本日はいつものルカの福音書を離れ、ヨハネの福音書の中のある一人の女性に起こった出来事から、すでに信仰を持たれた方もまだの方も共に「信仰の原点」なるものを見て行きましょう。
本日の聖書箇所の背景には、この時すでに主イエスの噂はパリサイ人達の耳にも入り、しかも事実とは少し違って伝えられていたようです。
そこで主イエスはユダヤを去り、ガリラヤに向かいました。そのガリラヤに行くには、南にユダヤ、北にガリラヤがあり、その真中にサマリヤ地方があるので、サマリアを通過することが最も近道です。
しかし当時、多くのユダヤ人はサマリアを通過せず、ヨルダン川を渡り、険しい遠回りのコースを選ぶのが常でした。
それは、「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったから(9)」なのです。
その理由はサマリアはソロモンの死後、イスラエル統一王国が分裂した(Ⅰ列12:1~24)後の北王国イスラエルの首都でしたが、北王国は紀元前721年にアッシリヤに占領されてイスラエル十部族が補囚となり、サマリアに他民族が入り込みその雑婚によって混血民族となり偶像礼拝を行うようになっていたからです(Ⅱ列17:21~41)。
それで人種的純粋性を失わなかったユダヤ人は彼らを同じイスラエル民族ではなく異邦人として軽蔑し、対立するようになっていました。要するに、ユダヤ人は偶像礼拝者のサマリヤ人を嫌ったのです。
ですから、主イエスのサマリア通過は異例な出来事であった訳です。主イエスがサマリアの町に来られたことには特別な意味があったと考えられます。
そして主イエスには当時のユダヤ人のような排他性がなかったことが分かります。
主イエスはどんな人でも受け入れるお方です。すなわち、主イエスはキリスト者だけでなく、キリスト者でない人も、全ての人の主なのです(Ⅱコリント5:14,ヨハネ3:16)。
さて主イエスは旅の疲れで、ヤコブの井戸と呼ばれるその傍らに腰をおろされました(6)。 この事から、主イエスが私達と同じ生身の人間であり、私達人間の弱さの全てをご自分も体験され、同情できるお方である(ヘブル4:15)事が分かります。つまりイエス様は疲れもし、喉も渇き、お腹も空くということです。
また、「時はおよそ第六の時(6)」と言うのは、日の出から数えて6時間後というユダヤ時間で昼日中のことであり、口語訳聖書は「時は昼の12時頃」、共同訳は「正午頃」と訳しています。
そんな昼日中、ひとりのサマリヤ人女性が水を汲みに来ました。この女性はかつて5人の男達と結婚、離婚を繰り返し、しかも今は結婚関係にない、つまり同棲中の男がいるという生活をしていた様です。
ですから、彼女自身もそんな自分に引け目を感じていたのかもしれません。日中の最も暑い時に水を汲みに来たのはそういった冷やかな世間の目を避ける行動だったかもしれません。
さてそこで誰もいないと思ったヤコブの井戸に見知らぬ男性が腰を下ろしています。一目で彼女は自分と同じサマリア人ではなくユダヤ人であると分かりました。
彼女は思いました。今まで会った男達とは何か違う、品位があるのでラビ(ユダヤ教の教師)ではないかと思いました。その男性が彼女に「わたしに水を飲ませてください(7)」と言われたのです。
ここで、主イエスとサマリアの女性との会話(やりとり)の部分の聖書箇所 9節から18節をご一緒に朗読してみましょう。(朗読;p182)
主イエスに「わたしに水を飲ませてください(7)」と言われた女性は思わず驚いて「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。(9)」と聞きましたが、これは不思議なことではありませんでした。
何故かというと、ユダヤ人はサマリア人を異邦人として軽蔑していましたし、それにサマリアの女性は汚れていると見なされていたからです。
ですから、彼女は『どうして自分の様な女にそのような事を、、、』と思ったのでしょう。 この時の彼女の言葉の奥底には自分自身を卑しめるものがありました。その事でそれまでの彼女の生活が幸せでなかった事が分かります。
しかし主イエスの言葉には軽蔑的な響きがありませんでした。ですから彼女は驚いたのです。全く対等に、自分に向かって「わたしに水を飲ませてください。」と、謙遜な態度で接してくださる主イエスに。
ですからこの時の 彼女の心は『どうして私の様な女に!?』と思う気持ちと同時に、自分で自分を卑しめているその自分を温かく受け入れてくれる主イエスの〈愛〉を感じ始めていたかもしれません。
ところが、主イエスは彼女の質問には直接お答えにならずに、「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいと言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。(10)」と言われました。何かすぐには解らないお言葉です。
神の賜物(10)というのは、神の恵み、神からの贈物「プレゼント」の意味であり、ここでは「生ける水」のことです。彼女はこの「生ける水」という言葉に心がとらわれていました。
「生ける水」とは直接的な意味では「美味しい、良い水」のことでしょう。水量が豊富なヤコブの井戸でもかなわない、泉から湧き出る水(エレミヤ2:13「湧き水の泉=主」)、あるいは山の小川から流れ下るような水(ゼカリヤ14:8)です。
彼女は思ったかもしれません。「やっぱり変だわ、この人!さっき自分の方から水を飲ませてくれと言ったのに。」と。
しかし、そう思いながらも、彼女の心に不思議な変化が生じていました。
主イエスは、彼女が今、必要としている現実の水を通して、彼女が本当に求めるべきものへの渇き<必要>に導かれたのです。
しかし、彼女はそのことにまだ気づいてはいませんでした。彼女は自分の生活にウンザリしていました。だからと言って、自分の生活をどうすることもできません。一人で生きることなど寂しくてできません。
彼女は、馬鹿な自分だと思いながらも自分ではどうすることも出来ない寂しさを、裏切られると分かっていながら、頼るべきでない男達にその心の穴を埋めてもらおうとしていたのです。
そして世間には、ふしだらな女だと思われていることを承知しているので、こんな昼日中、人目を忍んで水を汲みに来ているのです。
彼女は、変だな変だなと思いながらも、「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。あなたは、私たちの父ヤコブ(ユダヤ人もサマリヤ人もヤコブ<イスラエル>は同じ先祖であり。サマリヤ人はモーセ五書のみを聖書としている。)よりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。(11、12)」と聞きました。
彼女は主イエスに何となく権威のようなものを感じ始めていた様です。
確かに主イエスは汲む物(道具)を持っていません。だから彼女に願われたのです。しかし、主イエスが言われた「生ける水」というのは、彼女が思っているところの、もっと良い現実の美味しい水ではなく、「永遠のいのちへの水(14)」、すなわち霊的な水のことです。
主イエスは彼女を直接的な水の必要から、霊的ないのちへの水の必要へと導かれたのです。
主イエスは彼女にお答えになりました。「この水を飲む者はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。(13~14)」と。
主イエスが彼女(私達)に与えようとしておられるその水は、ただ渇きを覚えない、単に満たされているということだけではなく、彼女(私達)の内側からこんこんと湧き出る喜びの泉であり、永遠のいのち、そのものなのです。
そこで彼女は、尊敬の心をもって主イエスに、「主よ。私が渇くことがないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。(15)」と求めました。
この時彼女が、まだ明確に霊的な水の事だと気づいていないとしても、彼女の心には、おそらく、実際的な水の求めと霊的な水の求めとが混ざり合っていたのではないかと思います。
そして彼女の心が、真っ直ぐに主イエスに向けられていることは確かです。
ところが、主イエスはまたも、彼女の求めに対して直接お答えにならず、いよいよ彼女の心の渇きの原因を具体的に示され始めました。
それは、彼女の男性関係への言及です(16)。具体的に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。(16)」と言われました。
しかし、主イエスは意地悪で彼女の男性関係を言われたのではありません。彼女が、主イエスに心を向け、漠然としたものであっても、霊的な渇きを感じ始めていたので、彼女のその心の渇きの原因に目を向けさせたのです。
その心の渇きの原因とは、彼女自身の生活の空しさ(罪の生活)です。彼女は、自分のふしだらな生活に対する世間の目を気にはしていました。
しかし、その自分の姿を真正面から見つめることはしませんでした。自分に原因があるのではなく、「男運が悪かったのだ。相手が悪かったのだ。私は不幸な女だ。」と、被害者意識で、自分を憐れんで慰めていたのです。
しかし、自分の原因を取り除かないで、相手に要求しても、そこには何の解決もないのです。相手ではなく、自分自身が原因なのです。
主イエスは言われましたね。「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせる<神に向き直させる>ためです(ルカ 5:31~32)」と。
罪ある人間は、自分の病に気づかない(認めない)限り、医者を必要としないものです。
この時彼女は主イエスに、「その水を私に下さい」とお願いしたのに、主イエスはそれには答えて下さらなかっただけでなく、『どうして、私のプライバシーに土足で入って来るのか』、と思ったかもしれません。
けれども彼女は当惑しながらもはっきりと「私には夫がいません(17)」と答えました。
主イエスは彼女の当惑を知りながら言われました。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは、本当のこと(ありのまま<新共同訳>)を言いいました(17~18)」と。
主イエスは彼女を責めているのではありません。それどころか、彼女の正直な告白を賞賛さえしているのです。「あなたはよく本当のことを言ったね。」と。
「ありのまま」と言う言葉の響きは、とても良く聞こえますが、本当は、自分の「ありのまま」、自分の罪性を認めるのは難しいことなのです。
しかし主イエスは、そのあるがままの彼女を受け入れて下さったのです。
彼女にとって、自分のありのままの姿をさらけだすのは苦しかったことでしょう。
しかし主イエスは、彼女の隠しておきたい部分、かたく閉ざした心の奥の、ありのままの自分、他人の所為にしている被害者意識、その罪性を明るみに出されました。
それは彼女にとって非常に苦しい事です。被害者意識でいるならば、他人の所為にできるからです。本当は心のどこかで、自分でも、自分自身の問題である事は分かっているのです。
しかしやめられないのです。孤独で、寂しくて、ずるずると今の生活に引きずられているのです。しかし、『私が悪いんじゃない。運が悪い!男運が悪い!自分を幸せにしてくれる男を求めて何が悪い!』などと開き直っても、心の空しさを晴らす事はできないのです。
ですから、主イエスは彼女のそのありのままの自分、自分でどうすることもできない弱さ、他の人に、男性に、幸せを求め、しかし、心の内側で呻いている空しさを隠すことができなくなっている自分に気づかせて下さったのです。
彼女は、人にふれて欲しくない隠していた部分を主イエスによって明るみに引き出されました。しかし、不思議なことに、かえって楽になり平安になりました。
何故なら主イエスは、彼女の空しい罪の生活を責めるのではなく、彼女のそのままを受け入れて下さったことが分かったからです。
「私には夫がいません。」と言った彼女の当惑と過去の苦い思い、空しく満たされない心の全てを、主イエスがご自分の苦しみ悲しみとして受け入れてくださったのが分かったからです。
主イエスは、人間が自分の心の罪を自覚することの辛さ、苦しさをよく知っておられる(ヘブル 4:15)のです。ですから、彼女の正直な告白を賞賛してくださったのです。
それが、人間の、自分の力ではどうする事も出来ない罪を背負って下さった、主イエス・キリストの十字架の愛なのです。
そして、彼女は気づきました。自分が求めている生ける水は、すでに今、主イエスから与えられていることを。
彼女は、彼女の内側から泉となって、永遠のいのちの水が湧き上がって来るのを感じ始めていたのです。ですから、彼女は真の礼拝を、真の神を、真の救い主を求めたのです(20~25)。 主イエスは、彼女に、「あなたと話しているこのわたしが、それです。<すなわち、あなたの求めている救い主ですよ。>(26)」とほほえんで応えて下さったのです。
その時、きっと、彼女は、罪赦された確信と、心の空しさから解放された喜びが湧き上がって来るのを感じながら、主イエスにほほえみ返したでしょう。
彼女にとっては自分を幸せにしてくれる男性が自分の生きがいでした。しかし、主イエスに出会って、本当の生きがいを見つけたのです。
それは、他の人に依存して生きるのではなく、主イエス・キリストに、神に依存して生きる生き方です。
私たちの友なる主イエス、私たちの弱さに同情し、恵みを下さるお方(ヘブル4:15~16)と共に歩む人生です。
では、私達はどうでしょうか。
あなたは今、何によって、いいえ、誰によって心の穴を埋めようとしていますか?
あなたは今、何を、いえ、誰を、あなたの生き甲斐としているでしょうか。
最後にもう一度、サマリヤの女性が主イエスに出会った場面に戻って、最も大切な事を確認しましょう。
サマリヤの女性は、偶然に主イエスに出会ったのでしょうか。
否です。主イエスは、スカルというサマリアの町のヤコブの井戸に水を汲みに来る女性に出会う為に、ユダヤ人の多くが避けるサマリアにわざわざ来て下さったのです。
神のなさる事に偶然はありません。神のなさる事の全ては必然なのです。
ですから、サマリアの女性が、主イエスに出会ったのは、偶然ではなく、必然なのです。
神の愛の必然です。99匹の羊を残して、迷子の1匹の子羊を探し求める神の愛の行為です。
そして、その主イエスは、あなたにもそうして下さっているのです。 あなたにも、決して渇くことの無い、「生ける水」が与えられるのです。あなたのうちで、永遠のいのちへの水が湧き出る泉が与えられるのです。
そしてあなたにも、主イエスは出会って下さるのです。いいえ、今ここで出会って下さっているのです。その証拠は今、あなたがこの礼拝で主イエスの御言葉を聞いている事です。
あなたには、あなたの人生において、自分にとってマイナスに、失敗に思える事があったでしょうか。しかし、主イエスは、そのマイナスをプラスに、失敗を益に変えて下さいます。
この主イエスに出会ったサマリヤの女性は、人目を忍んで、最初に求めていた水を入れる為の水瓶を放置して町に行って、多くの人々に証言しました。「来て、見てください。私のしたことを、すべて私に話した人がいます。この人がキリストなのでしょうか(29)」と。他人の目を忍び自己卑下していた彼女が、その思いから解放され、真の神を示す人となったのです。
主イエスに出会うならば、あなたのそのマイナスに思える経験は、それを経験して良かった、いいえ、それを経験したからこそ、今の私がある、と思える様になるのです
そして、こう告白できるのです!「苦しみに会った事は、私にとって幸せでした。それにより、私は神の愛を知りました。(詩119:71)<意訳>」と。 主への感謝を祈りましょう。
