主イエス・キリストは、十字架上で息を引き取られました(マルコ15:39)。数名の女性達に見守られながら(マルコ15:40~41)。
「その日は備えの日、安息日(土曜日)の前日(金曜日)であったので(15:42)」、「アリマタヤ出身のヨセフという人が、勇気を出してピラトのところに行き、主イエスのからだの下げ渡しを願い出ました。(15:43)」このヨセフは、「有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。(15:43)」人です。福音記者ヨハネは「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り下ろすことをピラトに願い出た。(ヨハネ19:38)」と記し、次の39節には「以前、夜イエスところに来たニコデモも」と、ニコデモも登場しています。また福音記者ルカは、「さて、ここにヨセフという人がいたが、議員の一人で、善良で正しい人であった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった。(ルカ23:50~51)」と記しています。いわゆる隠れキリスト者です。主イエスが生きておられたときには、明確に弟子であることを公言していませんでしたが、主イエスが死なれてから、弟子であることを公言しているのです。(言葉ではなく、行動において)
何故彼は、明日に延ばさず、この時に、主イエスの遺体の下げ渡しと埋葬を願い出たのでしょうか?安息日には、一切の仕事が禁じられていたことによります。安息日は、午後6時頃から始まるので、埋葬は至急に為されなければならなかったからです。また、中近東の猛暑の中、遺体の損傷もひどくなってしまうことも考えられます。申命記21章22~23節では、死刑囚の遺体の処理は次の日まで延ばしてはならないと命じられていることもあると思います。
さて『アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き(43)』とありますが、この表現には、逃げ隠れした弟子達との対比も含まれていると感じます。しかし、主イエスに関わることは、社会的経済的地位を危うくする行為であり、また、主イエスの死刑の決議に対する批判(ルカ23:51)も含んでいたのかも知れません。いずれにしても、このような時に、一人で名乗り出る勇気は並大抵のことではないと思います。主イエス・キリストは、勇敢で真実な信仰を持って埋葬を申し出たアリマタヤのヨセフとニコデモ(ヨハネ19:39)と、最後まで主イエスを見届けようとした数名の女性達(弟子達)が見守る中で葬られました(15:46~47)。
週の初めの早朝(日曜日の早朝)、女性達が主イエスの墓に行くと、大きな墓石が転がしてあるのを見て、墓の中に入ると、そこには主イエスの遺体がなく、真っ白な衣をまとった青年(御使い)見えました(16:1~5)。そして御使いは彼女たちに言いました。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。(16:6)」と。
主イエスを愛する女性達、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、安息日(金曜日の日没から土曜日の日没前)が終わるまで、内なる思い(主イエスを愛する思い)をじっとこらえながら待っていたに違いないのです。「日が昇ったころ、墓に行った(16:2)。」とあるので、おそらくまだ人々が寝静まっている明け方に、墓に向かったと思われます。精一杯の用意をして(「主イエスのからだに油を塗りに行こうと思い、香料を買って(16:1)」)かけつける彼女達の思いをあざ笑うかのように、大きな障害がそこにあります。墓の入り口には、大きな墓石が置かれて塞がれているのです。彼女達は「『だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた(16:3)。」とありますが、無理です!福音記者マタイによれば、その墓石に封印がなされ、しかも番兵が墓の番をしてるのです(マタイ27:66)。その番兵達が、彼女達のために墓石を転がしてくれるはずがありません。
彼女達の願いは、現実には不可能なことです。それでも彼女達は墓に向かったのです。不可能な現実を知りながら。それでも、もしかしたら、と1%の希望を持っていたのでしょうか? とにかく、前に進んでいるのです。立ちはだかっている現実を知っていながら、心を痛めながら、墓に向かっているのです。
何故、彼女達は、その現実を知りながら、それでも墓に向かって行ったのでしょうか?復活の主に会いに行くためでしょうか?否です!彼女達に復活の信仰はなかったのです。御使いは彼女達に言いました。「あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。(16:6)」と。彼女達は、主イエスの死体に香油を塗りに行きたい、と、墓に向かったのです。
では何故、それでも彼女達は墓に向かったのでしょうか?彼女達には、一切の計算、打算抜きに、燃えるような主イエスに対する真実の愛があったからだと思います。人間的には、無駄かも知れない、100%そうに違いないことに対して、理性的であるよりも、感情的かもしれませんが、彼女達の、主イエスに対する燃えるような愛が優先したのです。彼女達は、主イエスから与えられた愛、はじめの愛から、ずっと燃え続けていたのです。
特に、マグダラのマリアについては、「彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人(マルコ16:9)」と記されています。そのことは彼女にとって、暗闇の世界から、光の世界に生きる者とされたことであり、絶望の人生から希望の人生を与えられたことです。彼女は癒された後、十二弟子と共に主イエスに従った大勢の女性弟子達の一人(ルカ8:1~3)であり、主イエスの献身的な弟子の一人です。彼女は、主イエスがエルサレムに向かったときも、その一団の中におり、主イエスが十字架に架けられた時も、遠くから主イエスが息を引き取られるのを見ていた女性達の一人であり(マルコ15:40~41)、主イエスの埋葬のとき、その場所を見届けていた女性達の一人です(マルコ15:47)。すべてを超えた主イエスへの愛が、彼女達に、人間の世界では愚かな行動を、しかし、神の国においては素晴らしい行動を起こしたのです。
人間的な考え方ですが、本来なら、復活の主イエスは、まず十二弟子達に現れるのが自然ではないかと思います。しかし、復活の主イエスは、まず、女性達に空の墓を示し、マグダラのマリア(マルコ16:9)や女性達にご自身を現されたのです。十二弟子達は、彼女達の口を通して、復活の主イエス・キリストの知らせを聞くのです。
主イエスは、繰り返し、繰り返し、ご自身の復活について預言しておられました。しかし、それを信じて、墓に行った者は一人もいないのです。早朝、墓に行った女性達も、主イエスの死体に香油を塗るために行ったのであり、復活の主イエスに会いに行ったのではありません。そして、何よりも、十二弟子達の鈍さに驚きます。主イエスはかつて弟子達に、こう言われました。「彼ら(外の人達<マルコ4:11>)は、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることがない。彼らが立ち帰って赦されることのないように。(マルコ4:12)」と。しかも弟子達にはその前に、「あなたがたには神の国の奥義が与えられれていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。(マルコ4:11)」と言っておられます。しかし現実には、神の国の奥義を与えられている弟子達も、外の人達とあまり変わらないのです。
救いがたい人間の姿を見ます。しかし、そのような人間であるからこそ、主イエス・キリストは、この世に人間としてお生まれになり、人間の弱さをご存じであり、人間の救いがたい罪<愚かさ>のために、十字架の罪の贖いの御業を全うして下さったのです。そして復活を通して、私達のいのちの回復を現実のものとして下さったのです。
そして神は、力強い男達ではなく、男尊女卑の罪深い社会で下に見られている女性達を復活の証人と用いられたのです。選ばれた十二弟子達ではなく、男性の弟子達を背後にあって支えてきた女性の弟子達を用いられたのです。
復活の主イエスにお会いし、男性の弟子達に、その喜びのニュースを知らせる女性達の存在によって、男性の弟子達は、主イエスの復活を知ることができたのです。否、その喜びのニュースを聞いた時も、その喜びのニュースを信じなかったのです。まことに、「見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることがなかった。」のです。
神は、男性の弟子達ではなく、初めの愛から、さめることがない、燃えるような愛、真実な愛を持つ女性の弟子達を用いられたのです。
何よりも大切なことは、主イエス・キリストに対する愛です。参照;Ⅰコリント13:13主イエス・キリストは、その後、裏切ったペテロに問うています。「あなたは、わたしを愛しますか(ヨハネ21:15~17)」と。
御使いは、女性の弟子達を通して、男性の弟子達に命じています。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。(マルコ16:7)」
主イエスを見捨てて逃げた弟子達、主イエスを否んだペテロ、愚かで、弱く、不信仰な弟子達をなおも愛し、見捨てず、否まず、彼らの信仰の原点(主イエスとの出会いの場所)であるガリラヤに、「先に行って待っているよ」と招いて下さっているのです。特に「ペテロに」と、最も悲しみ、落胆しているであろうペテロへのあわれみが込められています。
私達にも、復活の主イエスご自身が、信仰の原点、ガリラヤで待っていて下さいます。この素晴らしい、主イエスの招きに応えて、主イエスに出会う、今日のガリラヤはどこでしょうか?復活の主イエスは、今もなお、主イエスの名において集まるところ(マタイ18:20「二人か三人が、わたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」)に、そして、私達のキリストのからだなる教会の中で、親しく出会って下さるのです。
今日のこの週の初めの日に、主の日に、私達は、主イエスへの燃えるような愛を願い、主イエス・キリストに出会うことを願い、復活の主イエス・キリストと共に過ごすために、教会に集っているのです。
