与えられている御霊の実(ガラテヤ 5:22~23)とは、「キリストの愛(Ⅰコリント13: 4~ 8、ヨハネ14:16)」なのです。
このキリストの愛は、キリストと共に生きる者に与えられている(ヨハネ15: 5)のであり、すでに私達キリスト者には、御霊によって「キリストの心(Ⅰコリント2:16)」が与えられているのです。

そして、敵に対する「憎しみ」は、それがどんなに正当であったとしても、人間に喜びを与えることがなく、その人を滅ぼすサタン<悪魔>からの感情です。→エペソ 4:26~27、6:12
私達キリスト者には、御霊によって、その憎しみの感情に勝利を得る、意志による愛を実践する力が与えられているのです。
もし、あなたが敵を愛せない事で苦しみを覚えるのであれば、あなたは御霊に導かれているのであり、サタンと戦っている証拠です。

新賛美集に「愛をください」という賛美がありますね。子ども達がよく歌っています。
♪ イエスさま私に いつでも笑顔を あふれる感謝を  赦せる心を どんな時でも どんな人にも 与える愛を 愛をください ♪ と歌っています。
私達が、この賛美の様に、祈るならば、それまでの「憎しみの感情」に代わって、必ず「赦しの意志」が与えられます。
何故なら、祈るという事は、愛の神に向かい、愛の神と交わる事だからです。
主イエスが「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい(27~28)」と命じられたのは、自分の感情に従わないで、とにかく神の御前に出なさい。そうすれば、神があなたを、敵を愛する<赦す>者に変えて下さるという事なのです。

あるキリスト者が愛についてこう語っています。「愛は、自分だけを見つめ、自分と他人との関係で、自分を中心にしているところにはありません。愛は、私達が、神の御前に置かれる時にのみ、与えられるのです。」と。

そして、人間にとって、愛する事、赦す事は、相手ではなく、まず自分自身が慰めを受け、癒され、そして最高の平安を得る事なのです。
その平安を経験させるために、主イエスは私達に「あなたがたの敵を愛しなさい」と命じておられるのです。

そしてパウロも宣べています。「愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。(コロサイ3:14)」と。
ですから、主イエスの「あなたがたの敵を愛しなさい」という命令は、「神の御子をあなたにお与え下さったほどの神の愛の中に生きなさい。」ということなのです。
この神の愛の中に生きる時、私達は敵をも愛する者に変えられている事を知るのです。そして、憎しみに勝利する者となって、人間としての最高の喜びを経験するのです。

主イエスは言われましたね。ご自分を裏切ったペテロに三度も「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」「あなたはわたしを愛していますか。」「わたしを愛していますか」と(ヨハネ21:15~17)。
この主イエスのペテロへの問いかけは、御自分を裏切ったペテロへの赦しの言葉です。ペテロを求める愛の言葉です。

そして今、私達もまた、主イエスから問われています。「あなたはわたしを愛していますか。」と。
これは主イエスが、私達の<主イエスに対する>愛を求めて下さっているのです。
主イエスは、私達が「敵を愛する者」となる為に、まずご神ご自身を愛する事を願っておられるのです。
何故なら、私達は、主イエス・キリストとの愛の交わりの中でのみ、真の愛の人として生きる事が出来る者であるからです。

ですから、さあ今 、これほどまでに主イエスに愛されている私達は、主イエスの愛に心から応える者にならせていただこうではありませんか!